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賢いバカよ、聡くあれ

去年は今までの人生の中でも色々と変化の大きな年だったように思う。職場が解体したり、新しい種類の仕事が回されてきたり、色恋もすれば、かすかに趣味も見つけた。そんな中ではつまらないことかもしれないが、「ファン」になった経験というのも一つ大きかったように思う。

中学生も終わり頃、つまらない悪さばかりしていて度々教職員室に呼び出されていた。頭の禿げをバーコード状に隠した冴えない世界史の先生に、「お前には尊敬する人間っているのか」と聞かれた。それは思うに誰の面談でも聞いている類の一様な質問だったろうが、自分にはこれだという人が全く誰一人もパッと思い浮かばず困った事があった。

普通は誰を答えに持ってくるのだろう。なんとなくの答えやすさで言うならイチローだとか総理大臣でも挙げればいいのか。でもイチローの伝記を読んでこんな生き方は楽しそうだなと思えなかったし、総理大臣なんていつも根拠のない外圧と戦ってて表情筋が死んでいる。確かに有名人の社会的ポジションは羨ましいかもしれないが、別にとって変わりたい気持ちもない。やれてる事は凄いかもしれないが、別にそこに理解を深めたいとも思わない、思えないものばかりだった。

【尊敬】
《名・ス他》他人の人格や行為を高いものと認め、頭を下げるような、また、ついて行きたいような気持になること。うやまうこと。
「親を―する」

――人格や行為を高いものと認める。これは自分にとっては結構簡単だ。誰だって得意不得意がある。そのモチベーションはどっから出てくるんだって人を見れば、まあ大抵凄いなと思える。要はその人の中に尊敬できる部分を自分が掘り出せるかどうかの話で、それはつまり視点の柔らかさを持てるかという話と他人に付き合う根性が持てるかって話でしかない。

――ついて行きたい気持ちになる。これが自分には全然分からなかった。「ついて行く」ってなんだ?弟子入りでもすんのか?しかし、”尊敬”って気持ちにはそういう要素が必要だ。もしいらないなら、先に書いたようにして俺は全人類を別に尊敬できることになってしまう。自分より優れている点を統計的に見つければ良いだけだから。でもそんな事に意味はない。他人の優れた部分を理解して、だからなんなんだ?カウンセリングでもすんのか。

結局自分より”高い”ものと認めた所で、「他人」と見て自分と距離を置いている時点で、価値ある関係にはならない。だから少なからず「ついて行きたい」と思えなければ本当の意味で「尊敬」にはなっていない。(ついて行きすぎたら”信仰”になってしまうけれど)

そういう事を「お前には尊敬する人間っているのか」という言葉にふんわりと考えさせられた。しかし結局自信をもってそれに返答できるような人間は見つけられなかった。27歳になるまで。

自分は”考え方”が明確にマイノリティだ。外見、体格、運動神経、性的な部分はマジョリティだろう。物事への感じ方というのも恐らくマジョリティだ。普通に月を見て綺麗だなと思うし、ホラーを見て普通にビビれば、スポーツを見て普通に興奮できる。趣向もまあ変わっている方ではあるが、趣味の合う人を探すのに困るほどではない。

所が、”考え方”の話になると大抵の事にケチがつく。簡単に他人と衝突する。衝突しまくって”躱し”が上手になれば怖い人だと避けられる。そんな他人の過剰な反応に「バカらしいな」と考える。そう感じてしまうのは理解できるが、「怖い人」だと結論づけてしまうのは浅はかだ。そういう風に共感は出来ても感情移入はできない。”考え方”が邪魔をするからだ。そして”考え方”は目には見えにくいから、その違いを理解されるのにも時間がかかる。

”考え方”がマイノリティになったのは出自というか、育ちが色々と特殊な環境だったというのが大きな一因だったんだろうと今では理解できる。普通の環境で育った普通の人が、普通の人の話を聞いて普通に反応を返せるのは、そりゃ普通だ。正の連鎖だ、ポジティブスパイラルだ。普通の人にはそんな流れは生きやすいものだと思うが、その普通に入れなかった自分みたいな人間には、世に流れる物事の”考え方”イチイチが癪に障る。スッと理解できない事ばかりだ。

心の底から”考え方”に共感できる他人、というものを普通の人は普通に持っているものなのだろうと思う。そういう人が周りにいればいるほど、自分の考え方に自信が持てるだろうし、そもそも”考え”なくて良い。自分の”考え方”に自信があるからこそ、自分の”考えた”「賢い人」が思いつくし、であるなら問題は自分より”考える”のが上手な人に任せておけば、その考えた結論だけ頂けちゃえば、もっと効率よく楽に生きれるからだ。

自分はたまたまそうじゃ無かった。だから何においても自分で考えていた。思考というのは怖いもので、考えれば考えるほど見識が深くなったような気がする。より綿密に事象を繋げる事ができれば、自分は賢い人間なんじゃないかと思ったりする。所が思考は言葉を羅列する事なので、そもそも全部が間違っている。偏っている。言葉が”事象を形式化”する作用を持っているからだ。「事象」は、”正しくいうと”「事象」でしかなくて、それを理解しようと形式化した時点で、その物事をどう見たいのか、という視点の偏りが生まれるからだ。わかりやすく言うと、「りんご」は「りんご」であって「赤い果物」と言葉にして理解しようとした時点で”偏り”が生まれているよ、という話で。

そんな”偏り”を細けえ話してんなあ、と軽視していると、いつしか理解する為に紡いでいた言葉が、自分を正当化する為の言葉にすり替わっていったりする。自分は賢い、間違っていない。そうして自己正当化に慣れ続けていくと、いつしか他人もそうあるべきと責めるようになっていく。ともかく自分はそうだった。

ここまで聞けば「りんご」を「赤い果実」と評する偏りが、それなりに怖いことと思えるだろうが、しかしそんな事を真摯に忠告できる人間はそんじょそこらにはいないのも事実だ。

そうして「賢いバカ」は理解も共感もなく”うるさい人”だと野放しにされている。今の世相ではそういう人を毛嫌いするのがマジョリティらしい。ファンアピールが無条件で好感を稼げるのも、その流れの一環だと感じている。確かにそういう中で反感を語るなんてノイジーな行為で確かだろう。でも同じ穴のムジナとしては、そういう人には「面白いのにもったいないな」と思う。

きっと「どこまで」考えるべきかを分かっていないだけなんだろうと思うからだ。

面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。