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『ミルク・アンド・ハニー』――〈約束の地〉までの旅――

村山由佳氏の『ミルク・アンド・ハニー』を読み終えた。

合間を見ての読書とはいえ、普段のペースからすると随分時間がかかった。前編にあたる『ダブル・ファンタジー』とは違い分冊がなく、文庫にして600頁を超えるという長さがその理由ではないと思う。途中でやめようとは思わなかったが、新しい本を読んでいる時に湧いてくる高揚感が続かなかったからだ。

『ダブル・ファンタジー』を一度読み終えた時に書いたが《高遠奈津が分からない》という感覚が、『ミルク・アンド・ハニー』においても終盤(第八章以降)になるまで続いた。

元パートナーの省吾とのまどろっこしい関係(これは奈津のせいではない)がようやく書類の上でも清算されたと思ったら(される前からだが)、“キリン先輩”こと岩井良介と、“ヒモになる”と堂々と宣言した大林一也との関係は継続中だ。おまけに、セックス・フレンドと呼んで良いだろう、岩井との関係はどうなったのか、最後まで読んでも書かれていなかった。奈津が「別れた」男の中で、唯一何の後腐れのない人物だと思うのだが。

しかも、今作の冒頭ではもう既に、大林が奈津を女として見ていないことが描かれている。奈津の心はもう「寂し」かったはずなのだ。そんな男とよく婚姻届を出した上で一緒に居ようとした理由が分からない。死別するまで一緒に居ようとする相手となら日本の制度上、婚姻届が大きな意味を持つが、少なくとも奈津は大林との関係において、それは出来ないと分かっていたはずだ。奈津自身が耐えられないであろうことは、明白だっただろう。

ヒモ宣言をして開き直った分だけ、大林は省吾よりマシかと思った私が浅はかだった。朝帰りも生活費の面倒を見ることも、すべて許す奈津も相当なお人好しだが、婚姻届を出した後だからと彼女の男関係に激昂する大林は、もっと理解不能だった。紙切れ一枚出したからと言って『高遠ナツメの亭主です』はないだろう(p. 452)。どの口に、何かを言う権利があるのだ。

読み手(読者)によっては、奈津の奔放な男関係に嫌悪感を抱くかもしれないが、私はまったく気にならない。だから大林がキャバ嬢と遊んでいても、何も思わない。だが、たかだか紙の一枚で、男関係に関して奈津を拘束する意味が分からない。そもそも、省吾や志澤との過去を知っているからには奈津のそういう面を承知しているはずである。自分は遊んでおいて、女の側の他の男との逢瀬は許さないなど虫がよすぎて、虫唾が走る。

と思うのは、私が女という性だからだろうか。男性が読んだら、奈津の方を嫌だと感じるのだろうか。

燃え上がるだけ燃え上がった後、すっぱり関係を断ち切った加納隆宏の方がよっぽど綺麗な終わり方だと思う(知がなくて、根本的な疑問なのだが、ハプ・バーというのはSMクラブみたいなものなのだろうか?それとも、まったく別物で、作者のフィクションなのだろうか)。少なくとも、一時的にではあれ、加納は奈津をちゃんと満たす男だった。

それに、加納は書くことを生業としていることもあって、言葉を使える人だ。言葉を血肉にできるからこそ、奈津との丁々発止のやり取りが可能だった。奈津は言葉をお腹に入れられる人を好むのだと思う。だから、志澤とも燃え上がったのだろう。逆に、僧侶にしろ”セバスチャン”にしろ、「備えている語彙がとてもシンプル」な人は合わない。武もシンプルだが、これ以上ないほどまっすぐで、血の通った言葉を使う。ゆえに奈津の心を揺り動かし、同時に彼女を満たすことができるのだろう。


血の通った言葉を使える人に惹かれるというのは、私も同じだ。語彙力が乏しい人も残念だと感じるが、上っ面な言葉しか使えないことはもっと嫌である。身体中に刺青が入っていようが、「胸筋に風神と雷神が向かい合って」いようが、自分の言葉を使える人になら惹かれるだろう。

〈ガキの頃からずっと好きやった。……あれ読んだ時は、まさか見透かされてたんか思て、そのまま後ろへ倒れて土に還りそうになったわ〉(p. 540)
〈正直、告白するには今世紀最大の勇気が要ったで。……どっちにせぇ、会うた時押し倒したったらええわ、とも思てたけどな〉(同上)

武の言葉が関西弁(大阪弁の濃いもの)であるがゆえ、関西人の私が読みやすいということもあるだろうが、これほどまっすぐに言葉をぶっつけて来る人に心を持っていかれないはずがない。奈津が逢ってきた男の中で、私も惚れたのは武だけだ(うっかり現実に実在していたら、本当に惚れているだろう)。

「奈津が武に自分を預けられたのは、今現在の彼が心と身体のすべてを使って想いを伝えようとしてくれるからだった」(p. 573)。
「あるいはまた、奈津がこれまでの癖で、その場の諍いを避けるために本心を隠そうとしようものなら、閉じかけた蓋を強引にこじ開け、本音を吐き出させようとするのだった」(同上)。

奈津なら―いや、奈津でなくとも―この人になら、自分を丸ごと差し出しても構わないと思うのは当然である。

「快楽のためだけではない。愛する男にもう虚しい嘘をつく必要がないということなのだ」(p. 602)。

奈津は最後に(だと私は信じている。これで武と別れたら、今度こそ奈津を蔑む)身体を含めて心から愛する人に出会った。奈津が救われて、私は嬉しい。


〈乳と蜜が流れるところ〉

エジプトでの迫害を逃れたイスラエル人たちが、モーゼに導かれて向かったカナン。そこが〈約束の地〉とも呼ばれていることは、高校時代に聖書で読んだ気もするが、記憶にない(ちゃんと話を聞いていなかったツケである)。

ただ『ダブル・ファンタジー』も『ミルク・アンド・ハニー』も、ジョン・レノン氏とオノ・ヨーコ氏の共作アルバムから採られていることは、ここまで(第十章)読んで知った。ファンの方なら、すぐに気がつくことなのかもしれないが。

本文にあるように、奈津と武は互いが〈約束の地〉なのだろう(p. 603)。

長い長い放浪の果てに、奈津が〈約束の地〉にたどり着けたことを、心から祝福する。


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