サドル狂想曲56 死を覚悟
バイクで敷地を出る時、雄太が目線を横にずらしミラーを見たのはほんの偶然だった。サイドにオプションでつけた円形の広角ミラーは左右の視界が大きく広がり後ろを通る人や車の姿をかなりキャッチする。右のミラーの中央に横切る人影が目に入った瞬間、雄太はブレーキをかけ後ろを振り返った。クラブハウスの裏手から山際を通り厩舎に続く小径をインストラクターのジャンパーを着た男が歩いている。フェイスシールドを上げて確認した雄太はその人影が天雅であることに気づいた。エンジンを切り音を立てずに駐車場の端まで移動すると、小脇に何かを抱えて坂道を上がっていく天雅の後ろ姿が見えた。
あの通路は厩舎からクラブハウスへ行く以外に使われることはない。あいつがハウスから出てきたとしたら、一体何の用で…… ?
雄太は不吉な予感を感じて天雅の言葉を思い出した。
生理的に受け付けません。あの人の名前、僕の前で出さないで下さい。
ヘルメットを脱ぐと雄太はバイクを降りて駐車場と敷地を仕切るフェンスを軽く飛び越え、天雅の歩いて行った細い獣道を慎重に辿っていく。 この胸のざわめきが単なる杞憂で終わることを祈って、厳しい目で厩舎の並ぶ丘の頂を見つめていた。
貴賓室のソファに幣原は腰かけ葉巻をくゆらせていた。傍らのベッドには薄いピンクのブラとパンティだけで縛り付けられた青葉が眠っている。目隠しは外されていた。幣原は舌打ちをし葉巻をもみ消すと大きく息を吐いた。
天雅の奴、怪我なんぞさせおって。要領の悪い仕事ぶりだ。
ちらりと青葉を見やると、黒いシルクのガウンを纏った幣原は立ち上がりベッドへ向かった。まだ幼さすら見える体型に流した涙の跡が痛々しい。だが幣原にとってそんな憐憫の情など一寸も浮かばない。哀れな生贄が目覚めた時、驚きと羞恥で狼狽する姿を想像するだけでこの上ない愉悦の境地に浸る。退屈な毎日が続いたせいか、幣原はこの狂宴が来るのが待ち遠しくてたまらなかった。
既に小道具も準備してある。生娘め、どんな声で啼くのか楽しみだ。
サイドテーブルに置かれた鞭や首輪、手錠を満足げに見つめ、サド侯爵は業の深い笑顔を浮かべた。
雄太は一番手前の厩舎に明かりの灯る部屋を見つけた。当直のスタッフが使う仮眠室だ。簡素なベッド付の個室だが大概のスタッフは事務所内の医務室に置かれたベッドを利用するので、近寄る者は滅多にない。
天雅は、そこにいる。 雄太は確信を持って歩くスピードを上げた。厩舎の入口は開けられたままで、左右の小屋には夕食を終えたサラブレッドが立ったままウトウトしている。馬に気づかれないよう気配を消しながら、雄太は突き当りの仮眠室に近づいた。ポケットの中にあるスマホのカメラモードを起動し、そっとドアノブを捻って薄く隙間を作ると真っ先に目に飛び込んだのはベッドに置かれた女物の服と出刃包丁だった。雄太の目は、切り裂かれた白い上着に釘付けになった。
あれは、あいつの誕生祝の日に来ていたボレロだ。瞬時に予感の的中を悟った雄太は、デスクに座ってパソコンを操作する天雅の肩越しに見えるスクリーンに向かいスマホのカメラを向けた。ギリギリまでズームインをかけると、スクリーンには4つの画面が映っていた。ピントが合って鮮明な画像が浮かんだ瞬間、雄太の全身に戦慄が走った。ベッドに仰向けに縛られた青葉が目を閉じて横たわる。下着姿のままの全身と顔のアップが様々な角度で切り替わる。鎖骨に見えるのは紅い血だ。一気に激情が迸り、雄太は音を立ててドアを開けた。
振り返った天雅は引きつった表情で雄太を見ると、身を翻してベッドに飛びつき出刃包丁を手に取った。興奮と動揺で目尻が赤く燃えている。
「 よせ。今の俺にそんなもの見せるのは逆効果だ 」
「 もう遅いよ。あの女は売られたんだ。侯爵は部屋に入ってる。もうすぐ始まるよ 、楽しいパーティーがね 」
「 売ったのは、お前か 」
「 ノン気の男ってバカだよね。あんな貧弱な体で安っぽい下着の女に200万払うんだから 」
雄太の顔に名状し難い怒りが広がっていく。天雅は笑いながらその様を見つめた。
「 あんたが悪いんだよ。他の女みたいに、すぐに叩き出してくれると思ったのに何もしないから俺が代わりに罰を与えてやったんだ 」
「 青葉は、どこにいる 」
「 キスまでして… 俺の事は一方的に犯して捨てたくせに… 」
天雅の息が荒く乱れ、雄太を怨嗟の籠った目で睨み据える。雄太が包丁を跳ね飛ばすタイミングを図りながら近づこうとした瞬間、青葉の服の下あたりから携帯の着信音が流れた。気を取られ目線を外した天雅に間髪入れずに飛び掛かると、雄太は包丁を持つ右手を押さえようとした。しかし、雄太の動きを予測していた天雅は仰向けにベッドに倒れこんで雄太の動きを受け流した。崩れたバランスを体幹で持ち直しながら、雄太の目線は決して天雅の顔から離れない。天雅は不可解な叫び声をあげて、覆いかぶさる雄太の左肩めがけて包丁を振り下ろした。
シャンデリアの灯りが目に入った。私は、生きている。
茫然として周りを見ようとしても繋がれた手足が邪魔して左右と天井しか見えない。意識が戻っても、これじゃ逃げる事は出来ない。どうしよう、大きな声を出したいけど、力が出ない…
「 やっと起きたか。気分はどうだ 」
声の方を見た。知らない男の人が私を見下ろしている。
「 あなたは… 誰ですか 」
「 今宵のお前を買い受けた。傷は手当済みだ。心配するな 」
傷… 思わず私は胸の方に目をやった。見えたのは下着姿で脚を開かされた、気の遠くなる自分の姿だ。
「 い、いやあああ! 見ないで、見ないでください!」
私は狂ったみたいに手足をばたつかせた。大きな笑い声がして、男の人は私の顎を掴んだ。
「 私は今夜の主催者にして名誉会員の幣原。お前は今から処女をこの私に捧げるのだ」
この人、何を言ってるの? 激しく首を振って、私は男を睨んだ。
「 ほどいてください、こんなの、犯罪だわ !」
「 ここには俗世のルールは通用しない。強いて言えば、私がルールを全て作り変える。準備をしてくるからしばらく待っていろ 」
大股でソファの向こうの部屋に入っていく。この人が、幣原… ひどい、私をだまして連れてきたんだ。逃げなきゃ、どんなにあがいても鎖は外れない。冗談じゃない、あんな爺に犯されるなんて絶対に嫌だ。もし無理やり奪われたら… その時は死んでやる。私は唇を噛んだ。絶対に泣かない、泣くもんか。如月チーフや進藤チーフ、守ってくれたのにごめんなさい。私はきゅっと手を握った。
せっかく幸せになれると思ったのに。
3人で食べた美味しい料理。ベッドで抱きしめてくれた優しい手。私は短いけど素敵だった瞬間を思い出しながら、女の生き方に腹を括ってどうやって綺麗に死ねるかを考えた。
続
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