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ミャンマーの安寧を願って(1)

こんにちは。アセアン進出支援協会の阿部です。

ミャンマー起きている国軍によるクーデターの混乱は、カレン州の少数民族が率いる武装集団への空爆という事態にまで発展してしまいました。戦闘機の投入は、もはや内戦の様相を呈しているといっても過言ではないのかもしれません。

これまで、いまミャンマーで起きていることについて、なにをどう書けばよいのか迷っていました。しかし、アセアンのことを勉強してきた者として、ここまで混迷を深めてしまっている事実から目を逸らすことはできないと思い、少しずつ記事を書いていこうと思っています。

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クーデターはなぜ起きた?

2月に起きたクーデター。予兆はまったくない訳ではありませんでした。

1月29日、ミャンマー駐在の欧米外交団が「国軍は民主主義の規範を遵守するよう求める」という共同声明を発したことを、日本経済新聞の記事が取り上げています。

参照記事はこちら(一部有料会員制です)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM295SP0Z20C21A1000000/


クーデターが起きた2月1日は、本来であれば2020年に行われた総選挙の結果を受けて、選挙後初の議会が招集される日でしたが、選挙結果に不満をもつ国軍は選挙直後から選挙には不正があったと訴え続けていました。

ちなみに、2015年11月の総選挙でアウンサンスーチー氏率いるNLDが初めてとなる政権与党を獲得してから、最初の総選挙が2020年11月の選挙であり、ここでも国軍系政党の議席数が2015年の選挙(このときは41議席獲得)から大きく議席を減らした(33議席)ことで、国軍が影響力の低下を恐れたことが、クーデターの背景にあるのではないかとこれまでの多くの報道が伝えています。


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軍政から民主化までの道のり

ミャンマーの選挙の歴史は、こうしたことの繰り返しでした。

ミャンマーで最初の選挙が行われたのは、第2次大戦終戦直後の1947年。イギリスからの独立に向けて憲法制定に向けての作業が始まるなど、独立に向けた機運が高まっていた最中の7月、アウンサン将軍(アウンサンスーチー氏の父)が暗殺されます。しかしこの首謀者はすぐに捉えられ、イギリス総督の指令を受けた内閣が発足し、1948年、ミャンマーは連邦国家としての独立を果たしました。

ところがこの時の政権は、政権内での分離・反目に加え、国内少数民族の反乱など国内情勢が安定せず、1958年、軍による最初のクーデターが起こりました。このときから、軍政による政治が続きました。

しかし、社会主義政権下での閉鎖的な経済活動はミャンマーの人々を豊かにすることはありませんでした。こうした不満がくすぶり、1988年には全国的な民主化デモが起きましたが、やはりこの時も軍がデモを鎮圧した歴史があります。


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1990年に行われた選挙では、アウンサンスーチー氏率いるNLD(国民統一党)が勝利しますが、軍はこれを認めずスーチー氏を自宅へ軟禁。こうした軍政権の姿勢を非難する欧米諸国は、ミャンマーに経済制裁を科しました。ちなみにミャンマーの以前の国名は「ビルマ」で、1989年に時の政権が国の英語表記を「Union of Burma」から「Union of Myanmar」へ正式変更したときも、軍事政権の正統性を批判するアメリカやイギリスは認めていなかったほどです。

ミャンマー内では、自浄作用が働かない訳でもありませんでした。経済制裁により孤立を深めたミャンマーが変わり始めたのは2011年に誕生したテイン・セイン政権の時からです。テイン・セイン政権は、軍政主導の政治に対する改革に着手し、民主化、市場経済化の動きが加速し、その後ミャンマーはアジアのラストフロンティアと呼ばれ注目を集めてきていたのです。

こうした民主化の流れもあって、2015年11月の選挙でNLDが勝利を収め、ミャンマーもいよいよ民主化へという矢先、今回のクーデターが起きてしまったのです。

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