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秀歌の条件

昨年某所へ寄稿した文章です。
40過ぎて第一歌集出すとまだ第二歌集も出してないのにこんな僭越なテーマがきちゃうよう・・・と泣きながら書いたわりにはあまり人目に触れない媒体かと残念に思いますので、転載します。横書きにしたらすっごく読みづらかったので、一部太字や改行を加え、語尾などを少し直しました。

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「秀歌の条件」
   結句の良さ          富田睦子

 

佐佐木幸綱編『短歌名言辞典』(東京書籍)に「模範・秀歌」の章がある。いくつか引いてみよう。

「凡(およ)そ歌は心ふかく姿きよげに、心にをかしき所あるを、すぐれたりといふべし」(藤原公任『新撰髄脳』)

「気(け)高く遠(とほ)白(しろ)きを、ひとつのこととすべし」(源俊頼『俊頼髄脳』)

「詮(せん)はたゞ詞(ことば)に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」(鴨長明『無名抄』)

「いひのこしたる体なるが、歌はよきなり」(正徹『正徹物語』)

「歌は精神の現はれである。随(したが)っていい歌を詠まうとすれば、いゝ精神を持つて居なければならない。」(窪田空穂『歌の作りやう』)

「〝秀歌〟とは何か、と問われたならば、一言で答えることができる。それは心臓にドキンとくる歌であると。」(藤平春男『心の花』一〇〇〇号記念)

 時代がどんなに変わろうとも、秀歌であるためには「気品があること」そして「真摯な心が表れていること」が必要なようだ。もちろん気品とは例えば花鳥風月とイコールではないだろうし、真摯な心は倫理や道徳ではないだろう。
 その瞬間に存在するまぎれない「生」の表れ、それが秀歌の基幹なのだろうと思う。

 そのうえでもう少し技術論に話を落とすのだが、私自身が読者として歌を読むときは、①一首の読む速度を暗示する初句、②そこから二、三句への流れと四句の展開、そして③結句から立ち上る作者の気配、の三点が揃わないと風が吹く感じがせず、肩透かしに思えてしまう。
 なかでも結句は一番良し悪しの分かれるところで、わあ、素敵、と思って読んでいって結句で肩透かしを受ける歌は多いし、逆に、なにげなく読んでいって結句で一気に魂を揺さぶられ、やられた、と思う歌もある。

にんげんの赤子(あかご)を負(お)へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
            (斎藤茂吉『赤光』)
 「にんげんの」という初句もインパクトがあるが、「笑はざりけり」がすごい。赤ん坊とその子守という、ともすれば「赤とんぼ」のような牧歌的・情緒的な景をとらえて、冷ややかでざらりとした人間の業を覗いている。

還るべき宇宙をもたずもだをるに枇杷食へといふあやなき声す
          (築地正子『花綵列島』)
 「もたず」と言いつつそれを見せ消ちとして読者に宇宙の広がりを示している。続いて「枇杷」という林檎や蜜柑に比べて物言いたげな果物を誰かが「食へ」と言う。しかし結句は「あやなき声す」と続く。あやなきは、文なき、彩なき、綾なき。つまらないという意味だ。一気に日常に引き戻す声だったのだ。「声す」まで読みきった時、どうしようもない現実がドンと迫る。

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
            (河野裕子『桜森』)
 言わずと知れた河野裕子の代表歌だが、この歌がもし「近江を昏き器と言えり」という下の句だとしたら、どんなに魅力が減るだろう。十分に引き付けて昏々と水を湛える器のイメージを作ってから「近江」が出てくるから読者はぐっと心をつかまれるのだ。

 結句が緩んだ短歌は面白くない。秀歌の条件はいくつもあるだろうが結句の良さもひとつ条件だろうと思う。

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