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はじめまして

初めまして。ひろうみと言います。主に福祉系の情報収集と発信を行っています。簡単に経歴や資格など紹介します。

まず介護福祉士の専門学校を出て病院に勤めまして、介護ではできないことが多々あり、そのもどかしさから、2年目から再度専門に行って准看護師を取得して、5年臨床にいました。やり甲斐はありましたが、看取りの多さに辟易してしまいました。

元々障害に関係に従事したかったので、思い切って支援員として知的障害の方々の入所施設に転職しました。ここで医療や介護の知識や技術が活かせるのは、自分のアドバンテージだと分かっていたので、未知の分野の支援を学ぶことで、将来的には何倍もの力が発揮出来るのではと思っていました。しかし、なかなか立場が違えば見方も違うと言うジレンマの板挟みで大変苦しみました。経験してきたことで、職員間の架け橋になれればと考えましたが、なかなか理解されず結局は周囲との反発や孤立ばかりとなってしまいました。ただ、研修や役員などをすることで、外部との関わりが多かったことで視野が広がり、支援にも幅ができて、保護者支援にも注力したことで、対人関係のスキルは大変勉強になりました。これが後に活きてくることになりました。

7年のキャリアを積んでから、また違う経験をしたいこともあり、時間をかけて求職活動をしていました。新しい仕事は訪問看護で精神疾患の患者さんに特化した会社でした。傾聴を中心に生活訓練や服薬管理など行っていました。しかし、よくあることですが支援拒否を受けてしまい、男性ということもあってその数が増えていきました。営業活動も同時に行う、一般企業のような業務もある会社でしたが、当然不慣れな営業での成績も伸びず、言わば仕事を干されていくようになりました。綺麗事ですが誰かの役に立ちたいから、医療や福祉をしているのに必要とされないことで、徐々に疲弊して鬱状態となり、ついには出勤もできなくなりました。そして、看護する側が通院を余儀なくされることとなり、自尊心も失われて休職の末に退職、療養となりました。

それでも家庭があり収入が長期に途絶えることはできないため、障害児の支援という自分でも楽しみながらできそうな放課後等デイサービスの職に就きました。ただ、簡単に辞める訳にはいかないので、敢えて管理職として配属されました。無茶かとは思ったものの、これくらい背水の陣で臨む必要がありました。

1ヶ月の研修の後に管理者、児童発達支援管理責任者を兼務しながら新規事業所の立ち上げから関わりました。ここで今までの介護、看護、支援の全てが役に立ちました。特に利用者さんが小学生から高校生までという事で、保護者さんとの関わりも深く、利用者さんと保護者さんに対する関わりの支援が、経験値が最大限発揮できる場となりました。

敢えて何かに特化した事業所とせず、あくまで個別支援を重視したプログラム中心(手洗い、片付け、宿題などは当然行う )で、イベント時はみんなで参加というスタイルでできないよりできること探しを支援の柱としていました。

送迎時に保護者さんへは、変わりなかったことではなく、こういうことが出来た、イライラしてしまうこともあったなど、かならずフォローも交えながら率直にお話しするよう心がけ、抱えている悩みや療育方法などのアドバイスも行い、とにかくコミュニケーションの時間も大切にしていました。レスパイトとしての意味もあり、意義の大きな事業ではありますが、卒業後に行き場が無くなる重度のお子さんの問題など課題も見えてきました。

次第に他の事業所や役所、関係期間との連携を深めたことで信頼も得ることができて、役割を任されることも増えました。また、利用状況もそれに伴い増えていきました。しかし、会社としては満床にならないことから業績は振るわず、同グループ事業所と統合することになりました。また、会社との溝が埋まることがなかったこと、統合すると辞令もなく管理職を降ろされたことなどから退職しました。

その後は高齢者介護に戻って働いていましたが、たまたま知り合いから就労支援についての相談を受けて、気がつけば新規事業の立ち上げに加わることとなりました。私がサービス管理責任者の資格を持っていたことで、申請や許可が通ったようです。障害者の居場所作り、低賃金の問題、生きがい(働きたい)など、数ある課題を当事者さんと家族と地域と支援者が一体となった包括的事業を目指して準備しています。

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