自分の操縦が上手くなるはなし
上坂あゆ美さんとひらりささんの「交換ノート」を読んだ。
信用できる言葉に出会えたとき、心が弾むような気持ちになる。そして私自身がコミュニケーションを必要とするヒトであることをより明確に実感する。SNS内で疲弊した言葉に出会うたびに、傷つくとまではいかないが、とてもやり切れない感情を抱く。バズりのために消費される言葉にはあまりに味がない。味がなさ過ぎて逆に濃いみたいな、意味が分からない感覚。逆に生身の人間に立脚した言葉は生気を感じる。オカルトチックだがこの感覚的なものは何なんだろうと不思議に毎回思う。ちなみに猫ミームはめっちゃ好き。まだめっちゃ味する。
成長を「自分の操縦が前よりも上手くなること」と定義したくなる気持ち、凄くよく分かる。私自身も成長したいという気持ちは強いが、それは世間のためではなく、あくまで自分自身がよりよく生きるため。週末のサウナに喜びを感じたり、仕事で誰かに喜んでもらえたり、美味しいものを食べて思わず頬が緩んでしまうような日常を享受するために私は成長したい。
成長という言葉をどこか真正面から受け止められなくなったのはいつからだろうと考えてみると、新自由主義的な、資本主義に飲み込まれた「成長」に嫌気がさしたからなのだと思う。そんな成長のために神経をすり減らして、ストレスを甘んじて享受してなるものかという覚悟めいた感情が心の中心に幅を利かせて鎮座している。こういう気持ちを心の中にしまっておくことが出来ないからわざわざ時間を取ってnoteに書いているのだが、これも自らを上手く操縦するための1つの行為なのだと思う。
しかし操縦が上手くなっているという感覚はあってもとにかく不安なのである。無尽蔵な不安は20代特有のものなのかもしれないが、サウナが若い層に人気なのもこの拭いきれない不安が要因のように思う。とにかく社会規範から逃れられない。新しい時代がいくら来てもこの気持ちからは逃れられないんだろうという結論に現状至っている。恐らくこういった不安は自分だけのものではなく、誰しもが抱えるものなのだと思う。
今週もサウナ行って自分の輪郭をもう一度なぞってきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?