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社会不適合者の私について


私は数年前まで

「人は年齢を経るごとに、または周囲の環境が変わるごとにその環境にふさわしい行動がとれる生き物」だと思っていた。


学生になれば【集団生活】が出来るようになる
バイトをしたり、社会に出れば【ルールを守って働くこと】が出来るようになる
一人暮らしをすれば【身の回りのこと(自分で起きること、家事)】が出来るようになる
夫や父、妻や母など役割を担うことによってそれにふさわしい行動が出来るようになる
年を重ねると、要領よく早く物事が出来るようになる

もしその行動が出来ないということは「自分の頑張りが足りないからだ」と。


こんなことを思っていたくらいだから、自分もいつか普通の日常を過ごせると思っていた。

朝起きて身支度をして会社に行き、仕事をこなし、帰宅して家事を行い、お風呂に入ってスキンケアをして眠る

そんな大抵の人がこなせる当たり前の日課が私には出来なかった。

子供の頃は「いつかできるようになるよ」と、
学生時代は「努力すれば出来るようになるよ」と、
大人になったら「努力が足りないんじゃないの?もっと頑張れ」と
周りの人は言った。
相談なんかしてもどの人からも同じ言葉が返ってくる。
だから相談することもやめてしまった。
なにより同じ言葉を返される度に「お前は駄目だ」と責められているようで胸が締め付けられたから。

そして、「何も言われないように自分だけの力で改善しなければ。もっと頑張らなきゃ」と試行錯誤していた。
しかし、今思えば自分自身も周りの人と同じような言葉を自分に対してかけていた。

大人になってADHDと診断されてからは余計にその考えに拍車がかかった。
「人よりも出来ていないのだから何倍も、何十倍も努力しなくては」と。

そして、ある日身体が動かなくなった。
「鬱」との診断だった。

そうなっても尚、
「なんて自分はメンタルが弱いんだろう。もっとちゃんとしないと」
と更に自分を追い込んでいた。


身体も心も折れてとうとう今まで騙し騙し見て見ぬふりをしてきた「社会不適合者の私」という現実に正面から向き合わざるを得なくなった。

やはり初めは「社会不適合者の私」を受け入れることが出来なかった。
駄目な人間、まともに生活できない私には価値がない、生きてても仕方ない...
そんな言葉ばかりが頭に浮かんだ。

だが、今は「社会不適合者の私」をひとまず受け入れることができている。
正確に言えば、【今の社会に不適合なだけ】と割り切ることができるようになった。

こう思えるまでには周りの人たちのたくさんの支えがあったおかげもある。
しかし、周りの人がどんなに優しかろうと、支えてくれようとそれだけじゃ足りない。
最後には自分が【自分自身】を受け入れなければ袋小路から逃れられない。

自分を許そう。
社会不適合者でもいい。
何をしていても、生きている限り前に進んでいる。
今の自分を受け入れた上で「もっと変わりたい」と思い続けたら、自分が変われる機会はタイミングを見て訪れてくれるから。
焦らないで自分のペースで生きていけばいい。

これを読んでくれている人は日常を普通に過ごしている人、私よりずっと大変な思いをしている人、自分を奮い立たせながら忙しい日々を送っている人、生きる希望を無くしそうな人、様々な人たちがいるのは重々承知だ。

だが、境遇は違えども、それぞれの人生の中で「葛藤」を抱えながら生きているという点では皆同じだ。

現代は誰もが簡単に発信出来る世の中になって色々な意見が交わせる一方で、匿名で発信できるからこその批判や中傷にも強制的に晒されてしまう。
スピーディーな現代にみんな無理をして、そのストレスが誹謗中傷という形になって表れているのかもしれない。

周りからのストレスは自分ではどうすることが出来ない。
だからこそ、今はまず自分自身を許そう。
そうしてみんなが少しでも自分を許し、受け入れることが出来たなら、
世界はもう少し優しくなるのかもしれない。


何が言いたいかわからない文になってしまったが、
葛藤を抱えているすべての人の幸せを願って。

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