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ことばの鈍痛グランプリ 2020

他愛もない雑談の中で、人に言われたことが妙に引っ掛かる。言われた時は良く理解できなかったのに不思議と心に残りつづける。何の気なしに見た映画やら聞いた音楽のワンフレーズが、どうしてか心をザワつかせる。そんな事が無いだろうか。

経験から言えばそういった類の言葉というのは、自分が見ようとしてこなかった部分を突いたものだったり、自分の悪癖をうまく揶揄したものだったりして、噛めば噛むほど考えさせられるモノだったりする。それが結果、自分の見識を改めさせてくれたり、偏見を消してくれたりしてくれて、いつの間にか自分を一歩前に進ませてくれる大事な言葉になっていたりする。

最近じゃ”ハラスメント”なんて言葉も世間でひとしきり暴れきって、そろそろ飽きられ始めている頃合いだろうが、そんな”ハラスメント”な言葉の影に隠れて、含蓄のある、人の心に鈍痛を与える言葉というのもあるんじゃなかろうか。そんな言葉を迂闊に弾かず、よくよく噛み締めたい。噛み締めれる人間になりたいなと、常々思っている所で。

という訳で、今日はそんな類の”鈍痛喰らわされた言葉”を、心の臓を握られたパンチラインを、今年の出来事を振り返りながらランキング形式で紹介したいと思う。それでは、誠心誠意自戒を込めてお送りしよう。


第5位「見られて当然だと思ってるんですね」
居酒屋での久々に会う後輩からの一言。今年の自分の中の大きな変化の一つとしてnoteを始めたことがある。拙い文章でもチラホラと見てくれている人がいることに嬉しさを覚えつつ、他の人の、特に興味がある人の日記も読みたいなと思っていた中、その後輩と杯を交わす機会があった。そんな軽い気分で後輩にnoteやってみてよと誘った所で喰らったクロスカウンター。後輩を庇う訳ではないけれど、きっとその言葉に害意はなく、単に自分がそんな記事を書いても見られないよと躊躇した気持ちがあったのだろうと思う。

確かに今までnoteを書いていて「見られなかったらどうしよう」とか「見られないのに書く意味あるのか」なんてことは微塵も頭をよぎらなかった。高すぎる自己肯定感の賜物か、自意識過剰の一人芝居か、別の後輩にも「誰の何のために書いてんスか」と言われ、即答で「そんなもん自分の為だろ」と言い放ってしまった辺りにも同じ業を感じる。調子に乗っている所で意識に盲を感じさせられた一言だった。ちなみに記事の感想で一番ビビットだったのは同期の「電波っぽいよな」だった。あちゃちゃ~、反省に次ぐ反省。しかし電波文を楽しむ貴様もど~なのよ、なんて。感謝感謝。


第4位「義を見てせざるは勇なきものなり」
アリスソフトの新作エロゲ「ドーナドーナ いっしょにわるいことをしよう」から、悪の企業を滅さんとテロ活動をするメインキャラ二人の他愛ない雑談中の言葉。この言葉を見た時、心臓を直接どつかれたように思った。作中では「君子危うきに近寄らず」という言葉との対比で使われていて、その主義の偏りきらない表現のバランス感覚も巧いなと思ったのだけれど、単に今までこの言葉を知らなかったので衝撃が強かった。今年は年初から色々決断しなきゃいけない場面が多く”勇気”とは何か、という事をさんざん考えさせられていた所に、ある種のピリオドを打たれたような感覚だった。この言葉は”義”というものが「ある無し」で判断されるものではなく「程度」によって浮かびあがるもの、と見た時にグッと深みが出る言葉だと思う。”勇気”ってやっぱ”倦怠”とオモテウラなんだよなあと感じた。勇気も倦怠もなく生きるってのはありえない。必ず人間はどちらかの状態で生きてて、それは自分の中に打ち立てた”義”との付き合い方によって決まる。そういう話だと受け取った。

すぐさまプレイを中断して言葉の由来を調べ、孔子の言葉だと判明した所で「あんだよ孔子かよ~」とテンションだだ下がったのは秘密。孔子みたいな生き方はちょっと俺には重すぎるよ。あとこの言葉は”暇由来の義憤”さえも肯定的に捉えてしまう危険も孕んでいるとは思う。バイブス重視な言葉だから、そんな偏りがあって仕方ないけどもね。


第3位「最近傷ついた事ってなに?」
他愛ない雑談の中での一言。直近の傷ついた事を思い返そうとしても、何も、本当に何も出てこなくて自分で自分に驚いた。というか引いた。職場で仲良くしていた後輩が次々と辞めていって無性に悲しくなったり、自分に意志を問わずに都合よく雑務をブッ込んでくる人にガッカリしたり、電車が空いているのに俺の座った両脇七席分が奇妙に空き続けているのに何だか可笑しくなったりはするのに、それに傷ついたかと聞かれると良く分からない。

何かストレスな事が起きて、その改善可能性を、問題解決への道を見つけられなかった時、人は”傷ついた”という事にしてそのショックを心にしまい込むのだと思うが、それを全く想定できないほど忙しい訳でもなく。そもそも傷つけられる元になるプライドも芸もないと自覚していれば、傷つけられるなんておこがましいとさえ思える。しかし世相で言えば、傷つけられた、というのは今時分一番の武器になる言葉だというのも分かっていて、それを上手に振り回せない自分にはため息は出る。そして人間的に全く傷つかないってそれってどこかオカシイんじゃないの?狂ってんじゃないの?とかは普通に考えてしまった。


第2位「外側から判断する人間なんだね」
コロナ出始めのタイミング、ガラッガラ貸し切り状態の鳥貴族にTWITTERで呼び出され、大して知りもしない元先輩とサシ飲みをした時の言葉。今考えると全く変な会だ。しかし呼ばれるとすぐ嬉しくなってホイホイ行ってしまう辺り、俺もチョロい。

人間関係に出自に将来設計、話が進むうちにいつしか作品観の話になり、諸作品を好みでバサバサ袈裟斬りにしていくと、この言葉が出てきた。一瞬自分の芯が無いと言われたようでムカッと来たが、それだけの話しでも無さそうで、その言葉を家に持って帰る事にした。それから9ヶ月ほどじわじわと考えた結論だが、物事を”適性”(形式特性や才能、つまり外側)から判断するのか”連続性”(経験則とか慣れ、つまり内側)で判断するのかという軸で話していた事なんだろう。その点で言えば確かにその見立ては正しい。俺が飽き性なのも”連続性”側の人間で無いからと言えば説明はつくしね。他人の視点に虚を突かれ、ここまで考えあぐねるのが本当に久々だったのでこの順位。


第1位「だからお前は可愛いんだよ」
上司との進路相談中、今の会社に残るか外に出ていくかの二択の話の中の言葉。社内に蔓延る政治闘争に嫌悪感を抱いているという事を心の内に抱えきれなくなり「制作やってつくづく思いましたけど、俺ホント政治苦手なんですよね」と溢してしまった後の、上司の返し。「だから」の接続詞に愛情のない打算的な人となりを感じもするが、むしろあけすけで気分がいい。打算的な所を一切見せない人間はむしろ信用できないものだ。そしてその打算感も飲み込む人情的な言葉に、人を見る姿勢に、俺はやっぱりこういう人について行きたいなと思わされた。

話を聞くと上司が俺の進路に関して各方面に掛け合ってくれたらしく、それを思い返すと泣けてくる。この人は自分の為に動いてくれているのに、俺は人の為に努力できているのだろうか?せめてかけてくれた期待に応えるだけの頑張りを見せれているのだろうか?そんな事が頭をよぎった。

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という訳で一位は「だからお前は可愛いんだよ」でした。褒められ慣れてないので、ポジティブ言葉には弱いですね。皆さんもコタツに蜜柑で紅白キメながら、自分の鈍痛喰らった言葉を思い返してみるのもオツじゃ無いでしょうか。というか是非にどうぞ。そんで自分にきかせてもらえたら嬉しいです。


番外編「真摯であれますように」
去年の春ごろから昼休憩の度、バッティングセンターで軽く一振りしてから遅めの昼飯へとカチコみ、物思いに耽りつつ公園のほとりを散歩し、シメに神社に参拝する、というルーティンを繰り返していた。どん底な日常から脱出するために頼るべき人脈も思い当たらず現状を打開する策も無くで、どん詰まりの日常に精神をやられていて、最早頼れるのは神様くらいなもんかと始めた神頼みだった。

これは言ってて自分で笑えるのだが、そもそも神様を信じていない。自分を救うだけの神様なんかは特に。霊験あらたかさというか、オカルトな事はまあ経験者の数からしても、個人的に遭遇した心霊体験からも、まあ無くは無いだろうとは思っているが、結局人生を左右されるほどではない。適度に伝統と礼節は守りたいねの態度感で付き合うことだと思っている。

更に不躾を言ってしまえば”祈り”という行為にさえ疑問を呈している。神社で何か祈って叶った覚えもなければ、そもそも祈ってどうにかなろうとするなんて、それこそ油断の温床じゃないか。他責感情の発端じゃないか。叶わなくていいならわざわざ”願い”なんざ吐き出してどうする。金を払って”想い”をカツアゲされるなんて御免こうむる。

じゃあ俺は一体何に対して賽銭を投げて手を合わせているんだという話になる。これはまったくの猿芝居で儀式の真似事なのか。しかし境内にいる間、俺はこの積み重ねられた伝統と信仰の重みにしっかり”畏怖”を感じている訳で、その時正される気持ちや姿勢というのは現実的な”利益”だと感じている。であるなら俺は自分を正されに神社に行っているのか。

そういう思考回路を経た結果、だったら神社に手を合わせる時の俺の正解は”誓い”を立てることだと思うようになった。そしてそういう時に「今週末までにモデリング終わらせます」なんて即物的に”誓う”のも場の感じと合わずチグハグしているので(こういう感じ方が”外側から考える”ということなんだろうが)、より一般化された”誓い”ってなんだろうと考えていた所、見つけた言葉が「真摯」だった。

思えば、「真摯」であれる事ほど幸せな事もない。自分に対し人に対し社会に対し。そんな簡単な事も出来ない自分だが、それが出来たなら誰だってドン底からなんて自然と抜けて行くだろう。それは全く望ましい”願い”だった。それを忘れないようにしよう。そう思って財布の中に溜め込んだ五円玉を賽銭箱にブッ込んでは「真摯であれますように」と手を合わせている。

形式がいまだに”祈り”ベースなのは、やっぱり伝統には沿っておきたいから。なんてあけすけに書くと神様に失礼か。


それではみなさん良いお年を!

面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。