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彼女ができた話

   友人に彼女ができた。
   僕が写真を見せて欲しいと頼むと、彼はにこやかにスマホを叩き、ほい、とこちらに画面を向けた。それは髪を乱し白目をむいて眠っている女性の寝顔をこれでもかと低い角度で下から撮ったものだった。うわ、こいつ、と思った。友人はウソウソと言い、何度かスワイプしてちゃんとしたツーショットの写真を見せた。最近のスマホは高い。夜のシンデレラ城をバックに、友人の彼女はしっかり可愛く写っている。平日、昼過ぎの中央線は人がまばらで、冬晴れの陽気と適度な振動が心地よかった。

   それからしばらくして、サークルの飲み会が開かれた。近しい友人らの付き添いのようにして加入した軽音サークルだったが、音楽は好きだったし活動自体はそれなりに楽しく割かし充実した日々ではあった。しかし、こと飲み会となると僕は持ち前の人見知りを遺憾なく発揮して隅の方でじっとしているのが通例となっていた。僕と仲のいい友人やバンドメンバーらには僕の他にも仲のいい友人やバンドメンバーらがいて、席替えなどと言って狭い座敷席の間をひっきりなしに行ったり来たりしていた。

   突然ドサッという音がして見ると見知らぬ女性が僕の隣に座っていた。色落ちした茶髪のロングヘアがサラサラと、まるでそれぞれが意志を持っているかのように気ままに揺れている。首にはオーディオテクニカのヘッドホンが掛けられている。彼女はレモンサワーかなんかのグラスを両手で持って机に肘をつくと、こちらを向いて僕の目を見て、乾杯しよ、と微笑んだ。素朴な顔立ちでメイクもシンプルめなようだったが、一際長いまつ毛が特徴的で、くしゃっと潰れる笑い方が酷く印象的だった。

   唐揚げの衣の茶色いカス、千切りキャベツの残骸、氷が溶けて目一杯薄まったびしょびしょのハイボール、誰かの靴下の毛玉、机にこぼれたチャンジャの汁、何かの料理に乗っていたであろう糸唐辛子、煙草の吸殻が山盛りの灰皿、何故か折れている割り箸、乾ききったイカの塩辛、くしゃくしゃに丸められた箸袋と折り畳まれて箸置きにされた箸袋、ケチャップの方が人気でマヨネーズばかりが残っているフライドポテトの皿、割り勘の後に取り残された誰かの五円玉、電子タバコの機械のカスを取り除いたと思われる先端の汚れた爪楊枝、溶けてバランスを失った梅酒のグラスのロックアイスが転がる音、誰かが頼んだ手の込んだデザートにかかっていたフルーツソースの匂い、最後までビールだった誰かのグラスに残った白い泡。
   それら全てが暖色の照明に照らされて煌めいていた。くしゃくしゃのマスクを忘れ物としてカウントするかどうかは微妙なラインだった。

   雑居ビルの前の歩道に群れを成してまだ盛り上がっている大学生。僕もその一員なのに、一歩引いて自分だけは通行人の邪魔にならない位置に立った。隣にはさっきの彼女が立っている。

   安居酒屋の奥座敷のさらに最奥で人知れず乾杯し直した僕らはひたすら好きなバンドのことを話した。嫌というほど、気が済むまで話した。彼女はMAN WITH A MISSIONが好きだと言った。僕はナンバーガールが好きだと言った。彼女はNICO Touches the Wallsが好きだと言った。僕はスカートが好きだと言った。そして、THE ORAL CIGARETTESの話をした。ドレスコーズの話をした。BLUE ENCOUNTの話をした。ニガミ17才の話をした。Lenny code fictionの話をした。ハヌマーンの話をした。DOESの話を、the cabsの話を、BURNOUT SYNDROMESの話を、D.A.Nの話を、Brian the Sunの話を、Bialystocksの話を、そして、never young beachの話を、フジファブリックの話を、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの話を、RADWIMPSの話を、Mr.Childrenの話をした。
    意気投合というほどではなかったが、いくらでも話していたいと思った。

   二次会へ向かう集団の最後尾からさりげなく離脱して、僕と彼女は夜の街をあてどもなく歩いた。月が綺麗だった。公園の自販機で温かいココアを買ってベンチに座って飲んだ。冬の夜風の凍てつく寒さなどどうでもいいと思った。

   あー、エモいなぁ。この状況、エモすぎる。彼女のことがどんどん好きになっていく。めちゃめちゃ好きだ。どんどんってか正直最初に隣に座ってきた瞬間からめっちゃ好きだった。あー、生きててよかった。フラワーカンパニーズも自然と出ますわな。こんなにエモくてええですの? あー、可愛いー。横顔、可愛いー。でもまだお互いの名前すら知らないんすわ。そういうのもまたエモいんすわ。ずっと音楽とかの話してるの。それでいて全然会話途切れないの。凄くない? あー、気持ちいいー。夢じゃないよね。え、これ、夢じゃない? ……。……夢じゃないわ。最高ー。

   パジェロ西森です。

   隣に腰掛けて萌え袖でココアをちびちびと啜る彼女が自分のことをパジェロ西森と言った時、僕は本当に目眩がした。

   パジェロ西森? と僕が聞くと彼女は小さくそれを肯定した。口元をココアで隠しながら上目遣いで首を縦に振る様は非常に可愛い。なのになんで……。

   なんでパジェロ西森なの?

   それはね、と言って彼女はバッグから何かを取り出した。それは星条旗柄のシルクハットだった。ますだおかだの岡田のハッピーボーイのやつ。彼女はそれを被ってみせた。彼女がこちらを向いている。ずっとそうだ。彼女はずっと僕の目を見ている。目を見て話し、目を見て笑ってくれる。だから僕は彼女と通じ合えているような気がしていた。彼女とならずっとこうして笑い合っていられる気がしていた。それなのに、彼女は、パジェロ西森……。なんかもう何も考えられなくなってきた。

   あれ、今どこに居る? なんか急に何も分からなくなってきた。彼女の気配もベンチの硬さも公園の寒さも何も感じない。夢かな? 本格的に夢だったパターンかな? 真っ暗というかなんというか、どこかに居るという感じが全く無くなった。自分がどういう体勢でいるかも分からない。これは夢だったパターンぽいな。なんだよパジェロ西森って。ハッピーボーイの帽子とかも鬱陶しいわ。てか明日仕事か? 明日ってか今日か。起きたら仕事行かないといけないのか。……うわー、相当ダルいわ。全然大学生じゃないし、ゆっくり寝た感じもしないし。あー、まだ彼女と喋っていたい。エモの渦巻くあの公園のベンチに。どうにかならんか。もう一回眠りに落ちて夢の続きに滑り込めないのか。なんかたまにそういうのあるじゃん。二度寝したらさっき見てた夢の続きから始まるやつ。に、できないすか、今回も続きから行きたいんすわ。彼女が待っとるですよ。寒い公園のベンチで。あー、仕事ダルいわー。もう完全に起きてるわこれ。脳味噌が働き始めちゃってるもん。もう一回寝れんかな。こういう感じになっちゃったらもう全然寝れないよな。あー。ダルいなー。めんどくさい。


   彼女の履く底の厚いブーツがカツカツと鉄の階段を上っていく。彼女のアパートは駅から遠かった。僕は二人分のコンビニ袋を両手に下げて彼女が扉の鍵を開けるのを眺めていた。

   あのさ……。

   顔色を伺うように彼女がこちらを向く。

   部屋片付けたいからここで待っててって言ったら怒る?

   彼女の発言を無視してずけずけと部屋に入るふりをすると彼女は慌てて、ごめんごめん分かったから、と言って僕を部屋に招き入れた。

   彼女の部屋は物が多く、それでいて上手いこと全部が良い位置に収まっている感じが一人暮らしの最適解という感じで好感が持てた。CDラック兼用の本棚の余白にぐでたまとかタキシードサムとかのガチャガチャのフィギュアを並べてる感じとかがグッとくる。そういうのを割とジロジロと見る僕を、彼女は怖々とした表情で見ていた。今にも何か都合の悪いものが見つかってしまうのではないかといった表情だ。

   い、今飲まないやつ、しまっとくからちょうだい。

   コンビニ袋を受け取った彼女はチューハイを何本かテーブルに置くと、残った何本かを冷蔵庫に入れた。僕はもう一つのコンビニ袋からじゃがりことかをテーブルに並べた。じゃがりこはじゃがバターが至高、というのはコンビニでの僕と彼女の共通の見解だった。

   彼女がリモコンを操作して僕のU-NEXTのアカウントにログインした。サブスク見れるテレビ、この部屋で一番高価かも、と彼女は自慢げに言った。あれは? と、壁に掛けられたいかにもヴィンテージっぽいニルヴァーナのTシャツを指さす。奇跡的にそんなしなかったんだ、と彼女はもっと自慢げに言った。口元に覗く八重歯が眩しく光っていた。

   私ネトフリくらいしか入ってないんだけど、U-NEXTも結構良さそうだね。

   月々結構するけどね、と僕は言った。僕らはあいみょんの甲子園球場でのLIVE映像を流しながらちびちびとチューハイを飲んだ。まったりとした、それでいてソワソワするような、気持ちのいい時間がゆっくりと流れた。アロマキャンドルの小さな灯りがゆらゆらと僕と彼女の影を揺らした。

   私の名前ね……。

   彼女は唐突に名前を名乗ろうとした。僕は即座にそれを制止した。それを聞くと何かが終わってしまう気がした。

   ち、ちょっと待って。あの、確かに僕らはお互いの名前も知らないまま、こういう感じになってるけどさ。んー、でもそれでも良い気がするんだよね、なんか。

   そっか、と言って彼女が立ち上がった。すりガラスの扉を開けて廊下に立った彼女はこちらを振り返って言った。

   君って素敵な人だね。

   しばらくしてシャワーの音が聞こえ始めた。

   来たー。来たわ、これは。君って素敵な人だね? え、もう、それはあれじゃん。はー、こんなに上手くいって大丈夫か俺は。いやー、最高だね。もうどうなっても知らんぞ、とか言って。完全に浮かれてるわ。ちょっと気を引き締めないと。しっかりしろよ、俺。……いやでもこれは浮かれるわ。浮かれてもいいやつでしょこれは。浮かれないやついるか? この状況で。

   あいみょんの歌う声、彼女がシャワーを浴びる音、その向こうに何やら騒がしい声が聞こえた。立ち上がってベランダに近づいてみると、通りの方から大勢の人々が盛り上がっているような声がしている。酔っ払いの集団でも通ってるのか、カーテンを少し開いて外を覗く。しかしパッと見それらしき人影は見当たらなかった。でも声は確かに聞こえる。大勢で口を揃えて同じ言葉を繰り返しているようだ。耳を澄ませる。

   ッ……。ッジェー……。ジェーロ……。パッジェーロ……。

   パッジェーロ!パッジェーロ!

   パッジェーロ!パッジェーロ!

   パッジェーロ!パッジェーロ!

   パッジェーロ!パッジェーロ!

   スローモーションで回転しながら飛ぶダーツの矢。チップ、バレル、シャフト、フライト。ゆっくりと直線的な軌道を描き宙を漸進する。進行方向には回転する円盤。通常のダーツ盤とは異なるカラフルなデザイン。クルクルと回転するランニングマシーン、デジタルカメラ、たわし、アクセサリー、たわし、ノートパソコン、たわし。一際目を引く赤く塗られたエリアにはパジェロと書かれている。

   トンッ。

   軽快な音と共に矢が突き刺さった。ゆっくりと減速し停止する円盤。矢は、パジェロのパの半濁点に命中していた。

   湯気の立つ温かな水が排水溝に吸い込まれていく。シャワーヘッドから放たれたそれらは浴槽を目掛けて飛び込み、浴槽はそうしたものたちで溢れかえっている。絶え間なく溢れ続ける浴槽の水。そしてそれらは一様に真紅に染まっている。浴室にはシャワーが水面を叩く音のみが響き渡っていた。浴槽の縁に上体を預ける裸の女。彼女の左腕は浴槽へ投げ出され力無く水面に浮かび上がっている。手首の薄い皮膚はぱっくりと切り裂かれている。傍らには血液を纏った携帯用の剃刀。彼女の全身は異様なまでに白い。浴室から脱衣場を抜け廊下の先には薄明かりのリビングに通じるすりガラスの扉。テレビのスピーカーからは女性の歌う声とアコースティックギターを爪弾く音。テレビ画面の煌々とした光に照らされて影を伸ばす缶チューハイ。一度も読まれなかったツァラトゥストラを有する本棚。萎びた観葉植物の根元にはにわかに埃が積もっている。ベランダから吹き込む夜風にポリエステルの薄いカーテンがめくれる。ベランダに一人佇みキョロキョロと辺りを見回す男。表情はニヤニヤと弛緩している。着衣の下腹部には興奮と緊張の跡が。小さな音がして男の口元が明るむ。煙草の先端が赤く光ると欄干にもたれる男は煙を吐き出した。夜の街の明滅と喧騒を見下ろしていた。

   男が彼女の亡骸と対面し、多大なるショックと精神的ダメージを一人で請け負い、他者とのコミュニケーションに絶望感を抱き、大学を辞め、部屋に籠るようになり、飲食と排泄と睡眠と自慰に明け暮れ、全身の皮膚が茶色く煤け、手首や首元からバリバリと飛び散る角質の欠片が床に積もり、やがて偶然目にした深夜アニメに感化され、一念発起するに至り、アニメーターを志し、オンラインで制作会社の面接を受け、採用担当者の刈り上げやワックスのオールバックやかっちりしたスーツ姿などに落胆し、みるみるうちに情熱は萎れ、インターネットに入り浸り、自己を否定する仮想の外敵に対する一方的な怨恨をあたかも一般化された問題かのように語り、いくらかのインプレッションを稼ぎ、いくらかの批判の声に晒され、相変わらず風呂には入れず、部屋も出れず、自慰に励み、自慰の遍歴やその異常性などをインターネット上に公開し、陳列されたそれらを誇り、観衆の声を求め、インターネット上をさまよい、自慰を繰り返し、性器は爛れ、出血や化膿を繰り返し、腐乱としか言えない状況に性機能を失い、それらの模様は全世界に配信され、幾人かの目に留まり、吐き気や目眩を誘発させ、やがて部屋に巣食う虫けらに見守られながら息を引き取ることになるのは、まだ先の話である。


   自分でも驚くほどに呼吸が浅い。ひゅうという風を切る音の力のなさに笑ってしまった。喉に血の味がある。笑うと喉が切れるのか。肺が痒い。眼が痒い。乾燥するとよくない所が乾燥して痒い。もはや寝返りを打つことすら出来ない。辛うじて肘から先を持ち上げて左手を顔の上に持ってくる。割り箸のような手首である。ペヤングを食べ終わった後の割り箸の茶色さと汚さ。汚れた手で目を擦った。瞼の皮膚がくしゃくしゃと波打ち、さらさらと垢が剥がれ落ちる感触がある。痒い目を擦るのは気持ちがいい。自慰を諦めてからというもの、やたらと目を掻くようになった。射精こそ無いがある程度の快感を得られるのである。涙でぼやける視界でもう一度左手を見た。いつからか左手の手首に切り傷の跡のようなものが出来ていた。赤く腫れた一本の直線が手首の腱の上を横断している。眺めていると具合が悪くなる。ぼとっ、と左手が布団の上に落ちた。

   死ぬのは怖くない。ここに至るまで救いの手は幾度か差し伸べられたのだが僕は全てを拒絶した。死にゆくのは当然の結末だ。この人生を終わりにすることができるなら、たとえそれがどれほど見るに堪えない粗末で醜悪な形であっても少しも構わない。当人は死んでいるのだから。その時は近いとも思う。

   僕の人生は彼女との出会いによって一変した。決してネガティブな意味では無い。終着地点は紛れもなく僕が選んだものだ。彼女と出会ったあの日のことだけは忘れたくないと何度も繰り返し反芻した。あの日の僕は幸福だったと今でも思っている。そして今の僕も。今の僕が幸福でないのなら、この世に幸福な人間なんて存在し得ないはずだ。

   何度目かの眠気に襲われた。今回の眠りによってあの世へ旅立つことが出来るだろうか。また目が覚めてしまうのだろうか。どちらでも構わない。今の僕はどこまでも行ける。生命という名のレースに最後まで付き合うつもりだ。窓の外にはぼんやりとした月明かりが見える。ずっと同じ位置で動かないから街灯かもしれない。

   さようなら。彼女に別れを告げた。彼女の名前は、えーっと、……なんだったっけ。

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