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優しい口づけ(2)

向き合っていた私の身体をそっと離すと

「また来る」と何事もないかのように告げる龍男さん。



私は、聞かなければならないことを訊いた。「奈津美さんは、このことを…?」

「ああ、奈津美か。俺のしてることは知ってる。認めてる」

そう言われて、ますます動揺し、混乱する私に「お前、知らんもんな」と私の知らないあいだに交わされた、奈津美さんとの「約束」を話し始めた。



奈津美さんとの「約束」とは、《私以外の人とはそういうことをしない》というものらしい。

2週間ほどの龍男さんの入院中、奈津美さんは時間の合間を見て、よく病院へ来ていた。龍男さんの容体の安定を確認する傍ら、元同僚である姉やスタッフと談笑する奈津美さんは、私にも「ありがとう」と声をかけてくれた。

そのうち、龍男さんの些細な変化に気づいたようだ。そこで周囲が落ち着き、二人で話ができるタイミングで、単刀直入にこう切り出したという。

「あんた、加奈ちゃんに惹かれてるやろ?」

そうはっきり訊かれると、噓やごまかしは不誠実だと思った龍男さんは

「そうや」と一言、答えたという。

その返事を聞いた奈津美さんは「相手が加奈ちゃんなら。ただし、加奈ちゃんが嫌がることと、彼女以外の人とそういうことをしたら許さへん。それを守れるなら、自由にして」と、真剣な眼差しで告げた。

こうして、その目を見て「分かった」と言う、龍男さんと奈津美さんのあいだに「約束」が交わされたのである。



龍男さんだけでなく奈津美さんの思いも知った私は、冷静にそして真剣に、自分の気持ちと向き合わなければいけないと思った。

「時間を下さい。また必ず連絡します」



一人になると、あの日のキスの意味が重く心にのしかかってきた。私は半分本気だったが、龍男さんがそうであるわけがないと決めつけていた。だから「半分」だった。しかし、勢いや火遊びでなかったのはむしろ、彼の方だったのだ。

もう一つ、やることがあった。奈津美さんへの告白である。仕事の折をみて電話をしたが繋がらず、スタッフたちと部屋へ戻った時、折り返しの着信があった。



戸津でございますと出ると「加奈ちゃん?仕事中、いつホットラインが鳴るか分からへんのにごめんね」とこちらを気遣う、明るい奈津美さんの声がする。

「龍男さんから聞きました」としか言えない私に

「あの人、ちゃんと言ったんやね。良かった。でも、我慢したらあかんよ」と優しく返してくれる。

「あ…それだけじゃなくて…。奈津美さん、本当に申し訳ないです」

「なんで、加奈ちゃんが謝るん?」「だって…」言いよどむ私に

「20年以上一緒にいたら、男だなんて思わなくなる。あの人のこと、よろしくね」そう笑って、奈津美さんは電話を切った。



それからしばらくは、日付や曜日の感覚がなくなるほど、センターから帰れない日々が続いた。三次救急指定があり、ここに運ばれる大多数の患者にとって、最後の砦となっている場所である。センター長の姉は、そんな人たちの受け入れ要請を断らない。

ようやく一息つける頃になって、私は姉を呼んだ。



「姉貴、ちょっといい?」私の言い方に、察しの良い姉はファーストコールは自分にとスタッフ告げ、私を連れて別室へ入った。

「ここなら、しばらく誰も来ることないから。ゆっくり聞ける」

「ここに運ばれてきた河村さん、覚えてる?」私は緊張しながら口を開いた。

「奈津美さんの旦那さんやね。どうしたん?告白された?」びっくりすることを、あっさり言う姉である。

「いや…告白ではないんやけど。何で分かったん?」私の方がしどろもどろに訊ねる。

「あの時の龍男さんの様子を見てたら、薄々感づくよ。たぶん、奈津美さんも分かってた」「告白じゃないとしたら…。それを受け入れたんやね?加奈子」と確かめるように言って続ける。「奈津美さんも認めてくれてるし、加奈子がいいと思えるんなら、応えてあげたら?私はいいと思うよ」



私に先に言ってくれたのは嬉しいけど、早く自分の思いを伝えなさいという姉の言葉に背中を押され、話があると彼に連絡を取ったのは、あれから3ヶ月が過ぎようとする頃だった。



その日、互いの仕事終わりに会った時、龍男さんは不機嫌だった。おそらくずっと連絡しなかったことが不満だっただけでなく、仕事でも何かあったのだろう。

「何や?話って」苛立ちが伝わってくる言い方である。まずは、この間の無音を詫びる。「すいません。連絡せずに」そして続ける。「気持ちに変化はありませんか」と。やっと返事を聞けると思ったのに、逆に私に問われたことで、冷静さを取り戻したようだ。



「ああ。変わってない」答えを聞いた私は、彼に近づき「これが私の答えです」と言い、彼の唇を唇で塞いだ。

驚いた龍男さんは、私の目を見て訊いた。「お前、本気か?」

「本気です」と同じように目を見て頷く私を抱き寄せると、もう一度、彼の方から唇を重ねてきた。


二度目も、やっぱり優しいキスだった。





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