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優しい口づけ(3)

龍男さんと会う日は決まってない。互いの生活時間も仕事も全く違う。龍男さんは基本的に日曜日が休みだが、私はいつ呼び出しがあるか分からないため、約束はできない。

次に会ったのは、半年以上先などということもざらにある。「会えるか」というメールに「空いてます」と返した偶然が一致した時だけ、会う。



会った時は、とにかく一緒にいることを最優先する。そういうことをするかしないか。それは、後々のことなのだ。



「この関係って、俗に言えば《不倫》ですよね」

「なんや、お前。気にしてんのか?それに口を出す権利があんのは、互いとその家族だけや。俺のとこは奈津美と娘が自由にしてる。お前は独りやし、奈津子も認めてる。それ以外に、どやこや言う筋合いはない」

ある日の私の呟きに、龍男さんがそう答える。無意識に、世間体や常識というものに縛られていたのは私だった。

「じゃあ、もう一つ。何で、私やったんですか?めっちゃ美人な姉貴も、いたのに」前々からの素朴な疑問をぶっつける。

「お前、アホか。惚れたり惹かれたりに、理由がないとあかんのか。理由なんかないわ。とにかくお前やったんや。それに、奈津子の相手になったら、お前、俺に嫉妬するやろ」

相変わらず、口が悪い。でも、嬉しい。しかも、言うことが合っている。

「逆に、お前は何で俺やったんや。理由があんのか。答えられんのか?」私は、首を横に振った。「でも…」と言いかけて一瞬、迷う。

「龍男さんじゃないと嫌です」告白のような本心が、口を突いた。それを聞いて、怖いほど真剣な顔をした龍男さんが「そうか」とだけ言う。

返事を待たせたのは私なのだが、彼の想いを知りたくてざわついているのも私の方である。



一人暮らしの長さから、生活において必要なことは勝手にできる二人。多くても、2, 3回で食べ切る作り置きが一人分しかない部屋に突然来ることになるので、その時間によってはごはんを作ってくれるのが龍男さんである。

その日のお互いの体調や時季を考えて出すのは私も同じだが、一人の時より「優しい」食事になる気がする。

龍男さんは外見から抱く印象とは違い、気遣いの人だ。女性の毎月の体調の周期も臆することなく、気にしてくれる。不規則でいつ来るか分からない上に、異常に眠くなる質なのだが「無理するなよ」「寝られるんやったら、寝とけ」と、当たり前のように言うのである。

せっかく会っても、疲れ切っていることもある。そういう時は、本当に何もしない。ただ傍にいてくれる。たまに昔のように「何でお守せなあかんねん」と言いながらでも。そんなところに、私は救われているのだ。



瞬く間に時間が過ぎ、気が付くと龍男さんが初めて部屋に来た頃へと季節が一巡していた。

私と姉が勤める所に限らず、また全国各地場所を問わず、(高度)救命救急センターは慢性的な人手不足が深刻である。それでも併設している病院の院長が救命医療に理解があることに加え、センター長である姉の下で働きたいというスタッフが多い。そのため、ここは全国的に見てもまだ人手がある方だと言える。だが、可能な限り病床を増やし医療設備を拡充させるほど、受け入れ要請も増える。このところ、ほとんどのスタッフがずっと救命救急センターで寝泊まりしている状態だった。

他のスタッフが自宅へ帰れず家族や自分の大切な人に会えていない中で、上の立場にある姉と副センター長が帰るわけにはいかない。姉と一緒に働くことが喜びでもある私も、彼女を差し置いて休むなど論外だと思っている。

何とか、順番に副センター長を含めた他のスタッフに休暇を促す。ICUの稼働率と、そこにいる患者の容体も山場を越えた。その時には、直近2ヶ月だけを見ても姉と私は一日も休んでいなかった。医師が倒れたら元も子もない。病院長命令で、二人は交代で3日間の強制休暇を取ることになった。



どうするかという判断は彼に任せるつもりで、今日から3日間は呼び出しもなく家にいることを連絡しておいた。その日は第二金曜で、翌日の土曜日は龍男さんも休みだった。すると、その夜の20時頃――。




部屋のドアを開けた途端、憔悴した表情で「してもいいんか」と龍男さんが私に確かめる。「はい。お久しぶりです」そう言い終わった瞬間、強く抱きしめられ、優しく口づけされた。

いつもなら、その後も優しいキスを繰り返す龍男さんが、その日は違った。こちらの息が止まるほどの激しさで、何度も何度も舌を入れる。その強さに痺れて力が入らなくなった私は、思わず彼にしがみついた。

「会いたかった」そう言って激しく舌を絡ませてくる彼に、気が付くと私は涙をあふれさせていた。その涙も一緒に龍男さんの口に入る。どんどん私の頬に伝う涙を指で拭いながらも、彼のキスは終わらない。

このまま、この時が永遠に続けばいい――私は心から願った。




時間も時間なので、家へ帰すわけにもいかない。ソファーベッドで十分だと言う龍男さんはそこで寝ることになり、準備を整えると私は自分の部屋へ戻った。翌朝も、日勤の起床時間にはいつも通り目が覚めたので、寝ている彼を起こさないよう、そっと身支度と朝の用意を始めた。

昨日のことが夢ではありませんようにと考えていたら「おはよう」と声がする。憔悴の表情が消え、いい顔をした龍男さんがいた。

「良かった。昨日、いらっしゃった時は酷い顔でしたからね」と笑うと、「お前も人のことは言えんやろ」と返された。夢じゃなかったですよねと訊くことを、なぜか躊躇う。


残り2日間の2人分に加え――自宅には戻らないだろうと確信があった――、ちょっとした作り置きができるだけの買い物をしている間に、今度は龍男さんがお昼ごはんを作ってくれていた。私が「美味しい」と言っても、何も言わない。そんな反応が嬉しい私は、やはりマゾの気があるようだ。




何も予定がない午後の早い時間に家にいることに慣れないからか、落ち着かない。理由もなく、そわそわするのだ。「休め」と言われても、休めていない気がする。その様子を気にも留めていないように見えた龍男さんと目が合う。見つめあうと言葉が出なくなる私に対して、素直に言える龍男さんがキスしてくれる。もう何度目かの、優しい口づけ。



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