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湖岬


自転車を漕いだ。湖沿いの深夜の路地を夜歩く蟻達を追い越して、
後ろには私の腹を抱くように掴まる亜麻色の髪が一人。
無機質に冷めきった路地の切れ目を渡ると月光の当たり方もやや変わって夜光虫の喧騒が嗚呼唯、よく見える。
砂防林の間からその様子を眺めて、夜風が私の前髪を引っ張る。
亜麻色の髪はまだ目を覚まさない。

この反対の岸には大層立派な大学病院がある訳だが、この静寂の中でその夜景が湖面に反射し、夜光虫や月光を押し殺しつつあるのには些か寂寥を胸に落としつつ、また夜の帳の上を行く単発機を眺めながら、亜麻色に語った。
「君には夜風はわかるかい?」
「……」
「いいか、夜風というのはだな、
あの飛行機の上をゆく旅人の溜息なのだ。」
亜麻色は私を抱いたままだった。
段差を超える振動がタイヤのゴムを通して腹へと抜ける。

亜麻色の居たのは小さな花園のある邸宅の窓枠であった。
窓枠からその美しい髪を流して、遠く湖面の港を眺めていて、その手には少しばかり水の滴る如雨露が握られていた。
「なぁ、君。」
亜麻色は頬杖を付いたまま私の方を見た。
「港を見たいのか。」
亜麻色は小さく頷いた。
私の母に彼女はよく似ていた。
「今夜、家の前へおいで。」
彼女の書いた一枚の手紙によれば
彼女は四人の姉と住んでいて、あの小さな花園の手入れをしているらしい。なんでもあの邸宅は彼女達の為の棲家ではなくて、彼女は彼処で住み込みで働く庭師らしかった。

彼女は時々その手紙の中で湖岬に足を運びたいと言った。
白く澄み切った彼女の姿が小岬の縁で道化の如く両手を広げるのを想像した。

今夜の静寂の中で私はようやく湖岬に着いた。深緑の年季の入った自転車はやや軋み舗装の剥がれた路面に土を退けて停車した。 
亜麻色は眠ったままであった。
私は彼女を胸に抱くと、
「着いたぞ。」
と一声言った。
それでも彼女は目を覚まさない。

思い返せば彼女は、手紙の中で一度だけ眠りについて触れていた。

「目を閉じて、真っ暗の中で隠された私の体は程よく冷やされて花園にもよく似合うでございましょう。
眠るとは思い出に浸る事、
無になるという事。逃げるという事。睡魔に身体を呑まれるという事。本来あるべき静寂になるという事です。
私は湖面と月光と花々の中で眠りたい。」

亜麻色は動かなかった。
僅かに首元は冷たかった。

「私がもし起きなくても私の上へ生を成功した花々は咲きます。
それだけで良いのです。」
月光がその白い顔を照らした。
ワンピースのポケットから緑青色の瓶がゴトッと落ちた。
「夜に世界は目を瞑ります。
私達は星の子だから、私達も目を瞑る。夜行に従うのみなのです。」
私は彼女の身体をゆっくりと湖面へと置いた。
亜麻色の髪。酷く白い肌。長い指。小さな耳。瞳。瞑られたまま。
彼女の身体は波へと揺られて、湖の沖へと流されていった。

「ありがとう。さようなら」

私はその場に足を崩した。
淡い月光の中で、唯睡蓮が咲くばかりだった。

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