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小説 『サミダレ町スケッチ』


サミダレ町スケッチ

 1 ある若い住人

 頬のあたりに虫が這った。少なくともそんな気がした。払いのけようと右手をやり、片目を開けたらもう夜は明けていた。そのまま起きることにする。
 うっすらと光の差す路地裏で、周りの連中は汚れた毛布にくるまってまだ寝ていた。手や足や頭を踏みつけないようにして路地を抜ける。
 どんよりと曇った空が見えた。太陽の光は雲の向こうから届いていた。
 この日の仕事は――毎日同じようなものだが――ゴミ漁りだ。町のあちこちに投げ捨てられるゴミの中から価値のありそうなもの、使えそうなものをピックアップして、それを業者に売って小銭にする。
 腕をぐっと上げて気合いを入れていると、路地から誰かがやってきた。
「やる気があっても儲からないぞ」
「いや、儲かるね」俺は言った。「気分は大事なもんだ」
「気分で食えるかよ」
「作業能率の問題だ」
 そいつはそれ以上俺の相手をせず、町のほうへ出て行った。ボロを着てよろよろと歩き、今日の仕事をしに向かった。あいつは確か道路工事の手伝いをしていたはずだ。俺よりは儲かるかもしれない。
 だが俺はトレジャーハンターの気持ちで仕事にかかる。ゴミの中にはときどきお宝が混ざっている。現金。宝石。アクセサリー。コンピュータ。そんなものが見つかるときの高揚は何にも代えがたい。
 とはいえ見つからないのが日々の常のことだ。この日、夕方までに集めたゴミの値段は屋台のメシ一食分だった。俺はそれを貯金に回し(尻のポケットが貯金箱だ)、広場の炊き出しの列に加わった。
 貯金して買いたいものがある。これから寒くなるから、一着、温かいコートが欲しい。そんなものこそゴミの中にあるかもしれないが、中央の市場で買い物をしてみたいのだ。
 こんな汚い身なりで、つまみ出されなければいいが。
 炊き出しのスープをすすってそう思った。


 2 漢方薬局

 店の奥のソファに座り込んでいる。そうして何をするでもない。ラジオをたまにつけてみるが、その内容が興味をそそることは少ない。ただ入口をぼんやりと見つめて客を待つ。
 ここが薬局だからといって薬だけを売っているわけではない。小遣い稼ぎ程度の商売として、菓子なんかを売り始めたのが去年のことだ。高級菓子めいたものもあるが、一番売れるのは駄菓子だ。子供たちが買っていく。自家製の水飴などは人気がある。儲かるわけではない。ただ、印象操作にはなる。楽しかった話として、親たちがこの店のことを聞いたらいいイメージを持つのではないか。そうして本業の薬も売れるのではないか。
 そう思うが、効果はよくわからない。
 裸足の子供たちが五、六人やってきて、駄菓子の前であれやこれやとやっている。私はそれを見ている。あの子を私の薬で治してやれていたら、この子らに混じって駄菓子を食べていただろうか。
 またね、父さん。それがあの子の最期の言葉だった。
 子供たちが帰り、入れ替わりに客がやってきた。なじみの客で、数年来喉を悪くしている。
「幼稚園でもやればいいんじゃないか?」ガラガラ声でそういった。
「いまでも十分幼稚園さ」
「ボランティアでそんなのをやる余裕があるなんて、薬屋は金持ちだな」
 私は答えず、ソファから立ち上がり、背後の木の戸棚を漁りだした。この客の調剤は覚えている。ただ、その薬を飲んでも痛みを抑えるだけであり、酒と煙草をやめなければ治らないだろう。それでも警告するつもりはない。彼の人生の楽しみではないか。
 調剤を終え、一週間分を紙の包みに小分けしたものを輪ゴムで縛った。振り返ると客は水飴の入った壺を見ていた。
「これはなんだ?」
「菓子だよ。食べたことはないか?」
 ない、というので、ひとすくいサービスしてやった。客は恐る恐る舐めた。
「うまいな」
 ガラガラ声が少しましになっていた。
 客が帰り、私はまた座り込む。別の客を待つ。入り口の向こう、夕日に赤くなっている狭い通路を、あの子に似た男の子が通り過ぎた。ここで待っていれば、いつかあの子も来るのかもしれない。
 駄菓子のメニューを増やそうと思った。


 3 爪切り少女

 水の入ったバケツ、折りたたみの椅子、道具箱、看板。それらを載せた台車を押して歩く。舗装された道を行くので台車は楽に押せる。人々が昼食を食べに外へ出てくる時間に、いつもの場所に陣取る。路上の端、焼きスルメ屋の横がわたしの店だ。
 焼きスルメ屋と挨拶をして、店を出しにかかる。手間はかからない。バケツと道具箱を地面に置き、椅子を広げ、六ヶ国語で「爪切り・爪磨き」と書かれた看板を出すだけだ。
 あとはひたすら客を待つ。焼きスルメ屋と雑談もするのだが、その屋台からはいつもいい匂いがして、おなかがへって仕方がない。
「ぼったくるのもいいんだけどさ」と焼きスルメ屋がいう。「外国人も賢くなっちゃってね、あんまり取れないよ。定価を書いておこうかと思うわ」
「日本人は? 馬鹿みたいに言い値を出すけど」
「あいつらも昔ほど金を持ってないよ」
 でも、とわたしが答えかけたときに、立ち止まって看板を見つめている男に気づいた。黒髪だが何人かはわからない。看板の中のどの言語を読んだのか。
 いくら、と訊くので、高めに答えた。ピカピカにするよ、とも言った。わたしの目を見て少し値切った。オーケーといって彼を椅子に座らせた。
 片手ずつ出させる。爪は伸びきっていて汚れていた。丁寧に切っていき、エステで使うようなヤスリでつるつるに磨き上げた。
 フィニッシュだというと、自分の両手をまじまじと見つめていた。足の爪もやるかと訊いたが首を振った。サンキュ、といって料金を払い、人混みのほうへ歩いて行った。
「儲かったじゃない」焼きスルメ屋がいった。「羨ましい」
「テクの問題よ」そう答え、わたしはお金を道具箱の隅に入れた。
 この日は他に客が来ず、夕暮れになってまた台車を押して帰った。この時間、道では娼婦たちとすれ違う。そういう仕事のほうが儲かるとはわかっている。ただ、それも楽ではないこともわかっている。
 帰り際に弁当を買い、家へ向かった。誰かが待っていれば寂しくないのにと考えたが、あいにくそんな誰かなどいない。
 家に着き、道具を片づけて食事にする。弁当は、おいしかった。


 4 品切れランチ

 もともと料理人見習いとしてこの食堂で働き始めたのだが、料理についての俺の覚えがあまりに悪いこともあって、いまはウエイターとして働いている。
 朝に店に来て、まずは掃除を一通りやる。店の前の道路を掃き、店の床を掃き、テーブルを拭いたら掃除は終わりだ。
 きれいになった頃に店主が奥の倉庫から起きてくる。この店は店主の家でもあるのだ。
「やったか」寝起きらしからぬ、殺気を感じるような顔でそう問う。
「やりました」
「きれいになったんだな?」
「なりました」
 よし、といって店主は厨房へ入る。料理の下ごしらえをするのだ。
 朝飯の時間から客が来る。たいていは安いメニューを注文される。小魚を乗せたどんぶり飯だとか、漬物と米のセットだとか、あるいは米一杯だけ頼んでテーブルにある調味料をかけて食う客もいる。
 朝の客がはけるとしばらくは暇で、俺と店主はラジオを聴く。DJのお喋りが店に響く。下ネタが飛ぶと店主の口の右端が五ミリ上がる。
 昼の客が来ると酒の準備もしなければならない。昼から飲む客は多い。居酒屋の風体となり、騒がしい中、俺はテーブルの隙間を通って仕事をする。
「白ランチ」
 と注文を受けるが、品切れだと答える。白ランチは日に五回はオーダーされるのだが、品切れだといえ、と店主に厳命されている。
「ないのかよ」酒で顔を赤くした客がわめく。「なんでないかなあ」
「ずっとねえんだよ。なあマスター?」
 他の客が話に便乗し、厨房の店主にいうが、無視されている。
 俺自身、注文は受けるものの白ランチがなんなのかは知らない。店主も教えてくれない謎のメニューだ。
 白ランチってなんですかと、客に訊いてみた。
「白ランチっていったら、そりゃお前あれだよ」客は笑う。「最高だったよ」
「ここのはよかったなあ」別の客もいう。
「おいしかったんですか?」
 そう訊くと、一瞬みんな黙り、それから笑い出した。
「おいしいっちゃあおいしいなあ。そういう言い方もできるなあ」
「ニイちゃん、ここのウエイターなのに知らないんだな」
 はあ、まあ、と答える。
「マスターに頼んどいてくれよ。白ランチをさ、ちょっとでもいいから」
 夜になり、酔っ払いたちが帰り始め、少し店が暇になった頃に店主に訊いた。
「今日も頼まれたんですけど、なんなんですか、白ランチって」
「知らねえほうがいい」また殺気のある顔でそういった。「お前はまだ若くて、未来がある。だったら知らねえほうがいい」
 最後の客が帰り、店を片づけて俺も家に帰った。
 白ランチ。気になるが……。


 5 ジュークボックス男

 中央市場のはずれにジャンクな機械を売っている一画があって、その中の半導体のにおいがする小さな店が僕の行きつけだ。
 ジャンク品のロマンをどう語ろう。直す楽しみだとか懐古的なものの甘美さだとかいえるかもしれないが、単に死体としての、壊れた機械へのネクロフィルに近いような気もする。
 店の主人はいう。
「ここにあるものもさ、直せば十分使えるもんばかりなんだよ。昔はちゃんとパッケージに入って売られてて、現役だったんだから」
「何十年ものだよね」僕はレジの横の白いパソコンに目をやる。「どう使うんだって感じ」
「いつだって、何に対してだってオタクってのがいるんだよ。お前みたいなのがな」
 この日買ったのは音楽プレーヤーだ。中を開けて配線をいじり、その後母艦のマシンに繋いでレジストリを調べ、ソフト面を復元した。フラッシュメモリの中にかつての持ち主のデータが入ったままだった。音楽のファイルが一万曲ほど。ポップスやロックの、かつての流行曲のようなものもあるし、クラシックの名盤といったものもある。元の持ち主は雑食だったようだ。
 スピーカーに繋いで聴けるようにした。ざっと調べると、データの破損やノイズは少なく、たいてい聴けるようだった。
 小遣い稼ぎを思いついたので、夜、プレーヤーと小さなスピーカーを持って町へ出かけるようになった。酒場へ入り、客からリクエストの曲を頼まれたらそれを流す。おひねりをもらう。これを一晩中やっているとけっこうなカネが集まった。
 カウンターだけのとあるバーに入ったとき、暗い店内でカクテルを飲んでいる女にリクエストをもらった。
「バド・パウエルが聴きたいの」
 プレーヤーの中を探したが、そのアーティストの曲は入っていなかった。それをいうと、女はつまらなそうな顔をした。
「聴かせてくれたらいくらでも払うわよ」
 いくらでも、とはいいすぎだろうが、儲け口ではありそうだ。今度聴かせる、と約束して、その晩は他の客のリクエストを流した。
 バド・パウエルの音源を探さねばならない。翌朝に出かけた。ジャンク屋界隈にデータを売る店があり、買い方としてはコピーディスクか、それともメモリに直接移すかを選べる。
 店にいたパンキッシュな髪型の店員に尋ねる。
「バド・パウエルを探してるんだけど」
「ねえな」店員はそういった。「ちょっと古すぎる」
「有名な人らしいじゃん」
「いまじゃ無名なんだよ。でもジャズファンなら持ってるだろうから、そういうやつを探したほうがいい」
 そうして追い払われた。データ屋をいくつか回ったが、結局見つかることはなかった。
 あのバーにはもう例の女は来ていない。待たせすぎたし、そもそも曲が手に入らなかったので、僕も儲け口としては諦める他はない。
 最近、新しい商売を考えている。短波ラジオで海賊放送局をやるというものだが、どうすれば儲かるだろうか?


 6 恋愛公園

 晴れた日だから、雨が上がったから、という理由で彼を誘い出しに行った。
 外壁が蔦で覆われ、あちこちにヒビの入ったマンションの、私の部屋の二階上に彼は住んでいる。階段を上がって彼の部屋のチャイムを押したとき、いままで眠っていたのであろうぼんやりとした顔が玄関先に現れた。
「もう昼だよ」私はいう。「なんか食べる?」
「あー。もうちょい腹へってから」
 じゃあ散歩でもしよう、というと、そんなら着替えてくる、と部屋の奥へ行った。
 玄関のシューズボックスの上には黒い龍の置物がある。天然石を彫って作られたものだそうで、彼が一時かぶれていた風水のグッズだ。顔を部屋の内側に向けてある。この配置も風水だそうだ。
 がおー、と龍を脅かしていると、着替えを終えた彼に見られた。
「何してんの?」
「いや……。これ置いても、あんたあんまり開運しなかったと思って」
「ドラゴンちゃんは悪くないよ」
 ちゃんづけかよ。
「何事も地道な努力だね。万事が万事そうだね」
「そりゃ殊勝だわ」
 そういって私はドアを開けた。あとから彼もついてきた。
 階段を降りて一階のエントランスを出る。眩しいくらいの日差しがあった。人通りは少ない。捨てられた缶ジュースの甘いにおいがした。
「どこ行こうか」彼は伸びをした。「市場でも歩く?」
「公園! 公園でアイスクリームとホットドッグ食べながらフリスビーとバドミントンやる」
「元気いいな。発電できそうだな、その元気で」
「私の発電力は53万です」
「フリーザ様みてえだわ」
 くだらないおしゃべりをしながら道路を歩いていく。いまの季節、日差しに照らされるのは気分がいい。すれ違った浮浪者が何か文句をいっていた。そんなことも気にならない。
 公園は近くにある。手入れされていない芝生は枯れ、代わりに雑草が切りそろえられている。ゴミは落ちているが歩けないほどではない。
 屋台が四件並んで出ている。だがアイスクリームもホットドッグも売っていなかった。
「完璧なプランだったのに」
「ザルじゃん」
「私の嘆きがわからないの?」
「わからねえなぁ。麺でも食おう」
 スタスタと屋台に向かっていった。青いプラスチックの椅子に座り、手招きする。私もしぶしぶそちらへ行く。
 注文をするとすぐにどんぶりが出てきた。透明なスープに浮いた麺を食べる。麺は米で作られている。この料理は食べやすくていい。あっさりとして飽きがこない。
 食べ終えた私たちは公園をうろついた。くだらないことをいい合いながら、これという目的もなく歩く。ダラダラとした散歩だ。私にはこういうことが楽しくて、それだけで人生に不満などはないが、彼にとってはこれでは不十分なのだ。
 夢を見ることの何がいけないというわけでもなく、それへ向かっていくことを応援してもいるが、一方で夢が彼を蝕んでいるのも確かなことで、私には何をどういえばいいかはわからない。ただ、私の元気を分けてあげることくらいはできるかもしれない。だからそばにいる。
「はい、体操。手を大きく上にかざして」といってみる。「復唱。オラに元気を分けてくれ!」
「お前、そんなにドラゴンボール好きだったっけ?」
「いいから復唱」
「あー、オラに元気を分けてくれー」
 雑に上げられたその手の向こう、午後の太陽が明るく光り、それが本当に悟空の元気玉みたいで、私は笑った。


 7 ライサマヴァジュラ

 教師の話を聞き終えたとき、僕はヴァジュラを盗むことを決めた。
 狭い路地に黒板を持ち込んで行われる、机のない教室だ。机の代わりに、膝に乗るサイズの板が子供たちそれぞれに渡され、板書のための藁半紙が一枚ついてくる。
 この日の授業は神話や伝承などについてだった。世界各国の話をざっと聞いた。興味を引いたのは、インドラという雷神が持つヴァジュラという武器のことだ。インドラは神話上の存在だが、ヴァジュラを模したものは実際にあるらしい。密教の法具だ。
 教師はいう。
「魔除けになるし、縁起もいい。そして何よりかっこいい」
「せんせーは持ってるの?」誰かが訊いた。
「ああ、ひとつあるね。中央市場に流されてきたものだが、どうやらあの国の本式のやつだ」
「何に使うんですか?」今度は僕が訊いた。
「私も修行僧じゃないからね」と笑う。「愛でるだけだ」
 授業が終わり、明日も来るように、と言い渡されてその日は解散となった。僕は生徒のひとりと話をしながら、横目で教師の様子を探っていた。
 教師が帰っていくところを、話を切り上げて尾行した。ヴァジュラは家にあるのだろう。家に入り込みさえすればそれを探せる。
 大通りのほこりっぽい人混みの中へ入っていく。見失わないようにして、やっとついていく。やがて横道に入ると人はほとんどいなくなった。日が差さない暗い道だ。道の苔に滑って、派手に体を打った。教師がこちらを向いた。
 尾行は失敗した。
「ついてきたのかい?」
 教師はなんとも思ってないような様子で話した。
「何か用があるのかな」
 どうせならもう、はっきりと言ってしまおう。もしかしたら家に連れて行ってもらえるかもしれない。
「今日の授業で、ヴァジュラの話がありましたけど」
「うん」
「見てみたくて」
 そうか、といい、手を顎にやって考え込む素振りを見せた。
「明日、教室に持って行こう。見せてあげるから。今日は帰りなさい」

 翌日、授業のあとで教師に呼ばれた。路地の端で、鞄から金属製のものを取り出した。金色というほど光ってはいないが、銅のようにうっすらと輝く、複雑な形をしたもの。
「これがヴァジュラだ」
 手に持たされた。僕の両手にぴったり収まる大きさだった。惚れた、というのだろう、これはどうしても欲しい。
 以来、ヴァジュラを盗むことばかり考えている。授業に出るのは尾行のためでもある。まだ教師の家の場所さえわかっていない。どう尾行しても教師を見失ってしまうのだ。ヴァジュラが持ち主を守っているのだろうか、とも思えた。
 今日は算数の授業だ。こんなことよりも、インドラとヴァジュラの話を聞きたいのだけれど。

 8 将棋いくさ

 かつて立派な電車が停まった駅も、廃線になってからは荒れ放題であり、あちこち破られた鉄条網の先の線路は、伸びに伸びた雑草と腐ったゴミと狂犬病の野良犬がいるような状態となった。そこに寝起きする者もない。俺たちは線路からやや離れた駅前に住んでいる。駅前はまだましな状態だ。
 この駅前にはなぜか大量にベンチがある。電車が通っていたことを考えても多すぎる。広場として使われていたのだろうが、それにしても多い。おかげで助かってはいるのだが。
 朝、駅前のそこら中から起きてきた連中が目をこすりながらメシを食う。隅の屋台から買って食うやつもいるし、拾い食いするやつや盗んでくるやつもいる。買うカネがあるのは昨日勝った連中だ。そこに俺も含まれる。屋台に座り、米と炒めものとスープ、ビールと煙草を楽しむ。連中の羨む目。
「勝ったらさあ、俺もそんなメシを食いたいもんだ」
 俺の横に立った男がいった。顔を見た。そいつは昨日の二番目の相手で、5五銀を歩でとがめたあとの角交換、9五角打ちでいじめてやったやつだった。
「強くなるこったな」俺は煙を吐いた。
「どうすりゃ強くなれる?」
「勝負を続けろ。それしかないと思うがね」
「もう掛け金がねえなあ」
 ぼやくそいつを放っておいて席を立ち、俺はベンチのある辺りに向かった。朝日の中、ベンチの上で盤を挟んで座っているやつらがいた。朝から熱心なものだ。
 盤を覗いて回る。どいつもそんなにうまくない。それでもときどきサエた盤面を見かける。俺はそれに食いつく。先手、銀が遊んでいるが、これは捨てて4四角、同金から2四飛……。
「おい」先手のやつが俺を見た。「ちょっと教えてくれよ」
「汚ねえぞ、てめえで勝負しろよ」後手がキレた。
 俺は笑った。
「ひとことだけだ」先手の顔を見る。「角を突っ込め」
「汚ねえって、俺にもひとことくれよ」
「あんたはそうだなぁ……。歩をうまく打て」
 結局先手が勝ち、その勝負を見届けたあと、俺もそこらのベンチに腰かけた。懐から携帯用の盤と駒を出し、ベンチの中央に置く。それからは対戦相手待ちだ。
 あちこちから駒の音やら唸り声やらが聞こえてくる。昼近くになるとベンチは将棋指しでいっぱいだ。指している本人たちも賭けているが、見物人たちもどちらが勝つかと賭けていることがある。
 対戦相手がなかなか来ない。ぼんやりと座り、この駅前広場を見ていて、この世に将棋があってよかった、と思った。こんなに楽しいものもないじゃないか。
 俺は傍らの盤と駒を見た。垢で黒っぽく汚れている。きれいにしなくてはと思い、それらをまとめて水飲み場へ行こうとしたところ、よろよろとそばに来たやつがいた。
「じいさん、もう終いか?」
「いいや、指せるぞ」俺はいった。「カネはあるか」
 ある、という。だったら勝負だ。ベンチに座った相手と共に駒を並べる。
 勝負の始まりの瞬間、そこらにいたカラスたちが鳴いた。不吉だな、と相手がいう。そうだな、と答えた。
 俺の最期の勝負も近いのかもしれない。足は痺れ、指は震える。だが将棋だけは死ぬまでやっていたい。せっかくここまで強くなれたのだ。もっと勝ったっていいはずだ。
 だが指してみるとこの相手も強い。楽しい勝負になりそうだ。5四歩に同歩、ならば5二歩打ちから7七角で――。


 9 遊びの発明

 ぼくはいま10歳かそこらだそうだ。周りのやつらもだいたいそのくらいの歳なのだろうと思う。背の高さが似たようなものなのだ。ついでにいえば体格も。いつも食べものがあんまりないから、みんなやせっぽちだ。
 今日も昼近くになり、おなかがへった。何人かで連れ立って食べものを盗んでくることにした。
 道路をぞろぞろと歩いていく。ぼくたちを避けるやつと避けないやつがいる。避けないやつらはぼくたち同様、汚い身なりをしている。これ以上は汚れないというわけだ。
 中央市場には常連として通っている。布でできた低い天井の下、人混みに紛れるのは簡単だ。大人の客の背中にすっと張りつき、客の脇から手を伸ばし、パンなんかをすばやく取る。ときどきは店のやつに見つかって怒鳴られるが、そんなときは「130メートル走」で鍛えた脚で、市場の外まで走っていけばオーケーだ。ぼくたちが追いつかれたことはない。
 今日、ぼくはバターロールの詰まった袋を盗めた。ビスケットを盗めたやつもいた。公園のほうまで歩いて行って、草むらに座り、みんなで分けて食べた。
 脚が鍛えられる「130メートル走」というのは、ぼくたちのよくやる遊びだ。ぼくたちが住んでいる地域にはバラックが並んでいて、その前にある道の、端から端までがだいたい130メートルで、共用のスニーカーを履いてそこを駆け抜ける。ルールはひとつだけ。全速力で走ること。スタートの合図やら競争やらはどうでもいい。
 遊びはまだある。最近ぼくたちがハマっているのは「犬追い」というものだ。犬肉として食えもしないような病気の野良犬を取り囲み、野良犬が逃げたら追いかけて、逆に襲われたら逃げる。すごいスリルだ。何しろ噛まれたら病気が移って死んでしまうだろうから。
 最近の遊びでもうひとつ、誰がいい出したことかはわからないが、新しいことをやろうという話になった。きれいな身なりの大人を狙い、後ろをつけていって、背中をみんなでどんと押して倒して一散に逃げるというものだ。
 やってみるとやみつきだった。これは愉快だ。倒れた大人は驚きで顔が真っ白になる。地面から顔を上げたとき、何が起きたんだ? という表情をしているのがたまらない。
 こうやって大人を襲ったっていいだろう。だって、ぼくたちが汚くてひもじい、ひどい暮らしをしているのは、こいつら大人たちのせいなんじゃないのか?
 ねえあんた、それは違うっていえるか。


 10 デビルエスプレッソ

 客用の日よけも兼ねて、かわいいオレンジ色のパラソルを広げてみたが、やはりこれが露店であることには変わりなく、どうにも貧乏くささが残ってしまう。テーブルや椅子がプラスチックだからだろうか。あたしは頭をひねる。テーブルクロスでも敷いてみようか。それならレースつきの白がいいけれど、汚れが目立ちそうなのがネックだ。
 でも、あたしの店に来る連中が洒落っ気のようなものを求めているわけではない。きれいなカフェなら他にきちんとした店がある。コーヒー豆も、ドリップの腕も、ついでに接客態度まで文句なしのカフェ。あたしも研究のためにそこへ通ったものだ。
 客たちは朝っぱらから訪れる。みっともないというのか、垢抜けないというのか、だらしない感じの客たち。彼らにコーヒーを淹れるのがあたしの仕事だ。一杯ではたいして取れないが、使うのは安い豆なので構わない。
 朝一で必ず来る客といつも話す。彼は肌がきれいだ。外国製の腕時計が自慢で、時間を見るときの仕草が少しわざとらしい。
「これ、ドイツ製でさ、いいものなんだよ」
「高いんじゃない?」
「定価は高いね」と彼はいう。「中古だったから安く買えたんだ」
「まあ、似合ってるんじゃないの」
 そういってやると露骨に喜ぶ。そしてカップのコーヒーをがぶりと飲む。もうちょっと味わってもらいたいな、と思うけど。
 彼と話しているうちに他の客も集まってくる。常連同士でおしゃべりが始まり、あたしは忙しくコーヒーを淹れる。
 厄介な客も多い。言い寄ってくるような連中だ。こういうのには若いのもいるしそうでないのもいる。あたしが特別かわいいわけでもないと思う。ただ女に飢えているだけのやつらだろう。
「これだけ通ったんだぜ」ある男がいう。「なんかサービスしろよ」
「パラソル、かわいいでしょ。あんたに紫外線が当たらない。これがサービス」
「そういうんじゃなくてさぁ。夜とかさ、寂しいんじゃないの?」
 話がこうなってくると無視を決め込む。
 そしてそんな面倒なとき、決まってあの老人が現れる。
 黒いハットの下、刃物のような眼光で周りを威圧して、ゆっくりと席につく。言い寄っていた男は黙り、店全体も静まり返る。代金をテーブルに置いて帰る客もいる。あたしは注文を聞く。
「エスプレッソをくれ」ぼそりとそういった。
 そうしてミルク入れのような小さなカップを出すと、ひとしきり香りを楽しむようにしてから、一気に飲み干す。ふう、と息をつく。くつろぐように背もたれに寄りかかる。
 この静かな老人が恐れられているのは、その風格がすごいこともあるのだが、主に噂のせいなのだ。いわく、悪魔崇拝のまじない師だそうで、関わるとよくないとか、呪い殺された者がいるとか、いい話は聞かない。
 でもあたしにとっては普通の客だ。むしろ嫌な客を黙らせてくれるから、ありがたいくらいだ。
 エスプレッソを頼むのは彼だけで、そこに何かまじないの事情でもあるのか、ただの好みなのか、それは気になるところだ。
 いま、ハットの下の目は閉じられている。再び目が開かれたとき、二杯目のエスプレッソが注文されるだろう。静かな店の中、あたしはパラソルを見た。まだ、誰も褒めてはくれない。


 11 ブルースカイ・ムービーシアター

 元々はサッカーやラグビーなんかのグラウンドだったところに、夜の九時、町の連中が集まる。みな伸びきった芝や雑草の上に座り込み、スクリーンのほうに体を向けて、じっとしていたり、連れとダベったりしている。屋台のメシを買ってきて食べているやつもいる。
 雨の気配もなく、今日は映画日和だ。
 設備の関係で、俺が映画を写すのはいつも夜中だ。昼間だとスクリーンの映像は白くかき消えてしまう。音響の面でも、夜は静かなので聴きやすい。
 スクリーンとして使っている巨大な布へ向けて、プロジェクターのチェック映像を流す。どこか外国のコマーシャル映像だ。いつもユーモアのあるようなのを探してきて流すが、反応はまちまちだ。
 プロジェクターの横から客たちを見る。今夜は五十人くらい集まっているようだった。
「またチャップリンか?」
 馴染みの男が、そばに寄ってきてそういう。
「もうみんな飽きてんじゃないのか」
「俺は何度でも流したいね。チャップリンこそ偉大なんだ」
 そう答えて、フィルムを再生する。オープニングでは軽いブーイングが起きる。またかよ、というわけだ。だが十分も再生していれば、みな夢中でチャップリンを見つめ始める。表情、身振り、歩き方、声、ストーリー、どれもが無視できなくなる。
 これだからチャップリンは偉大なのだ。
 今夜は『独裁者』を流している。一人二役の演技には俺も惚れぼれとしてしまう。トーキーの音声も、スクリーン裏のスピーカーからきちんと聞こえる。字幕は二種類つけてある。もっとも、読めなくても聞きとれなくてもおもしろいのだが。
 再生途中にプロジェクターから離れた。俺自身はどこにどんなシーンがあるかをすべて覚えていて、観なくても展開や映像がわかる。
 グラウンドの中央の、スクリーンから離れたところへ歩き、煙草を取り出した。地球儀の風船で遊ぶヒトラー役のチャップリンが闇夜に映った。客の笑い声がここまで聞こえてくる。
 カネはとらないのか、とよく訊かれるのだが、いまのところ商売をするつもりはなくて、ただ映画館の真似事をしてみたいだけだ。ぶち壊されてボロボロの、この娯楽の少ない町で、映画くらい自由に観てもいいんじゃないかと思う。上映する作品を決めるのは俺ではあるけれど。
 一服を終え、プロジェクター前へ戻る。まだ映画は続いている。客たちのほうをうかがうと、没頭するように観ていた。
 アンケートでも取ろうか、と考えた。そのとき一番人気がある作品はなんだろうか。小難しいのは受けが悪い。笑えるようなものが選ばれるだろう。
 俺もデータのコレクションを増やしていかなければならない。
 客たちを楽しませるためだ。
 スクリーンではいま、チャップリンが独裁制を批判している。もうすぐ今夜の上映は終わりだ。


 12 殺すためのもの

 僕らは――というのは僕とその友人だが――ある日偶然、中央市場を歩いていて、やはりまた偶然それを手に入れた。場所は市場の隅のほう、軍の放出品を売る店で、削れたヘルメットや血の滲んだコンバットブーツやフラップが焦げた手榴弾ケースと同じようにテーブルに並べてあった。
 流線型の銃弾だ。
 いや、いくらなんでも、いくらこの町でもこんなものがあるはずがないんじゃないか。偽物じゃないか。そう思うのだが、友人は指でつまんでよく見定めている。
 僕に囁いた。
「本物だ」
 そして目で聞いてくる。買うか買わないかとだ。決める前に一度確認したくて、店番の男に話しかけた。
「こんなの、売ってちゃよくないんじゃないですか」
「どれ?」
「いや、この、銃弾らしきものとか」
「構わねえよ。だいたい銃自体が出回ってないんだ、使い道がない」
 それから、買うか、と男に迫られた。僕が何もいわないうちに友人が買った。
 市場から出て立ち止まり、どうするんだそれ、と友人に訊く。うーん、と彼はうなった。買った銃弾を指先でつまんでじっと見て、やがていった。
「たぶんホローポイント弾だなこれ。当たるとマッシュルーミングを起こして大ダメージだ」
「詳しいのはいいけどさ。それをどうするんだって」
 友人はしばらく考えごとをしていたようだが、銃弾を無造作にポケットに入れて歩き出した。
 その日は一緒に露店のアップルパイを食べて、それで解散した。どこへ行くというあてもないので、僕は家に帰った。ベッドに座って、あの銃弾のことを考える。友人のことも考える。何かしでかさなければいいが。
 嫌な夢を見てうなされた。起きてから身支度をして、友人の家へ向かう。埃っぽい、砂で黄色い道をちょっと歩いていって、坂道を下ればすぐだ。
 友人は自宅の、痩せた木が数本ある庭に座っていて、地面をじっと見ていたが、僕に気づくと手で歩行を制した。
「そこ、気をつけろよ」と、ある箇所を指差していう。
「何に気をつけるんだよ」
「地雷を埋めた」
「そんなもんまで持ってるのか?」
「いや、あの銃弾を上向きに埋めただけだ。それで立派に地雷になるらしいんだけど」
 指差されたあたりを迂回して友人の近くまで行く。庭をよくよく見ると掘り返された箇所がわかった。寒さに黄色味を帯びている雑草、それが広がっている中に土の茶色が目立つ。
 これじゃバレバレだな、というと、わざとだよ、と答える。
「自分で踏んだら笑えないからな。本番ではちゃんとカモフラージュする」
「殺したいやつでもいるのか」
「お前にはいないのか?」
 庭を見つめて、いないなあ、とぼんやり答えた。実は俺もいない、と友人は答えた。
 その日からしばらく、町のあちこちに行ってみて、殺さなきゃいけないような人間を探し回った。だがそんな人間は見つからなかった。みんな同じようにみじめったらしくて、貧相に見えて、そうして必死で生きてるところを見てしまうと、命を奪う気など起きない。
 いつか友人と話した。もしこの国の大統領がこの町に視察に来たら、地雷をしかけるかどうかだ。僕は反対だが、友人はやるつもりらしい。
 狙いは大きい。だがきっと大統領は来ないだろう。
 この町は見捨てられているのだ、と僕らにはわかっている。


 13 書くということ

 白いナイロンの上着がわたしの作業着で、その上着の背中には看板替わりの文字が踊っている。「ペン、鉛筆、買い取ります」というその文字がわたしの仕事をすべて表している。それを着て町を歩き、ときどきは家々を訪問し、使われていない筆記具をひたすら集め続ける。
 一日中歩いてもせいぜい七、八本ばかりの収穫だ。夕方にわたしも仕事仲間も事務所に集まり、サコッシュに入れたその日のぶんを事務所のボスに渡す。ボスは頷く。
 ボスのデスクの背後、天井近くには毛筆で書かれた書がある。字はそのまんまの、「書」という漢字だそうだ。
「お疲れさん。今日のみんなの働きで、また勉強ができる子供たちが増えた。この仕事を誇りに思ってほしいね」
 ボスはそういう。先月ひとりこの仕事から逃げてしまったので、最近は持ち上げてみたり褒めてみたりと、わたしたちに優しげだ。
 歩合のぶんの報酬をそれぞれ受け取り、わたしたちは帰ろうとしたが、わたしは呼び止められた。みんな出て行ってしまい、事務所にはボスとわたしだけが残った。
 何の用だろう、とデスクの前に立つ。ボスは紅茶を一口飲んだ。
「仕事のやりがいはどうだ」
「ええ、なんとか」
「なんとか?」
「なんとかこなしてるつもりです」
 うん、とボスはいった。紅茶をまた一口。
「君の成績はいいと思う。やっぱり女性だと町の連中も警戒しないんだろう」
 そこでだ、という。
「明日、ちょっと別の仕事を頼みたい。これまでの仕事とは逆のことだ」
「はあ。逆」
「集めるんじゃなく、配るんだ」
 そういってからデスクの引き出しをガサガサやり、よれた地図を一枚出した。ところどころ赤く丸がついてあり、場所の名前も書いてある。その後の説明によると、それらの場所には子供たちが預けられているから、管理者に筆記具を渡してきてくれ、とのことだった。
「一カ所につき十本置いてきてくれ。売値のキリがよくなるからな」
 そういって麻袋をよこしてきた。中には無数の鉛筆やペンがあった。
 翌日、朝からわたしは動き出した。地図を頼りに、近いところから回っていく。孤児院のような建物ではボロを着た子供たちが騒いでいた。管理者の方は筆記具を泣きそうな顔で受け取った。本当にありがとうございます、とお辞儀をされて、わたしはたじろいだ。
 ストリートチルドレンにお菓子を配っている場所へ行くと、配り終えるまで待っていてくれ、といわれ、お菓子を我先にと取っていく子供たちを見ていた。配り終えた男性がこちらへ来る。ペンを渡す。
「ありがたいね、これでここらの子に字を教えられる。知ってるか? みんなアルファベットのAすらわからないんだぜ。数字の1もな」
「お役に立てれば幸いですけど」
 大助かりだよ、と彼はいい、色をつけて代金を出した。
 その後もあちこちを周り、筆記具を配り続けた。最後の場所は大所帯で、夫婦で里親として子供たちを預かっているという、大きな家だった。奥さんを相手に筆記具のやりとりをし、しばらく立ち話をしていたが、お茶を勧められてつい応じてしまった。
 手入れのされた木々があるその家の庭に、白いテーブルと椅子があり、わたしたちはそこで大陸のお茶を飲んだ。
「あの子たちも読み書きができればね、それさえできればなんとかなる気がするの。でもね、いまは主人と一緒に教えてるけど、本当はきちんとした学校が欲しい」
 奧さんはそういった。わたしは曖昧に頷いた。
 学校、そういえばこの町にはそれがない。あるのは大きな廃墟となった、ボロボロの跡地くらいのものだ。何年も昔、そこで子供たちは学んでいた。そこには黒板があり教科書があり、教師がいて生徒がいたのだ。
 話が終わったころ、庭の入り口まで見送られ、そこから事務所まで戻った。ボスに売り上げと空になった麻袋を渡した。うん、とボスは満足気だ。
「どうだった、現場は」
「仕事に誇りが持てましたよ」
「なら、来月あたりまた行ってきてもらおうかな。鉛筆もペンも消耗品だからな」
 喜んで、といおうとして、それはそぐわないな、と思い直した。喜びや楽しみとしてではなく、厳粛な義務としてやらなければならない。そういう気がした。


 14 小腹がへる問題

 朝、まずは中央市場の食品売り場で仕入れをする。まだ腐っていない肉を見つけてそれを買う。次に通りに面した自分の屋台に向かう。調理台にかけておいたブルーシートを外し、ガスボンベとコンロの確認をする。肉を切り、塩とスパイスを振り、串に刺して焼き始める。このあたりで午前八時ごろになり、朝飯を探す連中が通りにうろつき始める。
 俺の商法は単純だ。ステーキは焼ける音と香りで売れ、という原則があるらしいが、その原則一本の勝負だ。シズル感と呼ばれるその誘惑で客を集める。
 肉の串焼きはコンロの上でうまそうに焼けていく。じゅうと音を立て、肉汁を垂らして香りが広がる。こんなのは俺が食いたいくらいだ――といっても、売れ残りはしょっちゅう食うのだが。
 一本、また一本と、ぼちぼちと売れていく。小腹を満たすためにちょうどいいような大きさにしてある。中には今日これだけしか食べられないやつらもいるが、そいつらには少し安く売っている。空腹は、ただ苦痛だ。俺はそれを理解している。
 こうして路上で売っている俺のライバルは、通りを挟んで向かい合っていて、やはり屋台を出して商売をしているフルーツジュース屋だ。ミキサーを使いこなしてさわやかに笑って接客する、あの年下の男には負けたくない。
 向こうの客は女が多い。あんな腐れイケメン野郎、顔で売っているようなものじゃねえか。商品で勝負しろ、といいたい。だがいかんせん分が悪いことには、いま町ではフルーツが流行しているのだ。ビタミンなんかの栄養素がどう、とかみんないっていて、健康のためにと売れている。
 肉を食え、と呼びかけるのも主義に反する。タンパク質だって大事だと騒ぐのも面倒だ。俺はやはりシズル感で売る。音と香り。黙々と串を火にかける。
 コンロから目を上げるとフルーツジュース屋の男が立っていた。涼しげな顔をしている。
「なんだ」俺はいった。「焼くぞ」
「人肉まで焼くのか? さすがだね」
「お前はていねいにじっくり焼いてやるよ。ウェルダンだ」
 ははっ、と男は笑った。この余裕が鬱陶しい。
「用はなんだって訊いたんだが」
「串焼き屋に用があるんだから、わかるだろ」
「わからねえな」
「機嫌悪いのか? 一本売ってくれよ」
 そして腹を押さえる身振りをして、小腹がへっちゃってさ、といった。
 空腹はただ苦痛だ。こいつだっていま苦しいのだろう。だから、忌々しいとはいえ、焼きあがっている一本を温め直しにかかった。
「店はどうした?」
「もう閉めてきた。完売御礼だよ。フルーツブームってありがたいな」
 そうかい、といって温め終えた串焼きを渡した。代金を受け取る。
「なあ、おっさん。思うことがあるんだけど」肉を食いながら喋る。
「知ったこっちゃねえよ。串持ってあっち行けよ」
「あんたにも関係あるし、大事なことなんだ。簡単なことでもあるんだけど」
 会話のシズル感だ。何がいいたいのか気になってしまう。こういうことでもこいつは店の儲けにつなげているのかもしれない。
 俺の目を見ていった。
「あのさ、俺たちは食べるものとか飲むものを売ってるけどさ、こんなに重大な職業って他にないんじゃないかって、さっきミキサー回しながら思ってたんだ」
「そりゃあお前、人は食わなきゃ死ぬからな。でも」俺は答えた。「メシを食わなきゃいけないのは当然のことだ。くだらねえこというな」
 くだらないかなー、と男はいい、片手をひらひら振って通りの向こうへ行った。串焼きを食いながら店を片づけている。一方俺はまだ肉を売り尽くしていない。腹をへらしているやつらに売らなければならない。
 串をひっくり返す手をとめて思った。
 重大な職業。そうかもしれない。


 15 コートを買う日

 十分な金が貯まったとき、もう冬は訪れていて、雪こそ降らないものの雨が降れば冷たく、晴れた日だとしても体が冷えてしまう。
 普段通りに路地裏で朝を迎え、尻のポケットに手をやる。紙幣の厚みがある。これだけあれば買えるはずだ。今日、中央市場に行こうと思う。いま着ている汚れたジャケットなどではなく、念願の温かいコートを買って着るのだ。
 光が差すほうへ目を向ける。暗闇から見ているせいもあるだろうが、路地裏の出口はいつもより明るいような気がした。
 まっとうな買物客として中央市場に行くために、どのような準備がいるだろう。ぼんやり考え、格好をそれなりに整えようと思った。マットレスから立ち、タオルを持って水道のある小道へ歩いた。
 タオルを濡らして顔や手を拭く。思い切って上着とシャツを脱ぎ、上半身も拭いた。水が冷たくなければ頭も洗いたいところだった。
 こんなところだろう、と服を着なおして、俺は中央市場へ向かっていった。
 道には朝の騒がしさがあった。あちこちの店がシャッターを開け始め、ある者は店の前を掃除して、他には露店の準備をしているのも多かった。そのゴタゴタしている中を町の連中がうろつき、朝飯を探している。
 いい匂いがした。何かが焼ける匂いだ。辿って行くとひとつの屋台があり、女が網の上で干物のようなものを焼いていた。目が合う。
「食べるかい? 安くしとくよ」
 そういうのだが、出費は抑えたい。首を振って先へ行こうとすると、隣の露店の看板が目に入った。ゴチャゴチャと書いてあるが、その中に俺の母国語があった。「爪切り・爪磨き」とある。看板の奥には少女が座っていた。
 爪か。手は洗ったが、爪は手入れしていない。
 少女の露店の前に立つ。目を上げた少女はうっすら微笑んでいった。
「きれいにするよ」
 中央市場に行くのだ。せっかくだから少しでもきれいな身なりにしたい。俺は少女の前に置かれている椅子に座った。
「こういうのは高いのか?」
「客によるけど。お兄さんは安くしてあげる」
「儲かるか」
「まあまあかな――手を出して」
 いわれるままに両手を出した。汚れは洗い流したはずだが、よく見るとまだ黒っぽいようだった。少女は俺の爪を見ている。欠け、割れて、ボロボロの爪だ。
「苦労人の手だね」そういって道具を取り出した。「つらい仕事してる」
「わかるか」
「ちょっとはね」
「ゴミ漁りだ。最低の仕事だよ」
「職業に貴賎なしっていうじゃない」
 そういう会話をしながら、もう爪を切り始めていた。右手、親指から整えていく。パチパチと軽い音が続いた。
 手元から目をそらし、隣の屋台を見る。いったい何を焼いているのか、やけにいい匂いだ。腹がへる。
 少女に訊いてみた。焼いているのはスルメだという。俺はそれを食ったことがない。
 爪は切り揃えられ、光沢が出るほど磨かれた。最後にバケツの水で清められ、クリームを塗られると、自分の手とは思えないほどになった。料金を支払い、椅子から立った。少女が訊く。
「これからどこかへお出かけ?」
「ああ、中央市場に行くんだ。買い物をする」
 そこへ横から声がかかった。スルメ屋の女だ。
「腹ごしらえしなよ」という。「そんなに痩せて、食わないともたないよ」
「じゃあ、安けりゃ買う」
 答えられた値段は小銭程度のものだった。こちらに合わせてくれたのだろう。ひとつくれと頼むと、女は紙の小袋にスルメを入れてよこした。よく焼かれて熱くなっているスルメをかじってみる。固い、が、うまかった。
 頬に何か触れた。自分の涙だった。スルメ屋も爪切り屋も驚いたような顔をしていた。
「ちょっとちょっと、舌でも噛んだ?」
 慌てるスルメ屋に、そうじゃない、といった。
「うまくて……」
 俺は涙を拭った。スルメ屋は困っているようだったが、また網の上からスルメを取り、包んで俺に渡した。もう買えない、というと、サービスだよ、と答えた。
「また来な。そんなにおいしいんだったら、いくらでも売ってやるから」
 頷いて、包みを片手に立ち去ろうとした。爪切り屋が後ろから声をかけてきた。
「買い物、楽しんできてね!」


 16 強さについて

 とっくに朝の食堂の掃除を終えたのだが、店主はまだ倉庫から出てこない。寝ているのだろうか。珍しい、というよりいままでにこういうことはなかった。いつも掃除の終わりの時間には店にやってくるのだ。
 店主が家として使っている倉庫の前に立つ。鉄製のドアをノックする。反応がない。開けますよ、といってドアノブを回した。
 物の少ない、殺風景な部屋の中央に布団があった。店主はその中でうずくまっていた。低くうめく声。
 どうしたんですか、と訊いてみてもそのままだ。病気か、と不安になり、枕元まで行く。店主は枕を握りしめていた。脂汗。血走った目。
「医者を呼んできます」
 そういって立った俺に店主はいった。
「……漢方薬局で……白ランチをもらってきてくれ」
「白ランチですか」
「早く! 少しでいいから」
 その剣幕に気圧されて、俺は倉庫を出た。店まで戻り、シャッターを下ろしてから、町を早足で歩いた。白ランチって客の連中が騒いでるやつだよな、と思った。店主もそれが欲しいというのはどういうわけだろう。
 漢方薬局は入り組んだ路地の隅にある。うろ覚えながら、迷いながら目指した。奥へ奥へ、と進むと、子供たちが騒いでいる一角があった。手には駄菓子を持っている。どこかで盗んできたのか、大きなフランスパンをかじっている子もいた。
 ボロを着た少年が俺を見た。そばの建物の中に声をかけた。
「おっちゃん、お客さんが来たよ」
 子供たちの頭上に看板があった。ここが漢方薬局だった。子供たちをかき分けるようにして店内に入った。古ぼけた商品や箪笥、すすけたガラスケースなどに囲まれて、店の主人らしき男が座っていた。
「病人か?」主人はそういった。「あんた前にも来たね」
「ええ、風邪で一度」
「食堂はどうしたんだ」
「そのことなんですけど、うちの店主が具合を悪くして。使いで来ました」
「何が欲しいって?」
「白ランチ、といってました」
 主人は、ああ、と溜息をついた。あんなものはやれないな、という。
「私はあれの扱いはやめた。あんた、白ランチが何なのか知ってるか?」
 いえ、さっぱり、と答えた。
「漢方には麻黄という生薬がある。精製するとエフェドリンになる。さらに精製するとメタンフェタミンに――シャブになる。白い粉だ。私は咳の薬として麻黄を売ってたんだが、あいつはそれを悪用してたんだよ」
 それが白ランチだ、といって、帰ることを促された。入り口に向かい、子供たちの群れを再びかき分けようとしたとき、主人がいった。
「あいつにいっておいてくれ。お前がいまでも強いなら、耐えてみせろってな」
「いまでも?」
「昔、あいつと同じ道場でやっててね。詠春拳ではあいつ、敵なしだったよ」
 店を出る。子供たちは映画について騒いでいた。今夜、新作が上映されるらしいと耳に入ってきた。この町には映画監督がいるのだそうだ。しばらく歩くと、駄菓子を食べ終えた子供たちが、恐ろしいスピードで俺の横を駆け抜けていった。
 食堂まで戻り、シャッターを半分開けて中へ入った。そのまま倉庫へ行く。店主はまだ布団の中にいた。息は静かで、少し落ち着いたようだ。
 要するに、クスリを作って売って、自分でもやっていたということだ。その禁断症状がこれなのだろう。
「持ってきたか」店主が訊く。
「伝言を持ってきました。『お前がいまでも強いなら、耐えてみせろ』って」
 店主は天井を見ていたが、やがて笑い出した。そして、情けねぇザマだ、といった。
「詠春拳、強いんですって? 今度見せてくださいよ。演武とか」
「もう、なまっちまってなあ。できるかな」
 そう呟いて、寝転がったまま、両手を中空に構えた。よし、といって跳ね起きる。
「店を開けるぞ」
 倉庫を出て行った。シャッターを開ける音と、今日も来る客の面々。
 白ランチはこの先ずっと、品切れだ。


 17 ヴァジュラエスプレッソ

 開店前、いつもの日課として、この店をどう改良するかを考えている。オレンジ色のパラソルを差しただけでは足りなくて、真っ白なテーブルクロスを敷いてみたが、それでもまだぱっとしない。
 あたしは腕組みをしてじっと店を見る。この露店のカフェは、見栄えも雰囲気ももっとよくなるはずだ。だけど、どうすればいいかがわからない。
 考えているうちに客が来た。もう店を開ける時間だ。準備をする中、たちまち常連たちが集まってきた。あたしが忙しく淹れたコーヒーを片手に、おしゃべりをしたり新聞を読んだり、好きずきに過ごす午前だ。
 昼になると手が空く。ここでは食べものを扱っていないから、みんなよそへご飯を食べに行くのだ。この時間にあたしは弁当を取り出す。
 箸を手に取ったとき、店の前の通りへ、少年が砂ぼこりを上げて走ってきた。身なりは小綺麗だ。だが靴が汚れていた。
 少年がこちらを見た。息を整えて、弁当を持っているあたしのそばへ来た。
「ここ、何屋さん?」
「カフェ」
「カフェって何?」
「うーん、飲みものを出すところかな」
 飲みもの、と少年はいった。どこかそわそわしている様子だ。
「じゃあ、冷たい何かを一杯ください。喉が渇いちゃって」
 何かといわれても迷うのだが、弁当を置いて椅子から立ち、とにかく飲みものを作ろうとした。少年は席に陣取り、バッグをテーブルに置いた。金属が当たるような音がした。
 氷でいっぱいのグラスに熱い烏龍茶を注いで、それをテーブルに置いた。あたしはまた弁当にとりかかった。少年は烏龍茶を飲み、バッグの中を覗いたりしている。
 手早く食べ終えて、午後の準備をする。在庫をチェックして、豆を挽き、テーブルを拭いて回る。少年は居座っていて、頬杖をついてぼうっとしている。
 不意に話しかけてきた。
「お姉さん、盗みは悪いことだよね」
「悪いと思うけど。君、何か盗んだの?」
「他人のお宝を盗んだ」
「じゃあ重罪だね」
「地獄に落ちる?」
「知らないけど。落ちるんじゃないの」
 少年はため息をついた。後悔するような盗みをしたのだろうか。
 何を盗んだのかを訊くと、自慢げな顔になってバッグに手をやった。真鍮か何か、金属製の、ごてごてした装飾のものが出てきた。
「ヴァジュラっていうんだ。密教の宝具だよ、お坊さんが使うようなやつ」
「よほど罰当たりね」
「本当に欲しかったんだ。先生からね、やっと盗めたんだけど、罪悪感っていうの? そういうのがつらい感じ」
「返してくればいいじゃない」
 そういうと嫌そうな顔をした。迷っているようでもある。テーブルの上でヴァジュラとやらをいじくり回している。
 午後の客がやってきて、また店が忙しくなってきた。少年の相手だけしているわけにもいかず、あたしは仕事をこなした。
 客たちのおしゃべりがすっと消えた。あの老人の姿が見えた。隅のテーブルに座って、いつもの威圧のオーラを出している。静まる店の中、注文を訊くと、やはりエスプレッソを頼まれた。
 まだ居座っていた少年が訊いた。
「エスプレッソって何?」
「濃くて苦い一杯だ」老人は答えた。
「うまいのかな」
「俺にはうまいがね」
 常連のひとりが席を立ち、少年に近づいて耳打ちした。関わるなとでも忠告したのだろうが、逆効果だったようで、少年ははしゃいだ。
「すげえなおじいさん、魔術師なんだな!」
「すごくはないさ。いくらか詳しいとは思うがね」
 その後の少年と老人のやりとりは朗らかなもので、祖父と孫のようにも見える風景に、常連たちは驚いたような顔をしていた。なにしろ悪魔崇拝者といわれた老人が優しく会話をしているのだ。
 少年はヴァジュラのことを話して、その盗みのことはやんわりと咎められたようだった。
「呪力のあるものはな、正しく使わないと反作用で痛い目に遭う。盗んでしまうようではだめだ。まずは正しく手に入れることからだ」
 そんな説教が聞こえた。少年はしぶしぶ、返してくると約束したようだ。
 帰り支度をして代金を払うとき、少年があたしにいった。
「かわいいね」
「口説いてるの?」
「いや、パラソルが。おじいさんもそう思わない?」
「いいパラソルだな」老人はいった。「目が覚めるオレンジ色だ」
 しばらくして夕方になり、客たちはみな帰っていって、あたしは閉店の支度をした。なんだかいろいろあったような気がするが、嬉しかったのは初めてパラソルを褒められたことだ。
 やる気が出た。
 あたしはこの店をもっとよくしていこう。


 18 竜王の棋譜

 銃弾を手に入れてから、友人が取り組んでいたのはモデルガンの改造だった。改造には発砲に耐えられるようなスチール製のものを選んでいた。銀色のリボルバーだ。その銃身の内部を削って弾が飛んでいくようにした、というのだが。
「これで撃てるもんなの?」
 友人の家の、机に置かれたモデルガンを見て訊いた。
「たぶん撃てるね」友人はそういった。「構造的には実銃に近いんだ」
 だから改造も簡単だった、といい、銃を手にした。シリンダーを開ける。中は空だった。横に振ってシリンダーを戻し、構え、僕に狙いをつけた。
「やめろよ。怖えよ」
「うん、弾が入ってなくても怖いよな」
 そこでだ、といい、友人はポケットに手を入れて、例の銃弾を取り出した。またシリンダーを開けて装填する。
「これでもっと怖い」
 ニヤッと笑うその顔に、なんら不安な要素はない気がした。おもちゃで遊ぶ子供のように、こいつは無邪気なだけだ。あるいはそれが危ないことなのかもしれないけれど。
 銃弾を手に入れた当初のように、またふたりで町をうろついた。以前と違うのは、発砲できる銃を友人が持っていることだ。それはジーンズの後ろの部分に、背骨に沿うような形で差し込んである。シャツとミリタリージャケットで、銃はすっかり隠されていた。
 目的は特にない。町へ出たところで、殺すべき人間がいないことはとうに知っていた。あちらへ行きこちらへ行き、そこらの露店の食べものを食べて、駅前まで歩いてきた。廃線になっていて電車が来ない駅だ。
 駅前広場はやたらにベンチが多く、そしてその上で将棋をやっている連中もたくさんいた。ここではみんな賭け将棋をやっている。勝って得て、負けて失う。ここにも殺すべき人間などいない。
 引き返そうとしたときに騒ぎがあった。数人が群れて大声を出しているのと、その中心にいる老人、そして「ペン、鉛筆、買い取ります」とプリントされた白い上着を着た女。
 近くに寄って様子を見た。老人の座っているベンチには分厚いノートが広げられ、細かく何かが書きつけてある。女のほうは困っている。
「足りないんだよ、書くものが。もっと売ってくれといってるだけだ」
 老人はそういった。片手でノートを指している。
「ボスにいってみないと、なんとも……。それに、書くものが必要なのはあなただけではないんです」
「なんだ、偉そうに」近くにいた男がいった。「この人は棋譜を書いてるんだぞ!」
 偉そうなのはこちらの連中なのではないかと思ったが、ノートを盗み見ると、確かに将棋の棋譜がびっしりと書きつけてあり、その上にある短い鉛筆だけでは足りないのも頷けた。先手、後手、先手、と続く記録。何ページあるんだろうか。
「書くものって、鉛筆でいいんですか?」
 僕が声を出したところ、みなこちらを向いた。
「鉛筆を持っているのか?」老人が訊いた。
「古いものならいくらでも」
「売ってくれるか」
 僕は女の背中を見ていった。「えーと、『ペン、鉛筆、買い取ります』……」
「わかった、その業者より高く買ってやる」
 友人がくすくす笑っていた。うまくやったな、というような笑いだ。女のほうは困惑していたようだったが、何をどうするということもなく、仕事をしにまた町へ戻っていった。彼女の仕事は知っている。筆記具を買い取って子供たちのために回すという業者だ。だから、本当は彼女に売ったほうが正しかったのかもしれない。
 僕は友人を残し、駅前広場を出て自宅に戻った。鉛筆は押入れの中にごっそりとある。戸を開けて漁ってみて、埃を払った。二十本くらいはありそうだった。
 それを持って駅前へ戻る。老人がいたベンチまで歩く。観客はいなかったが、友人が対局をしていた。相手はさっきの老人だった。盤を見たが、僕は将棋にうとくてよくわからない。
「この人、ここらの将棋の竜王なんだってよ」友人が盤を見たままいった。
「竜王?」
「最強だってことだ。ああ、こんなの勝てやしねえ」
 それを聞いて老人が笑った。
「まだ目はあるだろう」
「投了するよ。ありがとうございました」
「礼を知ってるやつだな。ありがとうございました――鉛筆はあったか?」
 こっちを向いて訊くので、鉛筆の束を取り出して渡した。こちらには数枚の紙幣がよこされた。
「これで棋譜が書ける。嬉しいね」
「どのくらい書くんですか?」
「百局は書いたからな、あと二百局ほど。覚えてる対局はそのくらいだ」
「竜王さんよ、そんなの書いたらあんたが不利なんじゃない?」友人が訊いた。
「これは遺書なんだよ。俺には将棋しかなかったから、遺書も将棋で通すんだ」
 そういった老人に、かっこいいねえ、と友人が答えた。
 さて、という。
「俺は棋譜の続きを書くが、お前らは?」
「予定なんてないですよ」僕はいった。
「みんな騒いでたぞ、映画の新作があるんだってな」
 行ってきたらどうだ、といい、ノートを開いた。そしてまた棋譜を書き始めた。邪魔できない雰囲気だ。僕らはその場を離れた。
 駅前広場を出るとき、思い出したことがある。
 友人が持っている銃のことだ。
 そして、やはり、そんなものの使い道はないのだった。


 19 コートを買う日、きれいな手で

 磨かれた自分の手を見ながら歩いていて、人にぶつかり、睨まれた。軽く頭を下げて詫びた。睨んだ男は何もいわず先へ行った。あたりを見回すと、俺はもう中央市場の前まで来ていたようで、それに気づかないほど、きれいにされた自分の手が珍しかったのだった。
 人混みだ。大通りは行き交う人々の、いくつかの言語による話し声で満たされ、中央市場の中からは呼び込みの声も聞こえてくる。路面は汚く、煙草の吸い殻やら潰れた紙コップやらが散乱している。だが今日の俺はゴミには用がない。踏みつけて歩く。そうして頭上にタープが張られた市場の中へ入っていった。
 タープの色はまちまちで、青いのや白いのやがつぎはぎに張られていて、その下で売り手たちが絨毯なんかに座り、目の前に商品を並べていた。
 声の大渦の中、俺はうろうろと市場を歩いた。初めて来るこの場所の勝手がわからない。目的のあたたかなコートを探し、商品を見て歩く。
 銀の皿。煤けたような壺。古本。家具。保存の効く食べ物。本当になんでも売っていた。みな、客を呼んだり値切ったりと忙しく喋っている。
 少し息苦しくなり、人の少ないほうへ避難した。タープの隙間から金色の光が差している、誰も話していない区画へ来た。ターバンを巻いた男と目が合った。男は口元で笑い、絨毯の上にあるものの前に、見て行けというようにふわりと手をかざした。
「ジュエル。安くする」
 男のいうとおり、そこの商品はジュエル、宝石だった。透明なケースに入れられた、様々な色のペンダントや指輪。
「プレゼント? 自分がつける?」
 そういってケースの上部を開け、ひとつを手にとって俺に差し出した。透き通り、ほのかに輝く青色の宝石だ。
「タンザナイト。ナンバーワンね」
 きれいな宝石だとは思うが、これをいくらで売るというのか。冗談でも買えそうにはない。俺は首を振った。男はさらに手を突き出してきた。持ってみろ、というのだろう。
「あなた、手がきれい。さわっていい」
 そういわれて、俺の手がきれいなのはいまだけで、仕事をすればまた汚れていくのだ、と思い、恐るおそる宝石を手にした。
 タンザナイトと呼ばれたその宝石は1センチほどのもので、楕円型をしていて、意外なほど軽い。手の中で、表面が光を帯びていた。
「他に買うものがあるんだ」俺はいった。「悪いけど、買えない」
 そういって宝石を返した。オウ、と男はいう。
「あなた、また来る。ジュエル、持つとラッキーになる」
「ラッキーに?」
 男は微笑んで、二度深く頷いた。
 宝石屋から立ち去り、そもそもの目的であるコートを探した。市場は人が多い上に広く、あちこちさまよったが、服を売っている区画があることに気づいた。
 そこへ行き、ハンガーにかけられた服を見ていく。丈の短いものじゃなく、かといって長いものというのもちょっと違うな、などと思いながら見ていった。
 ちょうどいいものがあった。灰色をしていて、尻のあたりまでを覆う、もこもことした温かそうなコート。
「買ってく? ニイちゃん」店員の女がいった。「そいつはいいもんだよ。ダウンコート」
 あったかいんだわこれが、という。値段を訊いた。予算内だ。
「値切ってもいいか」一応いってみる。
「いいよ。いくらがいい?」
 一割引き程度の額を提示すると、あっさりとオーケーが出た。もっと値切ればよかったか。
 カネを渡したときにまじまじと手を見られた。
「何これ、どういうケア?」
「爪磨きの女の子にやってもらった」
「あたしの手よりきれいなんだけど」
 そういうので、露店の場所を教えてやった。今度行くわ、という返事だった。
 やっとコートが手に入った。手で持つとふわふわとしていた。綿でも入っているのだろう。これは確かに温かそうだ。冬になるのが楽しみになった。
 コートを片手に市場を出る。時刻はもう午後の、夕方の少し前というところだろう。西日があたりを照らしていた。人混みはまだまだあった。
 このまま帰りたくないような気がした。コートを買えた、記念すべき日なのだ。何かお祝いをしたい。
 道を歩いていく。酒でも飲むか、何か食べるか。
 肉を焼いているにおいがした。腹が鳴った。道の先、露店の串焼き屋が見えた。そこへ行く。
 無骨な顔つきの男が、コンロの上の肉をひっくり返していた。じろっとこちらを見た。何の肉かと訊くと、牛肉だという。
「いい肉が入ってな。こうやっておいしく焼いてるんだが、客が来ない」
 みんな映画のほうに行っちまったかな、といった。
「映画?」
「野外映画館、知ってるだろ。今夜は新作だってよ」
 で、と串焼き屋はいう。
「お前は客か?  それともこのいい肉を無視して映画を観に行くのか?」
「客だな。うまそうだ、一本くれ」
 さっと出された串を受け取り、コインを支払ってからかぶりついた。口の中で熱い肉汁が溢れた。柔らかいが、噛みごたえもある。飲み込む。喉を通っていく。
 串焼き屋が俺を見ている。
「なんだよ」
「いや……まずかったか?」
「うまいけど」
「じゃあ泣くほどうまいってわけだ。まあ、いい肉だしな」
 そういわれて、俺は自分がまた泣いていることに気づいた。涙を拭う。
「もう一本くれ。映画にも行ってみたくなった。観ながら食う」
「泣いてちゃ観れねえぞ」
 かすかに笑った串焼き屋は肉をコンロにかけた。
 今夜は冷えるのだろうか。映画をやっているところは寒いのだろうか。もし寒いようだったら、さっき買ったコートを着よう。
 なんだ、と俺は思う。
 俺の人生もなかなか楽しいじゃないか。


 20 SKETCH MOVIE OF OUR CITY

 彼と音楽好きの少年が、彼の家の、作業スペースである一室にこもっている。いまは作業の仕上げとして、BGMを探しているところだ。
「これはなんて曲だ?」彼が訊く。
「ええと、リュウイチ・サカモトの……〝energy flow〟だね」
「こいつを使おう」
「ちょっとロマンチックすぎない?」
 そんな会話がリビングまで聞こえてくる。私は暇なので、リビングにある書棚を漁ってみたり、ラジオを聴いたり、そうしてみてもまだ時間が余り、玄関にある龍の置物を見に行った。
「がおー」
 脅かしてみても、置物はもちろん反応などしない。ただ、よく見ると黒い表面に光沢があるような気がした。以前にはなかったものだ。
「なにしてんの?」
 作業スペースから出てきた彼に見られた。
「暇なんだもん」
「お前は暇だと置物と話すの?」
「これかわいがってるのあんたじゃん」
「うん、ドラゴンちゃんはかわいい」
 またちゃんづけで呼び、幸運を呼んでくれたしな、とつけ加えた。
 彼のいう幸運とは、もうすぐ完成する映画の新作のことだ。町の人々に、監督、などと呼ばれると照れるのだが、いつも映画づくりをしてきた。古い8ミリのビデオカメラとフィルムで、町の情景を撮ってきた。彼はその映像たちを、シーンともショットともシャシンとも呼ばず、スケッチと呼んだ。
 今回、この町の映画を撮ったのだ。そうしてそれがもうすぐ完成する。
 作業スペースから少年の声がした。監督、ちょっと来てー、といっている。彼はすっとそちらへ入っていった。私はまたひとりだ。仕方なくリビングへ行き、またラジオをかけた。
 ニュースをやっていた。臨時政府が、この国の復興と平和を約束する声明を出したそうだ。国民の困窮、物資の不足やインフラの崩壊に対して、これまで以上に救済措置を取っていくと。私は思った。いまでも十分暮らせていけているのに、他に必要なものがあるのだろうか。
 でも思い直した。この町はまだまともなほうなのだ。他へ行けば戦禍はもっとひどい。
 この町だからこそ、彼も人々の強さを見出せた。撮る気になれた。カメラを向けることが躊躇われる情景を、いつか彼と行ったロケハンで見てきた。遠くの場所の、その情景は何ひとつ思い出したくない。
 作業スペースから少年が出てきた。首をぐるぐる回している。
「コツコツやるってのも疲れるよね」少年はいった。「監督、指示が厳しいし」
「でも、君がいなきゃ音楽が手に入らないから。スタッフロールに名前入れるってさ」
「音楽なんて、ポンコツの機械から取り出しただけだよ。知ってる? ジャンク品ばっかり売ってる店でさ、大昔の曲を掘り出すんだ」
「それが貴重だったんじゃないの」
「ならいいんだけど。お姉さん、何か飲みものくれる?」
 私はキッチンへ行き、オレンジジュースの缶を少年に渡した。ありがと、といってソファに座る。ジュースを片手に息をつく。
 彼がそこへ来た。疲れた顔をしているが、晴れたような声でいった。
「完成だ」

 その新作映画の公開の日、彼と少年は機材を運んでいった。私はすぐあとを歩いた。グラウンドを流用した野外映画館まで行く。夕方が近く、観客がぼちぼちと集まってきていた。食べものや酒の屋台も出ている。スクリーンには西日が差し、風が少し冷たい。
 スクリーンから前方に離れた、プロジェクターをいじっている男のところまで歩く。通称は館長だ。
「よう、館長」
「やあ、監督」
 彼と館長がそう挨拶をした。
「この空を見ろ、絶好の映画日和だぜ。降水確率は10パーセントだ」館長は上機嫌でそういった。
「そりゃいいな。客は来そうか?」
「あちこちで宣伝したんだ。大入りなんじゃないか」
 彼は頷き、フィルムを館長に渡した。努力の重みがするぜ、と館長がいった。
「スピーカーはどんな感じ?」少年が訊いた。「調整しようか?」
「いや、だいじょうぶだろう」と館長。
「今回はチャップリンじゃないんだよ。いい音を出したいんだけど」
「こだわるね、音楽少年。でもチェックはした。ノイズも割れもない」
 そして、さて、といい、館長は上映の準備にとりかかった。彼と少年は手伝おうとしたが、座ってていいぞ、といわれ、VIP席である肘かけつきの座席に向かった。
「もちろん奥方もどうぞ」
「籍なんて入れてないよ」
 私はそういって、VIP席へ行き、彼の隣に座った。
 空はやがて橙色の夕焼けから紺色へと変わっていき、屋台が賑わい、観客たちはめいめい座り始め、上映の時間が近づいてきた。
 この夜、スクリーンにはこの町の人々が映し出されるだろう。ゴミ漁りの青年。漢方薬局の主人。爪切りをする少女。小さな食堂の店主とウエイター。映画を手伝ってくれた、ジャンク品マニアの音楽少年。宝具を盗み出す少年。駅前広場の将棋指し。市場で盗みをする、足の速い子供たち。露店の、パラソルのある喫茶店の女の子。銃弾を手に入れたふたりの少年。鉛筆をやりとりする女性。道端で商売をする串焼き屋。
 彼らの小さな物語だ。
 観客はグラウンド中、大勢いた。上映が始まり、映画のタイトルがスクリーンに映った。
 タイトルは、〝SKETCH MOVIE OF OUR CITY〟。
 私は彼の手を握った。その手は少し震えていたので、強く握り直した。


〈了〉


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