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東日本大震災を忘れない(1)-震災当日を振り返る

こんばんは。今日もお疲れ様です。

あの日から、まもなく9年と6か月。

大震災で亡くなられた方々に対し、心より哀悼の意を表するとともに、
ご冥福をお祈りします。

食日記シリーズでは、10年前の思い出を、Googleフォトがスマホに表示するままにアップさせて頂いておりますが、そうでなくても思い出してしまうことは、自分にとっては、この東日本大震災と、そして震災後、公設秘書として当時の与党の中に居ながら、やろうとして出来なかったこと、やろうと思っても出来もしなかったこと、ちょっとだけやれたこと、その整理をつけるために、当時書いたことと、当時書けなかったけれど今なら書けることを書いて参ります。

当日の朝

地震の当日は、長男の高校の卒業式でした。

私と違って、根が真面目な息子は、なんと4回も表彰されてたらしい。

卒業式の式次第を見たら、4回も名前が出てきたので、母親=家内もびっくり。

翌日が受験だったので、早々に謝恩会を切り上げて来たため、電車に閉じ込められることもなく、自宅に普通に帰宅。

震災当日の行動

2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒。

私は参議院議員会館の10階の事務所で、公設第一秘書として執務中でした。
たまたま事務所の中を移動中で、立っていられない程の衝撃を感じ、傍の机に手をついて揺れが収まるのを待っていました。

普段は見ることのないTVを付けると、NHKが場所を特定せずに映像を流し
続けており、湾岸のどこかで火災が発生した映像とか、津波に全速力で走る自動車が飲みこまれるシーンとかが流れていました。

自宅に電話をかけ、多少戸棚から物品が落ちて来て後始末が大変だったけど、全員無事であることを確認しました。

そして、実はこの日、既に3月上旬でしたが事務所の新年会を行う予定になっており、この状況ではキャンセルするしかないと、お店に断りの電話を入れました。

私とグルメ仲間の方は良くご存知の、西新宿のあの店です。
ワインのボトルがいくつか割れてしまったそうです。
電話に出たオーナーシェフの白井さんに、今日は中止させてください、と
伝えましたが、電車も止まっており、そもそも時間通りに行くことができませんでした。

当日は、議員会館に留まってようかと思いました。
参議院議員会館の10階は、構造上かなり揺れますが、それだけを我慢して
いれば安全は、安全ですから。
毛布のストックもあり、宿泊する人に炊き出しもあったようです。
エレベーターがずっと止まっていたので、フロア移動はすべて階段を使う
しかありませんでしたから、1階の食堂まで下りて行ったり地階のコンビニで買い物するのも大変な作業ではあったのですが。

そしてなにより、帰宅するのは明日でも明後日でも構わない訳で、災害対策の初動として、国家の司令塔開設を手伝うべきでした。

家の固定電話には問題なくつながって、全員無事なのは確認してましたので。
さすが、NTT。

でも、刻々とNHKやネットでは色々状況が入ってくるものの、立法府への
協力要請は、当日は結局何もありませんでした。

ただ、菅内閣は地震発生から28分後の15時14分、史上初の緊急災害対策本部を設置したので、これは迅速だったと言えるでしょう。
その後、当時の枝野官房長官の、不眠不休の記者会見が続きます。

しかし、誰一人予見できず、報道も後手に回りましたが、地震発生から1時間後、東京電力福島第一原子力発電所は、1 - 5号機で全交流電源を喪失していたのでした。

震災発生後、数時間は事務所に居ましたが、待っていても何も作業が発生せず、当時は何も思いつかず、情報確認はスマホで出来たので、歩いて帰ることにしました。

電車はすべてとまっており、翌日は朝から平常運転に戻ったので、当日無理に帰宅する必要は、後から考えれば全くなく、単に歩き疲れただけでしたが、翌日に電車が復旧するかも判らず、むしろ来週から忙しくなるだろうと予想して、歩いて帰宅することに決めました。

当時契約していたソフトバンクは、震災直後は全く通話ができず、翌朝までその状態でした。
ブラウザは読めるので、電話回線のキャパシティを超えてしまったのでしょう。
孫正義さんは、設備投資をケチる経営者だよね、まったく、と思いました。

そうやって溜め込んだ収益のうち、孫さんは当時100億円を寄付されてましたが、それで済む話ではありません。

以前から、震災の時に備えて歩いて自宅に帰る訓練をしておいた方がよいなと思ってたのですが、訓練をする機会がありませんでした。
訓練でなく、いきなり実地です。

Google Mapで検索したら、自宅まで36kmもありました。

時速4kmで歩くと、9時間です。
途中で休憩を取ることは可能だろうと、楽観視して歩き出しました。

永田町から表参道までは、表通りを歩きました。
裏道、というものが基本遠回りになります。
でも、大勢の人が居るので、なかなか進めませんでした。

緊急時には車両通行止めになる筈なのに、この日、首都のお膝元である東京都はその判断がくだせず、大勢の人が移動していてかつ信号はちゃんと動いてるので、赤信号で度々止まり、通常1時間くらいで到達できるところに2時間かかってしまいました。

途中、表参道の地下鉄構内に降りて、様子を見てみました。
電車が動いてないので、茫然と座り込んでる人が大勢居ました。

表参道からは、子供の頃から勝手知ったる裏道を通って、代々木上原方面に抜けます。

代々木上原の駅の近くで、道に迷ってる外人さんに出会い、東大駒場方面への道を教えてあげます。

歩き出して3時間経ったところで周囲もすっかり暗くなり、食事休憩を摂ることにしました。

ITALIAN DINING :second contentというお店で、代々木上原駅からすぐのところにありました。
震災の直前にオープンしたようですが、3月11日は震災でグリルがやられてしまったそうです。

でも、温かい前菜も出せるそうなので、イタリアンオムレツをお願いしました。

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飲み物も、アルコール飲んでる場合ではないので、温かいカプチーノを。
助かります。

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鴨肉のローストも出してもらいました。

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「落ち着いたら、また食べに来ますね」と言ってお店を出ましたが、時期は不明ですがこちらのお店は閉店してしまいました。
同名のレストランが、渋谷駅、恵比寿駅、青山にあるようです。

震災で従業員が集まらず、開店してなかったお店が多い中、本当助かりましたm(_ _)m。

改めて出発です。

代々木上原から、ずっと裏道を通って西に向かったのですが、細い路地を猛スピードの違反速度で駆け抜ける輩が続出。
大抵、外車です。
他人を轢き殺してでも、自分達だけは早く自宅に戻りたいらしい。
足取りがふらついたら、ひっかけられて致命傷を負うところです。
本当、やめてもらいたいものです。

大震災の時は、車を捨てて徒歩で避難せよ、というのは、首都圏で免許を取る人には全員指導が入る項目です。
守らない人は、法令違反ですぞ。

悪いことばかりではなく、いいこともありました。
桜上水駅のあたりを、線路に沿って歩いていたら、遮断機が故障して踏切が通れなくなっているのを、車が通り過ぎようとする度に、腕で持ち上げて通してあげている人が居ました。

思わず手伝おうかと思いましたが、ずっと巻き込まれて帰れなくなると困ると思い、そのまま見て見ぬふりをしてしまいました。

安全に歩くことが難しいかったので、やむなく甲州街道に出ました。

そこからさらに延々と3時間程歩いて、調布駅の手前まで来たのですが、ファミレスのガストが開いてたので、再度休憩することにしました。

ここまでで17km。
まだ半分あるのか~と思うと、その晩は一晩中歩き詰めを覚悟しましたが、友人がTwitterで「京王線が動き始めた」というつぶやきをリツイートしてくれました。
調布のひとつ手前の布田駅から、電車で帰ることができました。

京王線自体のサイトではまだその情報が掲示されてなかったので、大変助かりました。

いつもより、半分以下の走行速度で運行されたので、家に帰り着いたときは、12時を過ぎておりました。

もし次回、もっと大きい震災が首都圏を直撃で襲ってきたら、徒歩では帰れませんね。

その日、ホリエモンは、夜を徹してTwitterで情報を転送し続けてましたね。

今後の公開予定

本稿も含めて、当時書いていたブログの残存テキストがありますので、それを基に、当時の半年間の記録を綴って参ります。

自分自身の、認識と気持ちの整理も兼ねて。

では、また明日。

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