睡眠欲が止まらない。#ショートショート

彼は、欲求に弱い男であった。
と言っても、彼の同僚たちのように色欲に狂い買春で財をすり減らすわけでもなく、日に三度で事足りる食事を悪戯に増やしたり、飲み歩いたりするわけでもなかった。彼は、ただただ眠ることが好きだった。

眠りに落ちる前の浮遊しているかのような時間、身体が寝具と一体となったような安堵感。眠るということが、彼にとって至福の時であったのだ。いくら寝ても、寝足りない。食事をしている時でさえ、仕事をしている時でさえ、恋人と情事に勤しむ時でさえ、彼は常に眠たかった。

そんな彼に人生で最大の悩みが立ち現れた。
ここのところ、眠りが浅くなり、少しの物音で至福の時から現実へと覚まされるのである。

どうしたものかと頭を抱えている彼に、同僚がとある医者を勧めた。訊けば、その医者は睡眠のスペシャリストという。
彼は職場を飛び出し、一目散にその医者のもとへと駆け込んだ。

小汚いビルに、その医者の診療所はあった。
タバコ臭い部屋に入ると、白髪混じりの医者と思しき男が座っている。
彼は悩みの一切を早口で、しかし取りこぼしのないように医者に説明した。医者は、ふむふむと相槌を打ちながら、カルテらしきものに何かを書き込んでいた。
「おたくさんの悩みは分かりました。さぞお辛いことでしょう。唯一の楽しみである睡眠を十分に満喫することができないというのは、愛煙家が飛行機で世界一周に連れ回されるようなもんだ」
「先生、それで僕の悩みは、何とかなるのでしょうか」
「なりますとも。私はその道のスペシャリストですからね。とりあえず、この薬を出しておきましょう。また必要になったらここに来ればいい」
その晩、彼は久しぶりに深い眠りにつくことができた。
夢の中では身体も軽く、まるで水の中にいるように、心地よかった。彼の人生において、ここまで夢の時間を楽しめたのは初めてのことであった。

それからの彼は仕事、飲食、性行為の全てを眠りにつくための過程と考えるようになっていった。眠りが浅くなる恐れがあるのでパソコンと対峙する時間を極力減らし、睡眠中の血液を少しでも脳に集めるために食事を量を調整し、セックスはとことん激しくなった。

眠りに落ちる瞬間、夢の中での生活を心底愛していた。薬を飲む量も増え、いつしか眠っている時間の方が多くなってきた彼。

夢の生活に慣れ始めた頃、新たな悩みが生まれた。とうとう彼は、夢の中でも眠くなるようになってしまったのである。しかし、夢の中で眠りにつくと更なる夢の世界に落ちていくわけではなく、現実世界に引き戻されてしまうのであった。
そんな日々が続くようになり、彼はまた頭を抱えるようになってしまった。
医者だ。こんなときは、例の医者のもとへと行かねばなるまい。

ここ数日の悩みを例の医者に、ぶつけるように相談した。
「そうかい、そうかい。それはとても可哀想なことになったもんだ。まあ心配はいらんよ。あんたにうってつけの薬がある。ただね、非常に強い薬だから、副作用が発生することもある。試しに1錠渡しておくから、今夜飲んでみなさい。薬が効かなかったり、副作用が出たりしたら、またここに来なさい」

その晩、彼は祈るようにして、薬をくちに投げ入れ、布団の中に潜り込んだ。

「あれから暫く経つが、彼の姿を見なくなったところを見ると、薬はしっかり聞いたみたいだな。きっと安らかに眠っていることだろうよ」
白髪をぽりぽりと掻きながら、医者はタバコをふかしていた。

最後まで読んでくださり、ありがとうござました! 映画や落語が好きな方は、ぜひフォローしてください!