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アキネーター、あるいは神秘的な夜の出来事

「ブルーベリージャムが床にこぼれていた」
「それが君の怖い話?」
「はい、そうです」
「それは、いつ、どこで見た光景?」
「何日か前、もしくはずっと昔の子供の頃かもしれません。何度も繰り返し思い出すので、この記憶がいつからあるものなのか、今となっては不確かです。……場所は、居間。実家の居間です」
「君がそれを恐怖した理由は?」
「夜だったんです。なかなか寝付けない暑苦しい夜でした。二階の自室から階段を降りて居間に出て、台所でコップに水を汲んで飲んだ。電気は点けていなかった。ただ、階段の電気は点けたので階段の方から漏れた薄明かりだけがありました。水を飲み終えて自室に戻ろうとした時に、居間の床に光沢のある何かが光った気がして、ぼんやりとした視界に、薄明かりの照らす暗がりに、ブルーベリージャムがこぼれていた。それだけです」
「もう一度聞きます。君は何故それを見て怖いと感じたと思いますか?」
「ブルーベリージャムが暗がりにこぼれているのは怖いことです。そうじゃないんですか?」
「では、聞き方を変えます。……君の家にその時ブルーベリージャムはありましたか?」
「無かった……かもしれない。だから怖いのかもしれません。そこに無いブルーベリージャムがこぼれていれば怖いですか?」
「質問に質問で返さないように気をつけてください。もう一度、その時のことをよく思い出して、寝苦しい夜を想像してください。喉が渇いた君は階段を降りて居間に出た。台所に冷蔵庫はありますか?」
「はい、あります」
「開けてみてください」
「はい」
「そこにブルーベリージャムはありますか?」
「あ……。……あります」
「では、振り返って。床を見てください」
「……ブルーベリージャムです」
「どんな様子ですか?」
「濃い黒色で、表面はテカテカとして滑らかな光沢。いくらか凹凸があって種かなにかのつぶつぶの突起とか果肉の丸い盛りあがりとかが見えます」
「それだけですか?」
「……。すじ?」
「筋張った繊維質も見える?」
「はい」
「恐怖は、感じます?」
「……多分」
「それがただのブルーベリージャムだと、君は思っていない。違いますか?」
「そうなんですか?」
「考えて見てください」
「これは……。ブルーベリージャムでは、無い」
「黒くて湿った何かの塊」
「怖いです。今、すごく」
「そうです。それはブルーベリージャムでは無い。だから君は恐怖している」
「これは……」
「君にはそれが何に見えますか?」
「……ぅ」
「君にはそれが何に見えますか?」
「これは……」
「何に見えますか?」
「……ひと?」
「人、ですか?」
「……はい」
「よく見てください。床にこぼれた湿った塊です。ブルーベリージャムに見えますか?」
「いいえ」
「動いている」
「え?」
「人、なんですよね? 動いてませんか?」
「……。動いている? 人だから」
「よく見てください」
「……。動いています」
「膨らんでいく?」
「あぁ……」
「膨らんでいく?」
「膨らんでいく。ぶくぶく、泡立って、膨らんでいく」
「……あはは」
「どんどん膨れて、盛りあがって、泡の上に泡が積み重なって、泡の周りに繊維質の筋がまとわりついて、ざらざらした湿った皮が張っていって、人になっていきます」
「あはははは」
「白いのは骨だ。黄色いのは脂肪だ。赤い、青い血が」
「そうですよ。それは人です。人になっていっているのです。……生命の誕生です。この世の神秘です。禁じられた秘術、触れてはいけない禁忌、開けてはいけないパンドラの……。あはははは」
「誰ですか? これは、この人は誰ですか?」
「さぁ、……分かりませんか? 本当は知ってるんじゃないですか?」
「この人を知っている?」
「あなたのよく知る人、あなたがこの世に呼び起こした人、あなたによって帰ってきた」
「はは」
「……母親ですか?」
「はい、母です。去年死んだ母」
「手を取って」
「はい」
「血が通った人間の体温を感じて」
「はい」
「こちら側に引き寄せて」
「はい」

暗雲からこぼれ落ちる無数の雨粒が屋根や窓を打つ音が絶え間なく聞こえていた。湿度が高く身体中が汗ばんでいる。しかし、居間のフローリングはやけに冷たく、裸足の足裏が縮こまった。夢の中で誰かと話していた気がする。酷く喉が渇いていた。階段の暖色の明かりを背負って台所へ歩を進める。
暗がりに誰かと肩がぶつかった。

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