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先生

    人妻は汗ばんだ額や首筋に布地を押し当てて肌色の汗を染み込ませた。普段よりいくらか荒い呼吸は熱く湿っている。布地は視界の果てまで限りなく続いていた。シルクか木綿か学の無い人妻には分からなかったが、それは化学繊維だった。廊下はどこまでも限りなく続いていた。人妻の夫である私はそれを見ていた。

「仕方ないじゃない。汗だくで先生のところへ行くなんてできないわよ」

「ああ、分かってるよ。それに、先生だってそのことを分かってくれるさ。先を急ごう」

    私たちは再び歩き始めた。廊下はどこまでも限りなく続き、臙脂のカーペットの模様は一定間隔での繰り返しを無限に繰り返していた。窓は常に左手に等間隔に配置され化学繊維の白のカーテンは連綿と続いていた。右手の壁に時折現れる暗い色の樫の扉は全てに鍵が掛けられていた。夫である私の妻である人妻は几帳面なヒステリックさでガチャガチャとドアノブを捻り、それら全ての扉が開かないことを確かめる度に怒りと悲しみを前面に押し出した猥雑な感情表現を露わにした。

    私は過去に読んだとある文章を思い出していた。雑誌の切り抜きかなにかだっただろうか。蒸し暑い夏の川べりに背の高い草の繁るぬかるみのそばにしゃがみ込んでその文章を読んでいた。サンダルかなにかの軽薄な靴底にいくつかの小石の入り込んだ感覚を足の裏に確かめていた。むせ返るような草と土と水の混じり合った匂いが周囲の全てを包んでいた。文章の内容のことはさほど覚えていなかった。今そのことを思い出したのはこの廊下の蒸し暑さからだろうか。妻の必死の様相からだろうか。あの時の私はその文章を読んで何か巨大な感情に駆られ必死にその場を離れたように思う。あの紙切れには何が書かれていたのか。

    私の右手に握られたペットボトルを妻が睨みつけていた。残りわずかのこの水はまず半分を妻が飲み、残り半分を私が飲むということに決まっていた。妻はその水を勢いよく半分より少し多く飲み干して私に手渡した。そして、少し進んだところで残った水を更に半分に分けて自分によこすように持ちかけた。私は半分の水の半分を妻に与え、四分の一残ったそれを少しずつ飲んだ。そしておよそ残り一口となったペットボトルの水を、妻は睨みつけている。少しの逡巡の後、私は妻にペットボトルを渡した。

「そうよね。私も残りは私が飲むべきだと思っていたところだったの。だってあなたはそうやって何もせずただ歩いているだけなんだから。私はさっきからずっと開いてる扉が無いか調べているのよ。少しでも早く先生の所へ行けるかもしれないのだから、これは必要な仕事なのよ。それをあなたの代わりにやってあげているんだから、あなたより少しくらい多く水を飲む必要は間違いなくあるわよ」

    そう言うと妻は即座に残りの水を全て飲み込み、空になったペットボトルをその場に投げ捨てた。

「だって元々この廊下に落ちてた水なんだからここに置いておくことにはなんの問題も無いはずよ」

    妻は唾を飛ばしながら私の視線に弁明した。こうして空になったペットボトルは廊下の隅に無造作に横たわり取り残されることとなった。

    その後、チェーンソーを持った大男が樫の扉を破って廊下に姿を現し、轟音を唸らせて私と私の妻を切りつけ、硬い大腿骨に回転する刃が引っかかり、跳ねたチェーンソーは大男の右腕と肩の付け根にも致命の深い切り傷を与え、三者の血液の混じり合う血みどろの溜め池は無限に続く廊下のちょうど中頃にいつまでも存在し、先生と呼ばれた何者かの存在も、かつて私が読んだ何らかの文章の内容も、全ては宇宙の虚空の彼方へと消え失せることになった。

    しかし、そうしたナンセンスで些か性急な結末を最も嫌悪する宇宙の虚空の嘔吐感から来る蠕動運動によって無限に続く廊下は再びその存在を明らかにした。つまり私と私の妻は運良く一命を取り留め互いに手を取り合って再び歩き始めた。産まれたばかりかのようなおぼつかない足取りは少しずつ元通りの正常な歩行運動へと修正されていく。あたかもそれは人間が産まれ落ちてから歩行機能を獲得するまでの過程と何一つ変わらない普遍的なものに思えた。宇宙の虚空による実存の修正は続けられ、宇宙の虚空にせっつかれてよろけた拍子に私の左手が何かを掴んだ。それは、無限に続くかのように思われた廊下のループの切れ目だった。ループの切れ目を掴んだまま転倒した私が顔を上げると妻の目の前に次元の狭間が開けていた。そして、そこに先生は居た。

「よく来たね。君たちを信じて待っていたよ」

   高次元の上位存在である先生のことを私も私の妻も知覚することは出来なかった。が、恐らくそこに居るのだろうというメタ認知と次元の狭間に吹き荒れる磁気嵐による情報の撹乱によってうっすらとした声のようなものだけが私たちの脳内に響いた。

「うるさい。黙れ、俺は誰だ」

    背後から絶叫が聞こえた。振り返るとちぎれかけた右腕でチェーンソーを引きずる大男が立っていた。大男は再びチェーンソーを振るおうと全身に力を込めた。しかし、チェーンソーと右腕の重量に耐えきれなくなった右肩の筋繊維は呆気なく右腕を切り離し、大男はバランスを失いよろけて次元の狭間へその身を投じた。大男の絶叫はプリズムを通った光のように七色に拡がり放散した。同時に次元の狭間と廊下の境界がみるみるうちに不安定になり、床や壁の実体の揺らぎがそこかしこに伝播して行った。まず先に妻の方が足元をすくわれる形で転倒し次元の狭間に飲まれた。四つん這いの体勢でいくらかもがいた私もすぐにそれに続いた。

「あらら」

    上位存在のムカつく声が聞こえた気がした。肉体は拡張と収縮を同時に繰り返し、停止した。自分が光の速さに達したことを極めてわずかな、限りなく短い時間の中で自覚していた。


    川べりの茂みの中で手にした紙切れにはそんな物語が書かれていた。夫と妻と大男、宇宙の虚空と上位存在の登場するそのお話が僕には妙に恐ろしく実感を持って感じられた。気が付くと日が傾いて辺りは薄暗くなっていた。僕は紙切れをその場に捨てて立ち上がり走って家に帰った。夕焼けの向こうの空は夜の顔を覗かせていた。その奥には宇宙の虚空が伏線回収ご苦労さまとでも言いたげな顔でこちらを見ている気がした。

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