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全自動だけが全てじゃない話。

電気自動掃除機、今や一家に一台置いてあると言われても大袈裟ではない家電。
今や食洗機に自動乾燥機など、様々な【自動】が生活を豊にした。一度使ってしまえば、使用していなかった時にはもう戻れないだろう利便性。生活水準や作業効率を上げる為に、これら文明の利器を薦める人は多い。

私はこの電化製品に賛なのだが、掃除機は一つも家にない。
購入しない理由は独身1人暮らしだからである。物を持たない私は、まず部屋が汚れないし、汚れてもすぐに掃除をし数秒で終わる。洗濯も毎日洗うので一日履いた衣服と下着とタオルだけで、食器もお椀と皿しかない。

時間を持っていかれないので、これら電化製品を手にしようとすると返って高くつくし、何より物を増やしたくないからだ。これから家族ができたり、大きな家に住めば話は別だが、今はその予定もない。


日常の何気ないことに考え方の変化を

さて、これら利便性を求める背景には当然、日常の作業が「面倒だから」という理由があるからなのだが、これら日常生活の行動を

無駄!面倒!


と区切るのは少し待っていただきたい。
これについて発想のヒントを養老孟司先生のお話から頂いたので、ここで紹介したい。

和尚さんの境内掃除の話
境内を箒で掃く和尚さんに一日として同じ動きはしていないという。
春には桜の細かな花びらが落ち、
梅雨には雨水を含む、重さと地面に吸い付いた落ち葉
夏は若草が生い茂り落ち葉の数は少なく
秋には紅葉が色づくも、
冬を前に繁忙期と言えるか、落ち葉の量は多い

つまり季節や天候により落ち葉の量や質が違い、それに伴い人の体の使い方も微量に違うということだ。

私はこれに感動した。
何気ない日常の動作も【運動】として捉えられるし、洗濯物の乾きに【季節】を感じることもあるだろう。

無駄か無駄じゃないか、
労力か労力じゃないか、

という考え方から少し距離を置いて、その自然や日常の機微に目を向ける姿勢はとても美しいことに思える。私自身もこの思考発想方法に習い、なるべく自分で掃除をし、何か気付きを儲けるようにしている。

気付きついてはまた別の機会に…。

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