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沈思黙読会⑧斎藤真理子さん「情報を取るのが目的ではない、純粋に小説を読むことの楽しさについて」

第8回 沈思黙読会での斎藤さんが語ったこと。

沈思黙読会も、いよいよ今日で8回目です。8回って四捨五入すると10になっちゃうんですけど、いつの間にそんなにやったんだっけ? みたいな気がしますね。

8回やってみますと、1回目や2回目のことはもうずいぶん忘れてしまっています。ただ、やっぱり何度思い出しても、1回目が一番、発見が大きかったんですよね。スマホを切って読書するとこうなるのかっていうことを、本当に自分の脳と身体で「え?」って驚いた記憶があるんですけれども、その後は、やっぱり驚きはだんだん下降曲線をたどっていって、むしろそのことによる変化について、よりじっくり考える機会になっていると思います。

8回目の今日は、私は2冊読んだんですけれど、一冊は先回も読んだ夏目漱石の「門」です。もう一冊が、これは多分どなたもご存知ないと思うんですけど、韓国でとても有名な作家の尹興吉(ユン・フンギル)という人の「母」。すごく端的なタイトルなんですけど、これは1982年に、韓国本国ではなく、日本で最初に出版された本なんです。尹興吉が新潮社のために書き下ろした小説なんですね。

その経緯について話すと長くなるんですが、尹興吉という作家は、中上健次ととても交流が深いんです。中上さんがこの作家の短編を一つだけ読んで、非常に入れ込んで、盛んに交流をしたんですね。その結果として、日本の出版社が「書き下ろしの原稿をください」という依頼をしまして、尹興吉は日本で2冊書き下ろし小説を出しているんです。

その後、韓国語版が韓国で出てますけど、先行発売が日本なんですよ。これはね、ほんと滅多にないことなんです。その一冊目の書き下ろしが「母」です。

この「母」が書かれた契機というのは、尹興吉が中上健次の「鳳仙花」を読んだことなんです。実は鳳仙花っていうのは、韓国と非常に縁の深い花なんです。「鳳仙花」というタイトルの非常に有名な歌がありまして、それは日本に支配されている頃の抵抗精神を表す歌。それを誰もが知っている歌なんですけど、そのタイトルで中上健次が母親というものを書いた小説があるので、自分はそれに対抗してこれを書く、ということで書かれたのが「母」です。

尹興吉の日本語版の本って、主に80年代に5冊か6冊出てるんです。これも非常に珍しいんですけれども、それからもう50年近く経って、今、韓国のいろんな文学が読まれているのに、なぜか昔、日本で一番有名だったこの作家のものだけが読まれていないんですね。尹興吉はその後もずっと韓国で第一線の作家として生き続けていて、現在も80代で、書き下ろしの長編小説が先月、去年だったかな、出たりしてるんです。

実は8月にこの人と中上健次のことを喋る機会を持つことになりました。それとはまた別に私自身も、尹興吉が忘れられているのはちょっと解せないなという気持ちもあり、NHKのラジオ版ハングル講座のテキストに毎月「私の好きな韓国文学」っていうエッセイみたいな、作家の紹介文みたいなものを連載してるんですけど、そこでも尹興吉のことを書こうかなと思って、そうすると本を読まなきゃいけないわけです。

この「母」は、昔読んでだいたい話の概要は頭に入っているし、今度書く原稿の中で、この本については触れるか触れないか、まだ決めていないほどで、触れるとしてもさらっと一言になると思うんです。だから本当に斜め読みで、大事なところに線を引くような感じで読んでいたんですが、そうやって仕事として本を読む、ということをこの場でやってみたら、すごく味気ないというか、つまらなかったんですよね。

私、毎月、仕事としていろんな小説を読むんですけども、その時には付箋をいっぱい立てて、情報を取る読み方をするしかないんですよね。フィクションの世界に入るのに、これはなかなか苦しいことではあるのですが、まず地名とか年代とか、物語を説明するときに絶対落としてはいけない基礎条件みたいなものを取りこぼしてはいけないので、目についたら忘れないようにメモをとって、人間関係が複雑な場合は、図を書いたりしながら読むわけです。そうすると、物語だけに没頭することができないんですよね。書評を書くために読む時って、誤読をしてはいけないと思うので、やっぱり緊張感がすごいんです。特に私は韓国の作品を紹介する時に、間違っちゃいけないという意識が強い。なぜなら間違うことが非常に多いからなんですよね。勘違いしたまま誤植が残って本になってしまったり、先入観で読み間違えちゃったりとかあるんですよ。途中まで読み進めて、あれ? おかしいなと思ったら人物の名前を取り違えてたりとかですね。いろいろなことがあるので、やっぱりビジネスのためにフィクションを読むというのはちょっとつらいところがある。

そうやって、仕事として小説を読むということを、頻繁に家でやってるんですけども、今日、わざわざ沈思黙読会という、本を読むためだけの場所でそれをやってみたら、すごくつまらなかった。この作業って、なんて無味乾燥なんだろうということがあらためてわかったというのは、それもまた一つの成果ではあるんですけれども、なんともいたたまれないような気がいたしました。その代わりすごくはかどったんですけれどね。

午前中はそんな仕事的な読書をして、午後は皆さんがいるフロアに戻ってきて、前回の続から「門」を読んだんですが、結果、情報を取るためじゃない、純粋に小説を読むっていうのは非常に楽しいことだと思いました。間違えてないか気にせず自由に読めるって楽しい! 嬉しい! と。当たり前っていうかね、わざわざ確認することじゃないだろうとも思ったんですけれども、やっぱりその結論に達しましたね。

ただ面白かったのは、仕事読書の作業から純粋な読書へ移るときにですね、しばらく脳がうろうろするんですよ。情報を取るための読書って、やっぱり「取りこぼしちゃいけない」という緊張感を持って読んでいるので、頭が高速回転しているんだと思うんですよね。だからこちらに戻ってきて、もう純粋に本を読めばいい状態になっているのに、頭がまだ回ってるんです。しばらくは余力というか、慣性の法則で回っているので、夏目漱石の文章なんかを持っていくと、ひどい空回りをするんです。脳と身体のバランスがちぐはぐになってきて、読み始めは、あ、こんなんじゃ漱石読めないかも、みたいな気がしてました。

なにしろ明治時代とか、日露戦争の頃の人たちだから、ゆったりした生活をしているわけです。そんなゆったりした生活の中で、すごい悩みを抱えて「ああああ!」みたいになっているわけですね。そこに21世紀の、しかも頭が空回りしている私が入っていくと、歩調が余るんです。私自身の身体と脳も歩調が狂っているうえに、私と漱石の歩調までが合わなくて。結局、5、6ページぐらいチューニングに時間がかかったような気がします。

ただしばらく読んでいたら、だんだん歩調のズレが解消されてきて、ピタッと合うような気がしたんです。その瞬間、読んでいて、文章と情景と自分の歩調が合ったように感じた瞬間っていうのは、滝から落ちてくる水が落ちるべきところに落ちていくような感じというか、すごく自然な感じを受けて、ああこれは大変よろしいなと思った次第です。

前回は、「脳内音読」と「情景の展開」という二つの速度の調整について考えましたが、今回は自分の脳と体の歩調について考えた、ということですね。本当に、本の読み方には様々な方法があって、読み方を変えた時にオロオロするというのは、やっぱり読書が身体を使った行為だから、クールダウンとかそういうものが存在するんだな、という気がしましたね。これもやっぱり、やってみないとわからないことの一つでした。

ですので、本を読んでいて面白いなって感じるのは、必ずしも内容そのものが面白いだけでなく、内容と同調している時の自分のコンディションが非常に快適だ、ということでもある。そういう瞬間があるのではないかなと。それを意識した時に、ああ自分はすごく楽しんでいる、面白い、と感じるんじゃないかというようなことも思いました。

次回の沈思黙読会(第9回)は、7月20日(土)、詳細はこちら
基本的に月1で、第3土曜日に神保町EXPRESSIONで行われます。
(斎藤さんのご都合で第三土曜日でない月もあります)
学割(U30)有。オンライン配信はありません。


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