マガジンのカバー画像

連載「私と女優と人生と」

31
女優の姿を通して、「ホンモノの大人とは?真の女性の美しさとは?」をお伝えしていきます。
運営しているクリエイター

#note映画部

真実って、普通は複雑なもの”ジョディ・フォスターの知性“

私は今、過去にも未来にも興味がない。正確には、「過去」と「未来」に価値が感じられなくなったのではなく、それに興味を持つ余裕がないほど、「現在」を正しく理解することに集中したい、という意味だ。習得したければ、まず懸命に打ち込んでみよう。‘信じて欲しければ、まず信じよう。という風に私は、新たな物事や人間関係を受け入れ肯定するところからスタートするやり方で生きてきたのではないか、と思ったりするのだが、57年生きてきて今、その時々の「現在」を間違って理解しながら生きてきたのではないの

深読みを必要としない世界へ ブリジット・バルドーの魅力

 ついに!選んでしまった女優、ブリジット・バルドー。同じ仏映画でも、私が好きそうな(自分でいうのも変だが)“わかりにくく魅力的な、だからこそ意味を探ろうと何度も観てしまう”タイプの映画ではなく、その対岸に堂々と位置するフレンチアイコンの代表だ。くしゃくしゃ無造作風に盛り上げられたブロンドヘア、赤いけれど少女風のリップが塗られたぷりぷりの唇からは、可愛い不満が自由に飛び出し、素晴らしくまっすぐな脚は、バレエの気品を持ちつつも、ラテンダンスが一番似合う。ミニがまだ登場していない時

“群れ”から“他を認める個”へ。ジャンヌ・モロー的自己実現とは

昨年からの緊急事態によって、我が国でもいよいよ『個性』に焦点があたってきた。今さら?という声もあるだろうが、考えてみて欲しい。ファッションの「何をどう着るのか」でも、仕事場で「どう動くのか」でも、SNS上で「どう見られたいのか」に対しても、果たして“本当の意味で解放された己の判断に基づいた選択”を、私達はしてきたであろうか。それは他のそれを見るときの自分もそうだ。かなり自由に生きてきたと思っている私でさえも、「本当に?」と問い直すと多々疑問が見えてくる。自分の中にある差別意識

どこまでも柔軟に高く ジュリエット・ビノシュのように

2020年はいつもと同じ365日だったのに(いや、オリンピックは延期になったけれど閏年だったから366日だ!)、人や物との“関係性”や“価値”を大きく変えた。今まで、考えるに値しない程普通だと思っていたことや、揺るぎないと思っていたものまでが、根底からひっくり返ることも。この騒動を「思考の停止」なんて言う言葉で表す文章をたびたび目にしたが、私は違うと思っている。2020年は柔軟に思考を重ねた日々だった、と。 「柔軟な思考」、これは私の好きな言葉で常に持っていたい軸のひとつ。

皆の上にある真の幸せの形を カティ・オウティネンの姿に見る

今置かれているこの状況はいったい、“本当は”いつから始まっていたのだろう、とふと考えてみる。コロナ騒動のことだ。初期の頃は、「予想外の惨事」が「急にやってきた」と思っていて、だからこそ「すぐに収まる、今だけの騒動」と信じ、外出しないことでコトが収まるのならば、「お家でのんびりを楽しもう」とさえ、私は思っていた。それがどうだ。全くそんな「今だけ」のことではなく、相当な年月を費やして、それでももう元には戻らず、もしかしたらもうずっと前から、人類行動脳の大変革を『地球』や『宇宙』、

こんな時だからこそ今、強い視線のヴィヴィアン・リー

今世界中が、見えないものと戦っている。何もかもが想定外で、未知という名の恐怖の連続。こんな時に誰を書こうか、書くべきか。誰もが癒される女神みたいな女優とはいったい・・・と思案していた。 否が応でも新型ウィルスの情報は日々更新されるが、それがどこまで正しいのかさえ、わからない。全ての価値が揺らいでいる。 そんなある朝ふと、私が今までで一番数多く観てきたであろう、ある映画のヒロインを思い出した。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラだ。初めて観たのは小5の時、テレビ「水曜ロ

二律背反という名の美学 シャーロット・ランプリング

昨年のラグビー人気は記憶に新しいが、一説によると「ラグビーは紳士が行う野蛮なスポーツ、サッカーは大衆が行う紳士的なスポーツ」なのだそう。確かにワールドカップ期間中、交通機関移動にスマホ以外の荷物を持たず“完璧な自由”という空気を纏った優雅な大男が沢山来日していて驚き、その身軽さに憧れた。本質とは真逆のところに目くらましを装い、それを“粋”と感じさせるのは本来、ファッションの得意分野のひとつである。 ファッション用語に、“マニッシュ”という言葉がある。“男装的な”という意

さいごに一流であればいい。宮沢りえの透明感は本物か?

 信じていたものが覆される出来事が何と多くなったことか、と感じる昨今。2011年3月11日、「生きるための常識が変わる」と察して今までの自分を疑う事に目覚めた私は、今からの「在るべき姿」を探ることと、服の仕事を結びつけたいと、生活を一変。それから9年近く経ち、予想通りの時代変化の中、最も我に願うことは「心と思考を柔軟に」。何より頑固な精神を作ってはいけない。  すでに語り尽くされている憧れの女優も、改めて自分の言葉で書きたいと始めて16回目。およそ手が届かない仏の大女優カト

変わらぬ体型のまま魅力を進化 女優イザベル・ユペールの場合

“動的平衡”私は今この言葉に夢中である。簡単に言うと「ミクロでは変化しているけれど、マクロでは変化していない」ということらしい。ひと月前の身体と今日では細胞レベルでは別のものなのだそう。生命を維持するのに必要な方法だと。福岡伸一先生の講義で知った言葉である。 「ミクロでは変化しているのに、マクロでは変化していない」のは、「変化」か「無変化」か。「上手い変化」とみるのか、「長く続く安定」とするのか。いったい、何の話だ。そう、今回の女優 イザベル・ユペールの話。 女優として素

愛とは行動すること。強き麗しの妖精・オードリー・へプバーン

美しさについて学べば学ぶほど、それは日々の行動と思考の積み重ねであり、内なるものだと(厳しいけど)思う。ファッションとは移り変わるものなのだが、ここのところ、一過性の美には、興味が持てない。そう思ったら今書くべき女優は、オードリー・ヘプバーンしかいなかった。 ファッションを最大限魅力的に着こなせる女優として、軽快なものから思慮深いシックなものまで、『ローマの休日』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』など、どれだけ見たかわからない。旬な誌面にもファッションのお手本として、い

自由とは白黒つけることではない。大人の自由なグレーについて

2017年のはじめ頃、衝撃的な歌詞を聴いた。その名も『おとなの掟』。グッときた。キーワードは、「自由」「おとな」「グレー」。 私には今までなんとなく“思っていた事”があった。我が国で自由な大人になるためには、ある特定の分野で経験を積み、白黒はっきりさせる為の術を身に着け、極力時短で事を済ませなくてはいけない。そして、その道の専門家になる。なにかの専門家になるのは良しとしても、それと自分本来の「自由」を手にすることと、果たして同じなのだろうか、と。それは、本当に成熟の先にある

怖いのは世間ではない、正直さを欠いた自分だ・山口百恵の場合

日本に向けた褒め言葉として海外から「COOL」と言われるかなり前に、元祖クールな女性がいた。それが今回の女優・山口百恵。そう、昭和の歌姫だ。日本のお茶の間の中心にテレビがあり、そこに登場するスターには、プライベートなど無かった時代。古い時代が全ていいとは思わない。私はいつでも「革新」が好きだ。けれど、この時代の芸能界にいて“自分の中の正直で誠実な価値観”で判断し、発言し、行動し、貫いている女性は、そうそういない。ふわふわとフランス女性に憧れてなんぞいる私の“本当の原点なのだ”

“私だけが知っている魅力”に人は恋をする。あなたは親密な関係を持っていますか? ファニー・アルダンの場合。#ジュヌセクワ

“自分の人生を生きる”ために、服はもちろん、価値観さえも自分で選ぶことをレッスンしている195教室。 これは、あるひとりの監督によって確立されたといっても過言ではない私の仏映画好きと関わりがあるのだと感じたのは、つい最近のこと。 “頭を働かせること、屈しないこと、人を笑わせること、軽やかに振る舞うこと。深みのあることをさりげなく言う術を心得ている稀有な知性の持ち主”と言われたフランソワ・トリュフォー監督である。 今日は、そのトリュフォー監督に見いだされ、愛された女優ファ

最強の“境界線”を手に入れた自然なまなざし。ソフィー・マルソー

なんでもない毎日を、少しでも楽しくするには、“境界線を自分で決めること” だと私は思っている。マイルールと言ってもいい。大きなことでなくていい。 本来の目的を忘れてしまったような「日常」の動作に、「ここまで」という境界線を引く。それを意識する、ということだ。 ファッションでの境界線とは、ずばり『ネックライン』。 特に夏から秋にかけて。真冬の寒さが来る前に(寒さを凌ぐ一番は襟元を閉める事なのだ)、“自分史最高の自分”を引き出すネックラインに出逢えたら、精神的にも大きな自信