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書きたい事と書いてしまう事

家で脚本作業をするのはどうも落ち着かないなと思って、近くのファミレスに行った。自分は本当にやる気にムラがある人間なので、環境の構築から整えていくほうが行動に直結しやすい。実際、動機の強度なんて強かろうが弱かろうが後付なもので、配慮すべき感情じゃない。それよりも作業にかかるストレスの度合いを見て、作業適性を判断していくほうが、作業を進める上でも快適な人生を送る上でも重要なことなんだろうと思っている。

自分が脚本を書いている時、どうしても「対話空間のムード変遷」にばかり気を使ってしまう事に最近気がついた。キャラの「こんにちわ」から「なんだてめえ」にムードが切り替わる必要十分条件をしっかりと追えていないと、気になってしまう。だからそのキャラクターの言葉の温度や、行動の順番なんかに対して何度も何度も修正を繰り返してしまう。そういう癖がある。

これは才能的素質ではなくて悪癖だろうと考えている。やって楽しいという感情が無いからだ。自然と、シラミ潰し的にやってしまう行動だからだ。アニメで言えばパカチェックをやっているラッシュルームの感覚に近い。それは基本的に美醜の琴線にも乗らない、動物的な癖であって、いずれ機械に代替される物に他ならない。極論を言えば、人間がやるべき仕事じゃない。そう思っている。しかし意識しなければ、ついやってしまう行動であるのも事実で、だから悪癖だ。

それとは逆に、書きたい事というものがある。

これは未だに上手く言語化できないのだけれど、例えば、愛の茫漠さだとか、悪意の中の優しさだとか、無意味の奥の暖かさだとか、まあそういう位置感の事象だ。簡単に言えば「常識を疑って自分の言葉に置き直さないと、生きてる意味なんてないね。でも常識を疑い続ければ、自分でいる必要なんてないね」みたいな事で。そういう、なんだろう、正しさのバランス感覚(?)みたいな所にフォーカスを当てた作品というのは本当に数が少なくて、自分がやる意義みたいなのは常々感じているのだけれど、こういう感覚を主軸に表現をしてみると、大抵わやくちゃで殆どの人には意味が伝わらない物になってしまう。

つい最近まで、この書きたい物を持っている事が「何かを書く」ということの自発的な動機だと思っていた。所が技術論とか才能論とか行動論みたいな観点から見ると、この動機はどうも(それとは)違うらしいぞと思い始めた。

そういう「正しさのバランス」を書いている時、とてもエモく真実味のある事を書いている気持ちになるのだが、これまた楽しくはないのだ。何というか、今までの人生を削っているような気分になってしまっている。作品のテイストはいつも激重になり、判断のつけられない事象がキャラの周辺で度々巻き起こっては、皮肉な結果が舞い降りる。

そうしていつも一様の形式に陥っている割に、(であるなら、もっと簡単に書き上げられるべきなのに)ひたすら遅筆だ。

恐らく、自分だけが書いている事だと思って、余計な義務感や使命感に自縄自縛させられていたのだろうと思う。それは確かに自分だけが書いていた事なのかもしれないが、だからといって誰もが試みなかった事ではなかったのだろう。この世界の文化の傾向から言えば、単に芸の無いやり方だったのかもしれない。だからこそそういう作品群も自分の目に入る機会を失っており、少なく見えていただけなのかもしれない。

結論を言えば、自分はアイデア出しをしている時が一番楽しい。絶対に噛み合わなそうな物をトンチをこねて、上手いことハメようと考えている時が一番力を発揮している、という感覚がある。所が今まで、ひたすらに根性や正義感だけで物を作っていたから、そういう力の発揮させ方を全く知らずに来ているじゃないかと、つまり「遊びゴコロ」を忘れてやないかい?という事を、ファミレスの端でキーボードを叩きながら思った次第で。

面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。