私の躁鬱

2020年4月20日。私はツイッターを始めました。フェイスブックを始めました。インスタグラムを始めました。ずっと嫌いだったラインを始めました。それまで放っておいた友達みんなに突然連絡しました。それはこの地球にコロナウィルスが来たからでした。コロナウィルスは自分のせいで現れたから、リヴァイみたいに駆逐しなければいけないと思いました。私ならできる、そう強く信じていました。

コロナは危険だと政府にメールを送ったり忙しくツイートしたりしていました。一方でフェイスブックで知り合った男の人と毎日連絡を取り合い仲を深めていました。そして会ったこともないその人にプロポーズされ結婚の約束をしました。しかし会うためにお金を送って欲しいと言われました。単なる詐欺ですジーザス。それに気づかないくらい私の頭の中はめちゃくちゃでした。なんせ監視されていると思っていたし、散財して貯金もなくなりました。

持病のバセドウ病の診察に行き不安を口にすると、精神科を勧められました。その場で予約がとれてすぐに診察となり、私はマシオカ似の先生に最近起こった全てのことを機関銃のように喋りまくりました。先生のキーボードを打つ手が大忙しなのを見て話すスピードを落としました。数回の診察を経て下された診断は双極性障害でした。躁鬱病の方がわかりやすくてよくないか。ショックというよりはやっぱりなという感じでした。おかしすぎるもん。頭は常にフル回転。寝なくても食べなくても元気百倍。一番ヤバいのは会ったこともない奴と結婚(詐欺)するからと仕事を辞めてしまったこと。10年以上勤めた職場を辞めてもハッピーモーマンタイ状態だったのだからヤバすぎる。そして貯金はない。でも無敵。無敵感はこの病気の典型。

次第に躁状態は治まり、今度は鬱のターン。布団と友達ですよ。部屋で死のうと思って紐を探しました。ちょうどいいのがなくてね。花柄のストールでやってみました。全然無理でした。死ぬのって全然無理です。ガチガチに縛ってしまったストールはほどけなくて捨てました。

死のうとした私が平然と生きているのは母のおかげです。こんなになっても責めることなく、働けと叱責することもなくただただ見守ってくれているから。もしも、私が部屋で死んだらそれを見つけるのは母しかいない。救急車を呼んで「亡くなっています」と告げられるのは母。そんな可哀想なこと絶対にさせられない。だから自殺はしない。怖いし。縄に体を預けたときの感覚。私には無理でした。2020年は人生最悪の年でした。

2021年はただの引きこもりで一人でいるときは鬱気味といった感じ。SNSも全て辞めました。そして2022年の4月。私は「小説を書きたい!」と思い立ちました。実はこの衝動は2度目で20年にもありました。そして再びツイッターを開始。起きている間中、頭はフル回転。意味不明なことを呟いたり戦争をなんとかしようとしてみたり。きました躁です。4月25日。私は部屋で音楽に合わせて踊り狂っていました。窓全開で大声で叫んだり演技をしたり大騒ぎ(笑)そこに親友がきてくれて宥めてくれて。激躁に付き合ってくれた親友には本当に感謝しています。そのまま彼女の運転で病院に行きました。待合室で音楽を聴きながら大号泣。情緒が不安定すぎる。

マシオカ似の先生は異動になっていて若い男性医師でした。激躁劇場を繰り広げて私の脳は限界だったのか酷い睡魔に襲われていました。すると女性医師がやってきて「入院するのはどうでしょう?」と言うのです。寝耳に水。お金ないしいいですと断るものの、でも申請すれば控除されたりするんだっけ?と軽い気持ちで入院することに。いつまでか聞くと「ゴールデンウィーク明けくらい」とのこと。そこでなぜがピアスとブレスレットを外すように言われる。危ないからだそうだ。なにが?女医に連れられ長い廊下を歩く。

部屋に着くと鞄は中に入れられないという。スマホだけはと懇願したがダメだった。でもその時の私にとってスマホは命の次に大切で、絶対に手放せないと激昂した。怒鳴りまくる私にさすがの女医も動揺していた。男性看護師やらに押さえつけられて打たれた注射のせいか記憶が一日分ない。結局なにも持たせてもらえないままそこで一週間を過ごした。

部屋の中は床材が剥がれていて素足で歩くのが憚られる汚さ。ベッドの横は扉のないトイレでまるで独房。トイレに座るとジョーカーの気持ちだった。水は流れなくて看護師がきたときに外側から流してもらう方式。そんなトイレあるんかい。ベッドの正面には強化アクリルの板が4枚並んでいて隙間から看護師が薬などを手渡してくれたりする。まるで動物園である。強化ガラスの大きな窓が唯一の救いだった。そよぐ雑草がどこかの草原みたいで和んだ。

もちろん部屋には鍵がかかっていて呼んでも誰も来ない。扉には過去の患者が描いたのであろうゾンビみたいなドラえもん。トイレの壁にも励ましの言葉が並んでいた。「きっと出れるよ」とか。私はというと鉛筆も持たせて貰えないので絵も描けない。首にぶっ刺したりすると思われてたのかな。本もダメなのはさすがに意味不明だった。興奮材料は全て取り除くとのことらしい。

聞いた話では隔離部屋は3つありトイレ以外は監視しているという。音声は聞こえないそうだ。このおぞましい部屋で私が精神を保てたのは(保てているのか)躁状態だったからだと思う。楽しく踊ったり歌ったりしていたよ。ごはんも美味しく頂いていた。ちなみに鬱の人には別の部屋が与えられるらしい。おぞましい部屋は躁患者専用っておいこら。

一週間経ち同じ階の小綺麗な部屋に移った。今度はトイレなし。言えばトイレに行けた。頻尿なのでポータブルトイレが設置された。大きな窓からは神殿みたいな体育館ときれいな空が見えた。それだけでめちゃくちゃ嬉しかった。何日かそこで過ごし2階の部屋に移った。そこは精神を病んだ若者から認知症のお年寄りまでよりどり集めたごった煮フロアだった。奇声やら絶叫やら色々聞こえた。一周間以上ぶりのお風呂に歓喜。

みんなで見れるテレビもあって早速見ることにした。テレビっ子なんす。新入りなんすよとヘコヘコ挨拶するとみんな優しく応えてくれた。独房あがりは私だけで話が盛り上がった。その日からお喋りする相手ができた。やっぱり人間しゃべらんとね。あかんよ。そして「ゴールデンウィーク明け」が迫ってきた。しかし知らぬところで延長は確定していた。一日泣き濡れたが夕飯の唐揚げで持ち直した。

それから同じフロアで一番綺麗な部屋に移動した。居心地は上々。だが早く帰りたい。スマホが10分解禁になった。とにかく帰りたい。スマホが30分に。ワシを帰せ。結局2ヶ月と少々の入院だった。同じ病気の子と話せたのは大きな糧になった。薬など意味がないと思っていたけれど、必要だと思えるようになったから。それから自分をよく見つめ直した。私の躁鬱は周期がおそらく一年。どんより過ごす冬を越え春がくると躁も起きる。それを薬で抑えて、自らも躁になるまいと自覚する。それできっと大丈夫なんじゃないかな。まだわからんけど。とにかく自分を癒しながら生きていく。それしかないしそれでいい。人生なんてそんなんでいいんですよ、きっと。だって生きることに意味なんてないもん。意味は見つけた人だけが知れる。生きて死ぬ。それだけ。

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