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東日本大震災と私1

テレビでもラジオでも“東日本大震災”という言葉を聞かない日はない東北の宮城県の仙台市に住んでいます。
ほかの地域のみなさんはどうですか?毎日耳にしますか?

あの日からまもなく12年が経とうとしている今
あの日どんな行動をとったのか、その後どんな日々を過ごしたのか、まず自分自身が忘れないために記録しておこうと思います。
幸いと言ってはなんですが、私は家族や身内・友人知人はみんな無事で家も被害はなく、物や食器が割れた程度で済みました。
※ここから長いです↓


2011年3月11日金曜日
当時は仙台駅の東口にあるビルの3階に職場があり、静かなオフィスでいつも通りパソコンに向かっていた。私が小さな揺れに気付いて隣の席の上司に「揺れましたね」と言った直後に今までに経験したことのないものすごく大きな揺れが来て、上司の「机の下に潜って!!」の声を聞いて事務机の下に潜る。壁際のパソコンのモニターが倒れたり、ブラインドが壁に当たってガンガンと大きな音を立てる。私は2月に起きたニュージーランドでの地震のことが突然頭に浮かんで「この建物が倒壊したら私も死ぬんだろうか」という恐怖に襲われてキャー!キャー!という悲鳴を上げてしまった。

揺れはずいぶん長く続いた気がした。よく地震体験車で人が揺さぶられる様子をテレビなどで見る、あんな感じ。そしてビルは倒壊することなく私は無事に生きていた。揺れている間も上司は出入り口のドアを開けて押さえてくれていた。揺れが収まってから避難場所に指定されている小学校までみんなで行くことになり、まだ手の震えが止まらないまま荷物をまとめて外へ出る。後になってその時会社に置いていたアップルパイを持って出なかったことをひどく後悔する。気が動転していたのとそんなに大変なことになってるとは思わなかったんだもの。

指定避難場所の小学校までは徒歩で10分程。周辺の住民や会社のひとたちもぞくぞくと集まってくる。校庭は少しぬかるんでいてとても寒い。本社と連絡が取れたのかしばらくして「気をつけて帰ってください」とその場で解散となる。当時は仙台駅から地下鉄とバスを乗り継いで1時間ぐらいの所に住んでいたので、とても歩いて帰る気にはなれない。その小学校の避難所に入ると何日も帰れなくなりそうな気がした。(それは正解だった)そこから遠くない距離に自宅がある同僚が「帰れなかったらうちにおいで」と言ってくれたりしたけど、とりあえず仙台駅に向かう。

当然電車もバスも地下鉄もストップしていて仙台駅も停電で暗い。仙台駅東口から西口への通路も閉鎖されているので、何となくZepp仙台(今は無くなってしまい残念)の屋根がある所に座って様子を見ることにする。コンビニも閉まっている。まわりに何人か同じようなひとたちがいる。携帯ラジオを付けてFMとAMを交互に聞く。聞きなじんだ声に安心するも、時間が経つにつれて徐々に被害の様子がわかってきて事の重大さにやっと気付く。沿岸部は大丈夫なんだろうか。津波という単語が何度も出てくる。

幾度となく余震がありその度にビクッとする。災害伝言ダイヤルが繋がりにくく、やっと繋がって父の声で「大丈夫か?家族はみんな無事だから」という伝言にホッとする。こういう時に限って当時持っていたPHSの充電があとわずかしかなく、なるべく使わないようにする。だんだんと日が暮れてきて家族が迎えに来たりしてその場にいたひとが少しずつ減っていく。飴と小さなクッキーしか持っていない。ちびちび食べる。

雪が降ったりやんだりしてとても寒い。もうそろそろ限界がきている。そう、トイレに行きたい。ここではダメだと思って仙台駅の西口へ出ることにした。いつもはめったに通らないルートを思い出して歩いてみる。途中公園のトイレがあったけど暗いのでやめておいた。道路を横断するのも暗くて危ない。前日にバッグを入れ替えたためにライトも反射材も持っていない。今がまさにいざ!という時なのに。
駅前の商業ビルから出てくるひとがいたので、そこでトイレを借りようと入って行ったら警備員にダメダメ!とすごい剣幕で怒られた。早く閉めたかったんだろうけど、言い方があるだろう。ここではもう二度と買い物はしないと強く思った。(その後普通に買い物してるけど)

仕方ないので歩道橋に上がってみたらホテルモントレ仙台に明かりがついているのが見えた。ロビーで待機するひとが沢山いたので、スタッフにたずねたら快く貸してくれた。モントレにはいつか恩返ししなければならない。トイレの水は流れたけど水道は出ない。今日に限ってウエットティッシュも持っていない。仕方ないので手を洗わずにお礼を言ってホテルを出る。

こういう非常時にトイレは一番重要になるので、震災後に帰宅困難者の一時滞在場所が指定されたみたい。
仙台市の場合です。参考まで↓
http://www.city.sendai.jp/anzensuishin/kurashi/anzen/saigaitaisaku/torikumi/kitaku.html

今度は仙台駅の1階正面の壁にもたれてまたラジオを聞く。土台のコンクリートが割れて電話ボックスが傾いている様子、迷って写真撮らなかったけどやっぱり撮ればよかった。そこから家に電話してみたけど繋がらなかった。(家の電話自体が不通だった)タクシーは長蛇の列。地下鉄の出入口も真っ暗で怖い。駅のトイレに行こうとしたカップルが駅員さんに「入らないでください!」と止められている。またその言い方。駅員さんも必死だったんだろうけどね。

21時半ごろだったか、河北新報の方?がひとりひとりに号外を配ってくれて初めて被害の大きさを目で見て、血の気が引くような感覚を味わう。こんな非常時でもこうやって新聞を作り届けてくれてとてもありがたい。今も大事に保管している。

22時ごろになって、タクシーの列が落ち着いてきたので私も列に並ぶ。割とすぐに乗れてラッキーだった。のんびりとしゃべる運転手さんとずっとおしゃべりしていたら和んだ。4号バイパスはその時間にはもう空いていてすいすい走る。降りるときに「ゆっくり休んでください」と言ってくれて嬉しかった。私を降ろしたら帰ると言っていた。会社名とお名前を覚えていないのが悔やまれる。4800円なり。隣の家のご主人が慌てて出てきて驚く。東京に行っている奥さんが帰ってきたのかと思ったみたい。
家族みんなの顔を見てやっと安心する。母が煮込みラーメンを作ってくれていたので食べる。水道とガスは使えるけど電気は来ていない。自分の部屋は物が散乱して足の踏み場もないのでリビングの食卓の椅子で寝る。ほとんど眠れなかったけど。


ここまでが震災当日の私の行動です。
タイミングが合ってその日のうちに家に帰れたのは本当にラッキーだった。
次の日からはガソリン不足でタクシーを探すのも難しかったから。
反省点。いざというとき必要なものがラジオしかなかった。
それ以来重くても出かけるときはバッグに反射材を付け、ライト・ラジオ・ウエットティッシュ・マスク・カイロ・チョコやソイジョイなどを持ち歩いています。あとはスマホの充電とモバイルバッテリー。それから、部屋を整理整頓しておくことも防災の一環。物が全部床に落ちて本当に大変だった。


次の日から色んなことを経験したけど、長くなりそうなので続きはまた。

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