2割の男

その日、男は会社を初めて休んだ。
勿論、風邪やインフルエンザに罹り、止むを得ず休むことはあったが、嘘をついてまで休むのは今日が初めてのことだった。

彼は昨夜、結婚まで考えていた女性に別れを告げられたのだ。電話越しの彼女の声は力強く、彼に説得の無用さを悟らせるには十分だった。

会社での評価は悪くなく、人当たりも良かった彼は、ひとつのプロジェクトを任されていた。このプロジェクトが成功すれば、評価も上がり、少し余裕が出てくるだろう。その時こそが、いよいよ彼女にプロポーズする時なのだと考えていた。
しかし彼の想いは露知らず、彼女の辛抱は限界を迎えていたということだ。

仕事を休んだ彼は、大きな喪失感と小さな罪悪感を抱えていた。ピシッとしたスーツを眺めながら、今日は何をしようか考えてみるものの、仕事以外にこれといった趣味もない。
部屋にいると彼女のことを思い出してしまうので、彼は休日くらいしか着ることのない服に身を包み、散歩へと出かけた。

住み慣れた町に、違う雰囲気を感じていた。こんなところに、こんなものがあったのか。平日昼間の顔が新鮮だった。

家から少し離れたところまで歩いてみると、一軒のカフェに目が留まった。
看板を見ると「残り2割の巣」という店名のようだ。奇をてらった少し恥ずかしい名だな、と彼は思ったが、喉も渇いていたので思い切って入ってみることにした。

カランカラン。中は思っていたよりも落ち着いていて、店名ほど突飛な空間ではないことに少し安心した。8人ほど座れるカウンター席があり、テーブル席は多くない。小さなカフェだった。

丸眼鏡に白髪混じりの口髭を生やしたマスターは、いかにもな感じがして、ちょっとだけ笑いそうになった。彼はカウンター席に腰を掛け、アイスコーヒーをください、とマスターに伝えた。それから店内をゆっくりと見渡した。
スーツを着た男。大学生くらいの女の子。Tシャツにサンダル姿の男。皆1人で来ているようだった。

アイスコーヒーをひとくち飲み、彼はマスターに声をかけた。
「変わった店名ですね。由来か何かあるんですか」
マスターはグラスを拭きながら彼に目をやった。
「お兄さん、仕事はお休みですか?」
質問に答えてくれないことに戸惑いはしたが、初めて休んだという事実を誰かに話し、罪悪感を和らげたいと思っていた彼は「今日は休んでしまったんです」と素直に答えた。
マスターは目線を手元に戻し、グラスを置くと、また彼を見つめた。
「このお店の由来は、あなたのことです」
「へ?どういうことですか?」
彼は動揺した。初めて入ったカフェの店名の由来が自分の事だと言われたのだから、無理もない。彼はこのマスターが、自分は不思議な人間です、と言ってきているようで浅ましく思った。
「否、もちろんあなた自身のことではなく、あなたのようなひとという意味ですよ。お兄さん、働きアリの法則ってものをご存知ですか? 働きアリというのは、実はみんながみんな働いてるわけではなく、8割しか働いていないそうなんです。」
「というと、このお店は、残りの2割の働いてない方のための場所ということでしょうか?」
「そういうことです。どんな社会にだって、働きたくない方がいるものですよ」
初めて仕事を休んだ日に偶然見つけたお店だったので、彼は運命のような気持ちになっていた。興味を持った彼は、マスターに次々と質問を投げかけた。
いつから始めたのか、きっかけは何だったのか、どんなひとがやってくるのか、彼は次第に楽しくなっていた。

二杯目のアイスコーヒーを飲み終える頃には、このお店には何故だか、働きたくないと思ってしまった人達が集まってくるということも分かった。働きたくないと思ってしまった理由はそれぞれで、マスターはその理由について語り合う存在となっているそうだ。
彼自身も自然と、初めて仕事を休んでしまった理由をマスターに語っていた。
陽も落ち始めた頃、彼はお店を後にした。会社に連絡した時とは違い、肩も軽くなり、彼女のことも少し気楽に思えるようになっていた。

それから彼は会社に行くようになったが、時たま嫌なことがあり仕事を休みたくなると、カフェに向かうようになっていた。
マスターはいつも耳を傾けてくれる。夜はお酒も出るので、仕事終わりなんかに行くことが増えていた。

ある日のこと、彼の例のプロジェクトが突如終了となってしまった。予算の関係や、部下の些細なミスなどが重なり、プロジェクトは道半ばで、その道を失うこととなった。
彼は呆然としてしまった。彼女のことを何とか忘れ、このプロジェクトの成功だけを目標に身を粉にして働いてきたのである。

明日からの気力を失いかけていた彼の足は、当然のようにカフェに向かっていた。マスターに会いたい。同じ働きたくないと感じている2割の仲間と会話してみたい。一歩一歩は重かったが、彼は何とか辿り着いた。ドアに手をかけ、ぐっと体重を預けた。

が、ビクともしなかった。ドアが閉まっているのだ。よく見ると、ドアには貼り紙が貼ってあった。

「もう働きたくない。 マスター」

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