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第二十回「新巨人の星」(その4)(2016年10月号より本文のみ再録)

 『巨人の星』がそうであったように、『新巨人の星』もまた、読売巨人軍という実在の球団が背負う“常勝”という宿命に強く影響された作品であった。
 前者は巨人V9のうちの6年という黄金期に連載(1966~71年)されたことが相乗効果となって一大ブームを巻き起こしたのは誰もが認めるところだろう。だが、『新巨人の星』では、そのことがネガティブな影響を及ぼす。
 「青年、成人向けの豪華巨編劇画」「人生一大叙事詩ともいうべき圧倒的な名作」など、編集部の壮大な賛辞を受けて始まった『新巨人の星』の連載は、巨人の76~77年のリーグ優勝の流れでテレビアニメ化されたあたりまでは順調だった。しかし、V9を支えた主力選手の高齢化や若手が育たない状況が戦力低下を招いて、巨人は翌年のシーズンでわずか3ゲーム差でヤクルトに競り負け、2位という結果に終わってしまう。このことが、長嶋采配への疑問視につながり、加えてシーズンオフに球界を揺るがした“空白の一日”(※1)もあって、巨人への批判が高まっていく。
 こうした世論を受け、編集部は『新巨人の星』を79年のシーズン開幕前に終了させることを決める。出世作の続編の幕引きを梶原はどのように描いたのか。そこにどんな思いを込めたのか。

※1 当時の野球協約の強引な解釈で、他球団からの交渉権を受けていた江川卓と巨人が電撃的な入団契約を結んだことから発生した騒動。

※『新巨人の星』の作品データとあらすじ


長嶋巨人のために、竜馬の言葉に殉じる飛雄馬

 リーグ優勝はしても日本一にはなれない巨人のために、飛雄馬は魔球・大リーグボールの開発を決意する。新魔球の章と銘打たれた最終章は、かつて自身の左腕を魔球により破壊してしまった轍を踏むことになろうとも、ひたすら前進を続けようとする飛雄馬の姿を描きながらラストシーンへと向かっていく。特に、前作で父・一徹が語った坂本竜馬の次の言葉が、本作でも随所に引用され、その悲壮な覚悟が表現される。
 「いつ死ぬかわからないないが いつも坂道を上ってゆく 死ぬときはドブの中でも前のめりに死んでいたい」
 そして一徹の協力のもと編み出した蜃気楼の魔球を引っさげ、78年のシーズンに挑む飛雄馬。やがて宿命のライバル・花形満に新魔球は攻略されてしまうが、かつてのように戦線を離脱し新たな魔球開発に向かうことなく、チームの勝利のために連投を重ねてゆく。連載時には優勝できないという結果を知っている読者にとって、それでも飛雄馬が力投を続ける姿はどう映っていただろうか。やはり筆者は、そこに梶原が込めたメッセージを感じる。つまり、人間にとって重要なのは結果ではなく、そこに向かう自身の懸命な努力である、と。
 そして最終回では第2のライバル・左門との対決が描かれる。長年の勘から攻略の可能性を感じ、魔球を投げられずに打ち込まれる飛雄馬。ヤクルトの追い上げを受けて星を落とせないなか、投手交代を打診する長嶋に、飛雄馬は前出の言葉を引用し続投を願い出る。「打たれるものなら打たれて また一から出直すか!」と試合を託された飛雄馬は、魔球の欠点に気づいた左門から会心の一打を浴びてしまうが、王のファインプレーによって助けられ、試合には勝利する。心は晴れぬが、親友と父の励ましに新たなる前進を胸に秘め、物語は終わった…かに思われた。

『巨人のサムライ炎』とその後の飛雄馬

 どうにか話をまとめた梶原だったが、魔球の謎の解明をはじめ、未消化な部分も残していた。これに際して最終回の冒頭では異例の釈明文を掲載している。「完結に際して」と題されたその文章では、連載終了と入れ替わるように始まるテレビアニメ『新巨人の星II』(※2)で謎を解消させることを宣言し、さらに次回作『巨人のサムライ炎』(※3)での再登場も明言するのだ。
 かくして読者の前に三度現れた飛雄馬は、新たな魔球を生み出せず、右投手としての限界を知り苦悩の末に現役を引退、二軍のピッチングコーチになっていた。長嶋の回想によって語られるその経緯は、我々が抱いていた英雄としての偶像を完全に崩してしまうほど無様だった。確かに『新巨人の星』での飛雄馬も、謎の代打屋として再登場した時点で格好よくはなかった。連載中でも前作のようにヒーロー然として読者が憧れるような存在としては描かれなかった。しかし、「お前の野球人生は終わった」と冷酷に言い放つ父の言葉に激情し、「一度でも星になった人間にはなりそこねた連中にはわからん苦悩がある!おれはもう終わりなのかあーっ⁉︎」と泣き崩れる...そこまでの描写はなかったはずだ。『あしたのジョー』の矢吹丈や『愛と誠』の太賀誠のように、男の美学を貫く壮絶なラストを飾らせることなく、飛雄馬はその醜態を晒し続けた。劇画原作者としての自分を一躍世に知らしめた、記念碑的なキャラクターに対する、この非常なまでの描写にどんな意図があったのか?やろうと思えば『新巨人の星』のその後の活躍を華々しく描くことも可能であったはず。あえてそうしなかったのは、なぜか。
 その答えは、すべての梶原作品の根底に流れている、彼の人生観に表れていると思う。生きることは決して格好よくはない。むしろ己の限界を知り、それでもあがきもがく無様なものである。特に飛雄馬には、その名前が背負う運命とも言うべき由来がある。梶原と川崎のぼるの対談(※4)によれば、これまでにないリアルな人間(=ヒューマン)ドラマを描くという意図で名付けられた名前だという。多くのスポーツ選手の栄枯盛衰を間近で見てきた経験も照らし合わせれば、飛雄馬の姿こそ梶原の思う真実の人生だったと思えてならない。
 だからこそ『新巨人の星』には年齢を重ねてきた人に伝わるものがあると筆者は確信するのだ。
 昔読んだきりでストーリーもおぼろげなアナタ!本棚にコミックスを眠らせているアナタ!そして折に触れ読み返しているアナタ!これを機に『新巨人の星』を一騎に読め!

※2 日本テレビ系列にて1979年4〜9月に放送。全23話。
※3 『週刊読売』1979年5月20号〜1980年8月17号に連載。画・影丸譲也 
※4 『巨人の星』連載終了の翌号にあたる『週刊少年マガジン』1971年1/24日号に掲載。

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【ミニコラム・その20】

ナゾに包まれた魔球のからくり
 
本文でも触れたがマンガの連載完結に寄せた梶原の文章には、魔球変化のナゾは連載終了と入れ替わりで始まるアニメ『新巨人の星II』で解消させるとあった。しかし、放送中盤で登場した魔球・蜃気楼ボールはマンガのソレとは似て非なるもので、超スピードボールが空気抵抗を受けて激しく振動するためいくつにも見える、と説明されていた。筆者の推測では、ハーフスピードで打者・捕手・球審にしか見えない地味な変化ではアニメに不向きと判断したスタッフが苦慮の末にアレンジを加えたのだと思う。ではマンガ版ではどんな原理が考えられていたのだろうか?上記の文章には、今後の展開のために用意していた創作ノートをスタッフに提供するとも書かれていたが、その存在も内容もコアなファンにとっては幻の一品と呼ばれているらしい。もし発見されたら、梶原作品研究に新たな伝説が刻まれることだろう。

第十七回「新巨人の星」(その1)を読む

第十八回「新巨人の星」(その2)を読む

第十九回「新巨人の星」(その3)を読む

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