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日本学術会議と東日本大震災

こんばんは。今日もお疲れ様です。

日本学術会議問題については、これまで4回投稿して参りましたが、今日はそれとはやや内容を変えます。

ニューズウィーク日本版のコラム

日本学術会議を会議を巡る問題について、東日本大震災後に日本学術会議が出した政策提言で、自分がどうしても納得いかなかったけど、それが何だったか思い出せず仕舞いになってしまうのかと、このところずっと悶々としてたのですが、やっと、というか遂に、指摘してくれる学者が登場しました。

10月18日(日)のニューズウィーク日本版のコラムです。

著者の野口旭氏は、専修大学経済学部教授です。

当時の日本学術会議の会長は、同じ専修大学の法学部教授だった広渡清吾氏だった、というのは皮肉なものですが。

冒頭の部分は序説的な内容ですので割愛しますが、途中からは本当わが意を得たりですので、引用させて頂きます。

筆者自身もそうであったが、世間一般の人々はもとより研究者の多くも、日本学術会議がこれまでどのような活動を行ってきたのかに関しては、ほとんど何の認識も関心も持っていなかったに違いない。しかしながら、今回の騒動ははからずも、日本学術会議がこれまでに行ってきたさまざまな活動の実態を瓢箪から駒のように露出させ、それをメディアやネットに拡散させる契機となった。そこには、科学技術政策に関するものだけでなく、経済政策をも含む公共政策に関連するものも含まれている。
筆者がその実情を知ってまず感じたのは、「日本学術会議の活動のある部分は、純粋な科学者的観点というよりは、一定の価値判断やイデオロギーに基づいて展開されているのではないか」という問題点である。その価値判断はおそらく、学術会議に属する特定の個人やグループの意図を反映したものではあっても、研究者全体の総意や合意を反映したものではない。そして、それは当然ながら、有権者の集合的な価値判断とも合致していない。
したがって、民主的な手続きを通じて有権者全体の価値判断を反映して成立している政府と、それとはまったく無関係に独自の価値判断に基づいて活動している日本学術会議との間には、いつ対立や齟齬が生じてもおかしくはなかったのである。今回のような対立がこれまで表面化することがなかったのは、おそらくその時々の政府が、学術会議を毒にも薬にもならない存在として事実上無視してきたからにすぎない。

私は日本学術会議の提言を印籠のように振りかざす面々を永田町の中で見て来たので、東日本大震災発生直後の年と、翌2012年は既に毒として見たのでした。
以下、次からの3番目以降が重要なのですが、論理の整合性のために全部引用します。

日本学術会議あるいはその立場を擁護する側は、今回の政府の決定について、「時の権力によって学問の自由が侵害された」といった内容の批判を行っている。確かに、学術会議が一般の学会のような純粋な学術組織であったのであれば、政府がその人事にむやみに介入するのは不当である。しかし、学術会議がそのホームページで自ら明示しているように、「政府に対する政策提言」は、学術会議の重要な役割の一つなのである。それは、科学的真理の追求といった学問的研究活動一般とは次元の異なる、広い意味での政治的活動である。
学術会議がこのような政治的目的を付与された政府の一組織として位置付けられている以上、政府は当然、民意を背景とした自らの政策遂行のために、そこに何らかの影響力を行使しようとするであろう。学術会議側がもしそのような事態を避けたいと考えるのであれば、海外のほとんどの学術アカデミー組織がそうであるように、財政も含めた政府からの完全な独立が必要である。あるいは少なくとも、特定の価値判断を伴う政策提言のような活動は基本的に避けて、研究活動の支援や科学的知識の啓蒙的普及といった非政治的な活動に自らを限定すべきである。
しかし、実際の日本学術会議は、そのような分をわきまえた存在ではまったくなく、きわめて独善的に、一方の政治的立場に基づく「提言」を自由気ままに行ってきたのである。

ここでページが変わります。

日本学術会議による増税提言

日本学術会議がこれまで行ってきた活動の問題点を示す、今回の一件以降に表面化した事例の一つに、東日本大震災後の2011年4月5日に日本学術会議東日本大震災対策委員会が公表した「東日本大震災に対応する第三次緊急提言」における復興増税提言がある。
「国は緊急対策の補正予算を組み、国家予算の組み替え、既定の財政支出の節減を図るとともに、復興のための国債の発行や増税・新税(たとえば開発復興税)について、制度の設計を進めるべきである。国債発行に関しては財政規律の問題を考慮し、増税は、国民的な復興努力の一環として位置づけ、世代間における負担の公平性を図るべきである」というのが、その当該部分である。
復興増税は、当時政権を担っていた旧民主党の基本政策であった。そしてその政策は、2011年12月に公布された「東日本大震災からの復興のための施策を実施するために必要な財源の確保に関する特別措置法」に基づく「復興特別法人税及び復興特別所得税」として、実際に現実化された。ウィキペディアの項目「復興特別税」には、それが上の学術会議提言に基づくものであったことが記されている。そうであるとすると、これはあるいは、日本学術会議の提言が実際に政府によって採択されて実現された数少ない実例の一つであったのかもしれない。
しかしながら、日本学術会議のこの増税提言は、客観的にみると、まったく分をわきまえないものであった。というのは、復興増税問題はこの時、財政優先か経済優先かの価値判断をめぐる、一つの明確な政治的争点になっていたからである。
実際、当時の与党民主党と野党自民党には増税派と反増税派がそれぞれ存在しており、両派の間で錯綜した政治的駆け引きが展開されていた。のちに「消費税増税をめぐる三党合意」が成立した経緯が示すように、この旧民主党政権の時代には、民主党も自民党も執行部はほぼ増税派によって占められていた。他方で、「増税によらない復興財源を求める会」という有力な超党派議連も存在しており、2011年6月に公表されたその声明文には、民主党113名、自民党65名の衆参国会議員が署名していた。この会の動向は当時の政治状況の中ではあくまでも傍流ではあったが、幹事長は山本幸三、会長は安倍晋三が務めていたことから明らかなように、それは結果としてのちのアベノミクスに至る歴史的契機となったのである。
こうした政治状況を踏まえて改めて振り返ると、日本学術会議がこの時、有権者の価値判断こそが最も優先されるはずの政治の本丸に、いかに無邪気かつ無神経に口出しをしていたのかが分かる。おそらく増税派はこの時、学術会議の増税提言を印籠のように振りかざすことによって、あたかも増税は日本の専門家全体の一致した結論であるかのように喧伝することができたであろう。学術会議はつまり、専門家の代表を僭称して中立を装いながら、実際には一方の政治的立場に明確に加担していたわけである。それは、どの点から見ても明らかに政治的な行動であった。

野口教授は、私がすっかり忘れていたことを思い出させてくれて、本当に感謝です。

野口教授が2つ上の段落で指摘している「消費税増税をめぐる三党合意」は、詳しくは下記をご参照ください。
如何に政策的議論が混迷していたかの一端が、ご理解頂けると思います。

これで思い出しましたが、当時の私の感想は、「学者の提言なのに、両論併記ですらない」というものでした。

野口教授の主張を最後まで見てみましょう。

学術と政治をどう切り分けるか

増税派と反増税派との対立は、基本的には財政優先か経済優先かの価値判断をめぐる政策イデオロギー上の対立である。そうである以上、その点に関して専門家が全体として合意に達するなどということはあり得ない。実際、国内でも海外でも、増税派と反増税派、緊縮派と反緊縮派は、学界や論壇で絶えず相争っている。科学者や専門家たちは確かに、現実の科学的・実証的な把握に関して合意に達することはできる。しかし、その政策的価値判断において合意に達することはめったにないし、またその必要もないのである。
日本学術会議の最大の問題は、本来そのように科学的観点のみによっては合意不可能であるはずの政策的な判断を、あたかも専門家による科学的観点からの総意であるかのように装って一般社会に提示している点にある。日本学術会議はおそらく、自らが結果として政治的領域に踏み込んで、一方のイデオロギーに深く加担していながら、そのことの自覚をまったく持っていないのである。
学術会議のみに限らず、政策提言を行う専門家はしばしば、政策的価値判断を科学的判断と混同しがちである。しかし、どのような政策提言も、それが究極的には必ず何らかの価値判断に基づくものである以上、「〜である」という科学的実証の領域と「〜すべきである」という規範の領域を明確に切り分けて議論することが必要である。それはいわば、専門家であるための最低限の条件である。両者の混同は即ち学問の自己否定を意味することは、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーがその古典的小論『職業としての学問』(1919年)で指摘したとおりである。
結局のところ、日本学術会議がそもそも政治的目的を付与された存在であり、実際に無自覚にせよそのように振る舞ってきた以上、その組織は政府の政策的意図と本来無関係ではあり得なかったのである。にもかかわらず、それをあたかも純粋な学術組織であるかのように言い募って「政府からの独立」や「学問の自由」を主張するのは、それこそ統帥権の独立を楯に政治介入を繰り返した旧軍の行動そのものである。

つまり、第二次世界大戦の反省に立って日本学術会議が発足したと本当に言えるのなら、旧軍部の行動を真似しては決していけなかった筈です。

日本学術会議の実態は次々に公開されてきていますが、日本の学界一般は、まだ健全だということにちょっと安堵しました。

むろん世の中的には、政権が日本学術会議を攻撃するのが学問の自由の侵害であるとして、特に野党はそこから政権批判をしようとしていますが、それが本当に正しいことなのか、冷静に見極める必要があるでしょう。

では、また明日。


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