死ぬという事

今年の目標の一つにアウトプットを増やすという事を掲げたので、ずっと考えてた事を書こうと思う。

タイトル通り、死ぬという事について。実は最近、自分なりに答えが固まってきた。

このテーマは、中学生くらいの時からずっと悩んできて、かなり自分の中で重大なテーマだった。死ぬのが怖いんじゃなくて、その後にも続く「永遠」が怖かった。生まれ変わるにしろ、変わらないにしろ、時間は永遠に流れていくと考えると「終わりがない」という事に頭の理解が追いつかず、発狂しそうになる事があった。

大人になってもそれは変わらず、なるべくその事を考えないように考えないようにして暮らしてきた。

ただ、人生の終わりは刻一刻と近づく。気づけば38歳だ。自分では内面は20歳の時と大して変わっていないはずなのに、体だけは時計の針に合わせて老化していく。変化のない1年間や楽しい1年間はあっという間に過ぎるけど、体はしっかり1年分老化している。

20代前半は特殊清掃の仕事を100件くらいやってきて、溶けた死体の一部などを何度も片付け、首吊り死体を見つけたことや、知り合いがミイラ化して死んでるのを発見したこともある。イスラエルにいった時は500mくらい先で自爆テロが起きて真っ黒になったカフェでたくさんの人が死んで、初めて国連の仕事として助成を担当したソマリアの事業担当者もテロリストに殺された。それ以外にもたくさんの死に触れてきた。

死はいつも身近にあって、「永遠」の中に身を置いているのが怖くて仕方なかった。

そんな時に気づいたことがある。「あっという間に過ぎる時間」や「やたら長く感じる時間」というものがあるのだから、全ては時間に拘束されているわけではないという事に。

そして、死ぬという事は時間から解放されることで、時間から解放された先には恐れていた「永遠」はない事に気づいた。恐怖などの感情もない。もしこの世界に神様がいるとすれば、それは「時間」であって、ビックバンは時間の始まりだったのだと理解した。

最近もう一つ気づいたことがある。人は毎日、死を経験しているという事だ。

もしクローン技術が発達して、自分と完全に同じ細胞や遺伝子を持った人間を作ることができて、そのクローンが自分と同じ記憶も持つことができたら。そのクローンが自分と同じく、自分の昨日や1年前の記憶を持っていたとしても、目の前にいるそのクローンは「自分」ではない。しかしクローンは記憶があるのだから、当然自身では昨日も1年前も生きていたと思うだろう。

記憶がもしただの脳の中に保存される電気信号なら、眠りに着くことで一度今の自分は途絶え、明日の自分は今の自分の続きではなく、電気信号が復元されただけの別の存在とも思える。

明日の自分は今の自分の続きではない。

寝るのも起きるのも、生まれるのも死ぬのも、どれも自覚がなく曖昧だ。

寝るのは怖くないのだから死ぬのも怖くない。

この「時間」に拘束された世界に残していきたいのは、みんなが平和に幸せに暮らしていく事を祈る思考くらいかなと思う。自分の場合は、子どもたちを通じてこれは残せていけると思う。