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第十三回「紅の挑戦者」(その1)(2015年8月号より本文のみ再録)

 「燃えたよ…まっ白に…燃えつきた…まっ白な灰に…」
1973年4月。『週刊少年マガジン』誌上にて5年4ヶ月に渡って長期連載された『あしたのジョー』が完結した。この作品で“高森朝雄”という別名義を使ったのは、連載開始当時に熱狂的ブームを巻き起こしていた『巨人の星』との差別化のためで、読者に“スポ根作家の原作”という先入観を与えぬための配慮であったという。だが、梶原の本名(高森朝樹)の一文字だけを変えたそのペンネームは『あしたのジョー』のみに使われた名義ではない。梶原が週刊マンガ誌に原作を書き始めた61年頃から『0戦チャンピオン』(※1)、『大空三四郎』(※2)、『忍者柴田』(※3)、『戦艦豊登』(※4)、『ジャイアント台風』(※5)、『キックの鬼』(※6)、『ケンカの聖書』(※7)など数多くの原作を雑誌によって使い分けていたのである。
 今号から取り上げる『紅の挑戦者』も高森朝雄名義での作品で、『週刊少年マガジン』誌上では『あしたのジョー』の次回作に当たる。そして高森朝雄名義での最後の原作作品となった。
 連載期間の73~75年の梶原の状況を交えながら、筆者が推測する本作に込められた作者の想いを存分に語っていこう!

※『紅の挑戦者』作品データとあらすじ


まさに梶原マガジン状態。1誌に3本の連載!!

 『紅の挑戦者』が連載を開始した73年8月。『週刊少年マガジン』には連載2年目に入った『空手バカ一代』(画・つのだじろう→影丸譲也)に加えて、前年末から始まった新連載『愛と誠』(画・ながやす巧)も掲載されていた。マンガ家はもとより、同じ原作者が一誌に3作品も同時に連載を抱えるというのは空前絶後の記録(※8)であり、当時の梶原がいかに一流の人気作家であり、多忙を極めていたのかを証明している。一方でそうした現象に対して「あれでは少年マガジンでなく梶原マガジンだ」と揶揄する声も少なくなかったという。しかし、それでもなお、当時のマンガ雑誌において梶原の原作というブランド力は得難いものだったということであろう。
 この時期まだまだ絶頂の続く梶原が『紅の挑戦者』で取り上げた題材はキックボクシング。ご存知のとおり、タイの国技(ムエタイ)を基にして66年に発祥したスポーツだ。なかでも必殺技“真空飛び膝蹴り”で知られる王者・沢村忠の人気は絶大で、70年を前後して大ブームとなっていた。その半生やキャラクターは序文で紹介した『キックの鬼』以外でも多数マンガ化されたばかりか、テレビアニメにもなっている。昭和40年男には現役の試合風景よりも、アニメの再放送での本人歌唱による主題歌の方が記憶に残っているかもしれない。しかし、73年当時のキックボクシング界は現役を続ける沢村の人気にかげりが見え始めた頃で、新たなスターの座をめぐって各ジムの花形選手たちがしのぎを削っていたキック戦国時代であった。
 そうした事情を背景に、梶原も本作連載から派生してテレビアニメ化や主人公と同じリングネームの選手を誕生させて人気者を作ろうという目論見があったのではないかと推測される(事実、アニメ化は企画までは立てられていたし、大成しなかったが主人公と同名の選手をデビューさせている)。

『あしたのジョー』原作者としてのリベンジ

 しかしもう一つ。筆者はかねてより梶原には『紅の挑戦者』で成し遂げたかったことがあったと考えている。それは『あしたのジョー』では原作者・高森朝雄としての仕事を完遂できなかった後悔と無念に対するリベンジである。
 今では有名な話だが、『あしたのジョー』に関しては梶原の原作は物語の一素材であり、それを基にちばてつやが取捨選択で膨らませて描かれていた。あの真っ白に燃えつきたラストシーンも、原作にはない。梶原が書いたラストが腑に落ちないちばが、編集者やスタッフを交えて絞り出して考えたものだったのだ。
 後に同業の劇画原作者・小池一夫との会話のなかで、小池が最も評価する作品に『あしたのジョー』を挙げた際に「...あれはちばてつやの才能だよ...」と語ったというエピソードがある。これと重ね合わせれば、『あしたのジョー』が年々伝説化や神格化されていく一方で、その創造者であるはずの梶原の心理にどこか屈折した想いが感じ取れるような気がするのだ。「今度は自分の原作を改変させず、本当に描きたかった男の闘いの世界を書こう!」、「高森朝雄として『あしたのジョー』を越える作品を作るのだ!」。梶原には、そうした意気込みもあったのではないだろうか。
 連載前に多忙なスケジュールを調整し、マンガ担当の中城健とタイを現地訪問してムエタイの取材を行なうなど、準備が意欲的に進められ、ついに連載は開始された。

それはヘミングウェイの一節で幕をあけた!

 この時期の梶原マンガには、冒頭に文学作品の一節を引用するパターンがある。そのもっと有名な例が『愛と誠』で使われた、ネール元インド首相が娘に送った手紙の一節「愛は平和ではない。愛は戦いであるー」だろう。『紅の挑戦者』では中城が描くキリマンジャロ山頂の氷壁に横たわる一匹の豹の死体の絵に添えられた、ヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』からの引用文で重厚な幕を開けられた。
  本作は“魔神”とおそれられる程の圧倒的な強さを持つ王者に魅了されてしまった主人公が、一切の欲得を捨てて一途に相手との闘いに挑む物語である。今回の執筆に当たり本作を再読した際、筆者にはこの物語構造にメルヴィルの有名な長編小説『白鯨』に通じるものを感じた。奇しくも68年に梶原は『週刊少年マガジン』にて、この小説を脚色したマンガを手がけているという事実も、その推測的中の可能性を裏付けてはいないだろうか。この小説に登場する、モビィ・ディックと呼ばれる巨大な白鯨を魔神・ガルーダに置き換えると、主人公の師がなぜ片足の義足の男として設定されたのかもうなずける。小説に出てくる、白鯨への復讐の妄想に取り憑かれたエイハブ船長もまたかつて白鯨に喰われて片足を失っているのだ!
 こうしてさまざまな要素を盛り込み走り出した『紅の挑戦者』を、梶原はどのように展開させていったのか、次回・その2で思う存分語るとしよう。乞うご期待!

『紅の挑戦者』を読んでみよう!(Amazon kindleへのリンク)

※1 1962年『ぼくら』連載。画・吉田竜夫
※2   1963年『ぼくら』連載。画・吉田竜夫
※3   1963年『週刊少年マガジン』短期連載。画・古城武司
※4   1964年『週刊少年マガジン』連載。画・水島 朗
※5   1968年『週刊少年キング』連載。画・辻なおき
※6   1969年『少年画報』連載。画・中城けんたろう
※7   1971年『週刊少年サンデー』連載。画・石井いさみ
※8 これ以前、1971年に掲載誌休刊により『タイガーマスク』がマガジンに移行したため『あしたのジョー』『空手バカ一代』3作が誌面に並んだ時期もある。

【ミニコラム・その13】

梶原マンガとキックボクシング
主人公のライバル・剣持隼人のモデルとなった沢村忠。彼が一大ブームを巻き起こしていた60年代後半から70年初期に、梶原は『キック魂(だましい)』(1968年『別冊少年マガジン』の読切作、画・古城武司)、『キック魂(ガッツ)』(69年『週刊少年キング』連載、画・南波健二)、『格闘王V』(69〜71年に『まんが王』『冒険王』で連載、画・みね武)などのキックボクシング作品を手がけている。なかでも有名なのが『紅の挑戦者』と同コンビで描かれた『キックの鬼』(69〜71年に『少年画報』で連載、中城は当時“中城けんたろう”名義)だ。沢村忠の自伝的マンガで、アニメ化もされた(70年10月〜翌年3月までTBS系列で放送、主題歌とエンディング曲は沢村自らが歌唱)。中城の回想によれば『紅の挑戦者』の画を担当した経緯は、一度コンビを組んでいるし、キックを題材にするなら慣れていると判断されたのだろうと語っている。

第十四回「紅の挑戦者」(その2)を読む!

第十五回「紅の挑戦者」(その3)を読む!

第十六回「紅の挑戦者」(その4)を読む!