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sayonara no maeni

第1章(陽一・・・告別式)

東京の下町、新小岩・・・「新小岩」と言う地名は、昭和40年頃につけられた地名で、それ以前は、上平井町、平井中町、上小松町、下小松町とそれぞれの地域が、それぞれの地名で呼ばれていた。
冬の代表的な野菜である小松菜が有名な地域で、この小松菜という名前も、小松川という地名から名付けられたものだった。地元の人は、この土地に駅が出来た時に、馴染みのある小松と言う名を駅名としたかったそうなのだが、単純に小岩の一つ前の駅と言う事で「新小岩」と名付けられてしまったのだ。
その当時、新小岩の周辺は田んぼしかなかったが、今やちょっとした歓楽街の体をなしており、駅の南側にあるルミエール商店街は140店舗を超える巨大商店街で、実に様々な店が混在していて一大アミューズメントパークと化していた。
葛飾区初のアーケード型の商店街で完成までに9年の年月が、かかったと言われている。そして駅の周辺には、数件のラブホテルや何やら怪しげなバーもあったりして、これまた良い味を醸し出しているのだ。
新小岩教会・・・その教会は、そんな歓楽街的な場所を東に歩いて5分ほどのところにあった。一見すると教会には見えなかったりするのだが、よく見ると鉄筋コンクリート造りの4階建ての建物の南西の角には、建物の壁に沿って鉄骨製の十字架のモニュメントがあり、そのモニュメントは、どの方向からも十字架に見える様になっていたのだった。

説明するのは、ちょっと難しいのだが、つまりは真上から見ると十字の鉄骨が10メートル位の長さで立っていて、さらに上から2メートル位のところに今度は横に鉄骨が縦の鉄骨をぐるりと囲っていてどの方角から見ても十字架に見えるという様な構造になっているのだった。
 その十字架のモニュメントの下に立て看板が立てかけてあった。高さ2メートル幅50センチほどの立て看板だった。
そこには、『養父陽一 告別式』と大きく習字で文字が書かれていた。その習字の文字は若干いびつに左側が下がっていて、それがまた悲しげな雰囲気を醸し出していた。

告別式は、その鉄筋コンクリート造りの4階建ての建物の北側に隣接する建物の2階の礼拝堂で行われていた。

12月30日と言う年の瀬だったが、すでに礼拝堂には100人を超える参列者で満員の状態だった。さすがに100人も人がいると小声で皆話しているつもりでもそれなりに騒がしかった。
しかしオルガンの音が流れたその瞬間、サーと喧騒が消え去り、礼拝堂は厳粛なムードに一瞬で包まれたのだった。
 オルガンの演奏が終わり、約20名の聖歌隊がさっそうと登場した。100人の参列者は、聖歌隊が登場すると言うキリスト教式の葬式に慣れていなかった為、何が一体これから始まるのか興味津々の状態だった。
 養父陽一の告別式は故人があらかじめ教会に届け出ていた彼の愛唱歌の讃美歌529番 「ああうれし、我が身も」 から始まった。
 1)ああうれし、我が身も 主のものとなりけり
   浮世だにさながら 天つ世の心地す
   歌わでやあるべき 救われし身の幸(さち)
   たたえでやあるべき 御救いのかしこさ
 2)残りなく御旨(みむね)に 任せたる心に
   えも言えず妙なる 幻を見るかな
   歌わでやあるべき 救われし身の幸(さち)
   たたえでやあるべき 御救いのかしこさ

3)胸の波収まり 心いと静けし
   我もなく世もなく ただ主のみいませり
   歌わでやあるべき 救われし身の幸(さち)
   たたえでやあるべき 御救いのかしこさ

そして聖書朗読、牧師の説教が続いた。
説教の内容は、キリスト教の葬儀とは神様への礼拝である事、その事から、棺は正面に向かって、神様を礼拝する形(正面の壁に対して直角になる形)で置かれている事、今、故人の体を感謝して神様にお返ししますと言う事などだった。
説教が終わると、親族代表として養父陽一の妻が、挨拶に立った。彼女は、陽一の年から考えると明らかに不釣り合いの様に思えるほど若かった、そして髪は綺麗な茶色に染められており、黒い喪服姿には、明らかにアンマッチだった。真っ赤な口紅が印象的な彼女はコホンと軽く咳払いをして、とてもハスキーな声で手紙を読み始めた。
「夫から、お世話になった皆様への感謝の言葉です。読ませていただきます・・・」
その内容は、聖書の箇所から始まっていた、「第一テサロニケ5章16節、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい・・・本日は、ご多忙のところ、私の葬儀にご参列を頂きありがとうございます。
私は、今イエス様と共にパラダイスにいます。幸せに包まれています。思い返せば私の人生は試練の連続でした。何故、神様はこんなにも私に試練を与えてくださるのか?私は正直悩みました。でもその答えは、私が今、天国にいる!神様と共に生きている!それが答えなのです。その意味で試練も感謝なのだと今は実感しています。
最後に稚拙な本で誠にお恥ずかしいのですが、『さよならGOOD BYE』と言う私の最後の作品をどうぞ読んでやってください。本日はご参列を頂き、本当にありがとうございました。」
彼女は軽く会釈をすると自分の席に戻った。会場からはアーメンと言うクリスチャンの声があちこちから聞こえた。
アーメンとは、クリスチャンが同意をする際に言う言葉で、ここでは、陽一の今、天国にいると言う言葉に対して「その通りですね」と言う同意を表しているのだ。
そもそもはユダヤ教のラビが聖書の一句を読み、それを会衆が復唱することで、聖書教育を目的としたものだったのだが、次第に会衆は復唱を省略し、「その通り」の意味でアーメンと言う様になったらしいのだが・・・
さて、こうして、養父陽一の妻の挨拶が終わり、牧師の祝祷で告別式は終わった。
参列をしていた人々は2階の礼拝堂の出口で養父陽一の本を一冊ずつ受け取って階下に下り、そして1階の建物の出口で陽一の親族と挨拶をする流れになっていた。100人からの参列者がいた為、1階に降りる階段は、人がとどまって動けない状態だった。
その中に、陽一の秘書だった伊集院 圭子がいた。圭子の右手には、陽一の本があった。彼女も陽一がこんな本を書いている事は全く知らなかったし、そもそも本を書く趣味がある事さえも知らなかったのだ。
ようやく圭子は陽一の親族に挨拶をして教会を後にした。圭子のアパートは、その教会がある町からバスで15分くらい南に下ったところにある船堀と言う町だった。教会のある町に比べると地味な町で暮らすには静かで良い町だったが、新小岩と違って面白そうな店とかは、ほとんどなかった。
唯一、自慢できる点は、町の真ん中に展望台のついた高さ100M位のタワーがある事位だった。ここは無料で展望台まで登れるため、圭子は幾度となく、ここの展望台に登っては荒川越しに東京の都心を眺めたものだった。
その圭子のアパートは、駅から西に向かって10分位歩いたところの荒川沿いの土手の手前にあった。
築30年は経ってそうな昭和の香りのするアパートでこんなところに何故住んでいるか?と圭子の放つ品の良い印象からは想像がつかないアパートだった。
圭子は養父陽一の秘書だったのだが、秘書というのは名ばかりで、実は陽一の片腕としてかなり危ない仕事もこなしていたのだった。圭子は、身長が165cmと高く、長い髪の毛をポニーテールにし、いつもスーツにスニーカーと言う格好を好んだ、ナイキのバックパックを背負ったその姿は、精悍さと品の良さを兼ね備えていた。その反面、何か近寄りがたい雰囲気もあり、事実 圭子は男性と付き合った経験もほとんどなかった。
さて、陽一が何を生業としていたかと言うと、表向きは保険代理店いう顔を持ちながら、それは隠れ蓑で本業は警視庁から
もお声がかかる様なかなり本格的な探偵業だった。
陽一は、数十年に渡っての保険会社調査員として経験を積んだ後、定年後にその経験を生かして探偵業を始めたのだった。圭子はその探偵事務所に3年ほど前からひょんなきっかけから秘書として勤めていたのだ。
(当然、陽一が亡くなった事で事務所は、閉鎖され彼女は無職になってしまったのだが・・・)
「荒川ハイツ」と言う、そのアパートは木造モルタル2階建のアパートで外に鉄の階段がむき出しで設置されていると言う、まさに典型的な昭和のアパートという建物だった、赤錆びた鉄の階段は登る度にギシギシ音を立て今にも崩れ落ちるのでは無いかと思われるほどだった。
圭子の部屋は2階の南西の角部屋で廊下には野良猫が2匹いつも寝ていた。
彼女はその横を彼ら(オスかメスは知らなかったのだが何となくオスと決めつけていた)を起こさない様に静かに横切ろうとするのだが、必ず彼らは気配を察知し、さっと1階まで走り去ってしまうのだった。「相変わらず元気だね・・・」圭子は独り言をつぶやき201号室・・・彼女の部屋のドアを開けた。

第2章(圭子、本を読み始める)

そのアパートの部屋は、1DKで広さは、40㎡くらいだろうか、ドアを開けると玄関は50センチ四方位しかなく、すぐに台所となっていた。
圭子は台所のテーブルの上のいつもの場所にアパートの鍵を置いてコートを椅子にかけると台所の奥の6畳間の和室に置かれたベッドに横になった。ベッドは6畳間の和室には不釣合いな位大きかった。圭子は、本を枕元に置いて、しばらく天井を眺め陽一の葬儀を思い起こしていた。
 10分位、ボーとしただろうか?

圭子はおもむろに本を取り上げページをめくった。

「さよならGOOD BYE 第1章 源ケ橋温泉」

昭和25年  大阪・天王寺
大阪省線の寺田町の駅を降り国道25号線を百済方面に5分ほど歩くと源ケ橋商店街が右手に現れる、さらに5分ほど歩いて左手に曲がったところに、その源ケ橋温泉があった。ここは、銭湯として日本で初めて国の登録有形文化財に登録された銭湯で外観、内装ともに昭和のモダニズムが具現化されており、2階建てのその建物は、ダンスホールやビリヤード場もあり、社交場として賑わっていた。陽一は、父親と源ケ橋温泉に来ていた。

「お父ちゃん、昨日の火事でいつも行くあの駄菓子屋さん・・燃えてしもうたやろ、ほんでな、お姉ちゃんと本屋の正ちゃんの3人でな探検に行ったんや。」
「あほ、危ないやろ」と父親の賢治
賢治の言葉には何故か正気がなかった。
しかし、陽一は父親のそのような態度に気づくこともなくこう続けた。

「ほんでな、話聞いてえや・・・すごいもん見つけたんや!」
「なんや?」
「マッチガンや!」と陽一
賢治はマッチガンと言うのが何か皆目見当がつかなかった。
「なんやマッチガンって?」
「お父ちゃんは、マッチガンも知らんのか?」
「この位の小さな鉄砲のおもちゃで、マッチの棒を入れるんや、そしたらな、ゴムの力でびゅーんって5M位マッチ棒がな飛びよんねん、すごいやろ」
「せやな、お父ちゃんは知らんかったわ」賢治は、適当に陽一をあしらって湯船から出た。

まだ夕方の5時頃だったので80歳位のおじいさんが2、3人というガラガラの状態だった。
賢治は、駅前で電気店を営んでおり、今日は月曜で定休日だったのでこんな時間に銭湯に来れるのだった。

その時、陽一は小学校三年になったばかりで、陽一の姉、京子は小学校の六年生だった。京子は家で母親と留守番をしているはずだった。

銭湯を出て家路につく時、夕日が空を真っ赤に染めていた。その風景は、陽一の記憶に鮮明に刻まれた。なぜなら、その日は、陽一にとって忘れる事のできない日となったからだ。

賢治は、ナショナル坊やの絵の描かれた店のシャッターを開けると、真っ暗な店舗を通り抜け少し段のついた階段を上って引き戸を開けた、そこは家族の台所になっていて、その奥が6畳間の居間、その横の階段を上がると2階に子供部屋と夫婦の寝室があった。賢治は台所の電気をつけた。

台所のテーブルの上に、置き手紙があった。妻の美子からの
手紙だった。
その手紙を賢治は読んだ。その内容に愕然とし賢治は立っておられなくなり椅子に寄りかかりそのまま、椅子とともに倒れてしまった。ガッ・・・ガッタンと大きな音がした。
その音に2階で遊んでいた陽一が驚き飛びように降りてきた。
「お父ちゃん!大丈夫か?どないしたんや」
「だ・・・大丈夫や・・・ちょっと眩暈がしただけやから・・・」
「お父ちゃん!お母ちゃんもお姉ちゃんもおらんで?どうしたんやろ?」
「わからん。どっか行ってもうた・・・」賢治は、そう言うと陽一を抱きしめた。
「お父ちゃん!痛いわ・・・やめてぇな」
「ごめん・・ごめん、とにかくお父ちゃんは、心当たりに電話してみる。陽一は心配すんな・・2階におったらええ・・・」
陽一は渋々、2階に上がっていった。まだ小学三年生だった陽一には、何が起こっているのか皆目見当はつかなかった。

しかし、賢治には思い当たる節があった。それは、妻の美子があの、火事で燃えてしまった駄菓子屋のご主人、藤沢一郎と一緒のところを目撃した言う近所の噂話だった。それも一度や二度ではなく頻繁に目撃したと言う・・・

藤沢一郎と賢治は京都で同じ中学、高校に通っていた、美子も同じ高校だった。賢治は、美子の話を信じたかったが、それが嘘である事は分かっていた・・・

そして美子は自分の目の前から消え去ってしまった。娘の京子を連れて・・・手紙には、私を追わないでください。ごめんなさい・・・としか書いてなかった。
賢治は手紙を何度も読み返した。何度も・・・何度も・・・

第3章(陽一からの手紙)

圭子は、陽一の本の一章を読み終えると、「ふーっと」深くため息をついた。」母親の失踪という話から始まった陽一の本は、陽一と3年間一緒に仕事をし、陽一を自分の父親の様に思っていた圭子には、とても重い話だった。なぜなら圭子は早くに自分の父親を亡くしていたからだった。(そう聞かされていただけで真実は違ったのだが・・・)

圭子はベッドから起き上がり、本を元の枕元の棚に戻した。そして、新聞を取ってくる事を忘れていた事に気がつき、あのギシギシ音を立てる古びて赤錆びた鉄製の階段を降りた。そして階段の下に隠れるように備え付けられたポストの鍵を開け、中から新聞を取り出した。その時、新聞の間に挟まっていたのか、封筒がカサッと地面に落ちた。なんと、それは陽一からの手紙だった。圭子は何故、今葬式をあげたばかり人から手紙が来るのか不思議だったが、自分の部屋に戻り台所の椅子に腰をかけ手紙を開けた。慌てて開けたので手紙の一部が破けてしまっていた。

その手紙にはこう書かれていた。

「圭ちゃん、(陽一は彼女の事をこう呼んでいた)今、君がこの手紙を読んでいるという事は、自分はもうこの世にはいないという事だね、自分は万が一の時にはこの手紙を圭ちゃんに出して欲しいと妻に頼んでいたんだ。
実は、古くからの友人で渡来海渡という人がいるんだが・・・もし圭ちゃんが良ければ彼のところで働いてみないか?彼の事務所は、九段下にある。探偵事務所だ、自分から彼にはすでに頼んである。とても有能な探偵だから圭ちゃんもやりがいがあると思うよ。 養父陽一」
手紙には、その事務所の住所と名前が記されていた。

「東京都千代田区九段下1丁目6番地××× 渡来探偵事務所」

数日の後

圭子は、渡来探偵事務所に行ってみる事にした。あらかじめ電話で訪問する事を伝えていた彼女だったが、まだ内心には戸惑いがあった。なぜなら圭子は、極度の人見知りと言うか人とコミュニケーションをする事が大の苦手だったからだ。

都営新宿線の九段下の改札を出て地上に上がると左手に昭和館の茶色い建物が日本武道館を背にして聳え立っていた。
右手には高層ビルが立ち並んでいるのだが、左手には、窓のない昭和館だけがポツンと立っていた。「昭和館って何が展示されてるのかしら?」圭子はそんな事を思いながら靖国通りを西に向かって歩き始めた。昭和館の前には「皇太子殿下のご悲願は環境問題を根本解決して人と自然を完全に仲直りさせる事」と大きく書かれた大型トラックが止まっていた。
それは右翼の宣伝カーだった。そして戦闘服を着た数人の若者が何やらチラシを配っていた。北の丸公園の木々の緑に戦闘服の緑が重なっていた。

渡来探偵事務所は早稲田通り沿いの暁星高校の裏手の古びたビルの4階にあった。昭和の初めに建てられたそのビルは、煉瓦造りの4階建てで、入り口には『タイガービル』と大きく書かれていた。コンクリートで出来た5段ほどの階段を上がるとドアは両開きのドアですりガラスが嵌められていて、そこにもタイガービルと縦書きで書かれていた。

入り口を入ると右手に螺旋状の階段があり階段の手すりは高級そうなマホガニーが使われていた。それぞれの階には、一つの事務所が入っており、2階は会計事務所、3階は何かの貿易会社が様だった。
圭子は4階の入り口に立っていた。ここのドアもまた立派なマホガニーが使われていて重厚な感じを醸し出していた。
すりガラスの向こうに人影が見えていた。恐る恐る直径10センチくらいの丸い金属の真ん中にある黄色くなったブザーを圭子は押した。
「チリリリリ」 拍子抜けする様な音が鳴った。

「どうぞ・・」と言う声が中から聞こえ、圭子はドアを開け中に入った。

第4章(それは事件だった)

ドアを開けると、正面奥に大きなマホガニー製の机が鎮座しており、その前にこれまた大きなマホガニー製のテーブルが置いてあった。広さは20畳くらいだろうか?狭くもなく広くもなくと言う印象だった。そして、その男性は、50歳くらいだろうか少し外人っぽい容姿をしていた。
彼は、マホガニー製の大きなデスクでパイプを燻らしながら少し微笑んでから、こう言った。

「伊集院圭子さん?」

「はい、初めまして・・・伊集院圭子と言います。」

「お待ちしてました。どうぞ・・・私は渡来海渡と言います。」

圭子は、海渡と名乗る人物に大きな机の前の椅子に座る様に促されて腰をかけるのだった。

「さて、どこからお話ししたら良いかなぁ?」 パイプの火が消えてしまったのか、渡来海渡はもう一度火を付け直しながら、そう呟いた。

「あなたの事は前から、養父陽一氏・・彼から聞いて良く知っていましたよ。僕が陽ちゃん、そう彼とは幼なじみなので、いつもそう呼んでいたんだけど、陽ちゃんと会ったのは、彼がちょうど僕が小学校の二年生の時だったね。彼は、僕より確か2歳年上で四年生だったけど、僕は彼の事は『陽ちゃん』、彼は僕の事を『海渡』って呼び合ってたんだ・・・まさに兄弟って関係だったんだよ。

事実、二人は戸籍上は、兄弟で、陽ちゃんは、小学校四年の時にお父さんが亡くなって、うちの家の養子に入ったんだ・・・うちの親父は彼のお父さんの遠いけど唯一の親戚だったからね・・・お父さんは自殺だった・・・突然の自殺だったんだよ・・・」

「自・・自殺ですか・・・驚きました。ここに養父所長・・あっ私はいつもそう呼んでいたのですが・・・所長の最後の著作があってお葬式で皆に配られたものなのですが・・・所長のお母様が失踪されたと言うところから話が始まるんです。」圭子は紫色の皮のバックから陽一の本『さよならGOOD BYE』を取り出した。

「ちょっと見せてくれる?」海渡は、圭子から本を受け取るとしばらく本に目を通りした。パイプの煙が窓ガラスからの光に
浮きだっていた。5分ほど時間がたち、海渡は窓の方を向いて少しため息をついた。

「陽ちゃんは、もうこの世にはいないんだね・・・なんかまだ全然実感が湧いてこないんだが、陽ちゃんのこれまでの人生を振り返ると、本当に試練の連続だった・・・その最初の試練がお母さんの失踪だったんだ・・・

その失踪事件の前に近所の駄菓子屋が火事で焼失していて
この火事と陽ちゃんのお母さんの失踪は、密接な関係があった事があとで判明したんだ。
 そして、この火事は、警察の調べで駄菓子屋の奥さんの放火だった事が判明していたんだよ、この奥さん・・・藤沢夕子と言うんだが・・・彼女は、その後も事件を重ねたので彼女の名前は当時の人で知らない人はいなかったんだ。

「そうなんですか?」圭子は意外な事実で驚きを隠せなかった。

「ちょっと待ってね」海渡は、そういうと立ち上がって窓際の書類棚を探し始めた。その書類棚は5メートル位の幅があり高さは天井まであったので2メートルはゆうにあった。
そして棚は10段以上あって、一段毎に木の扉があって、その木の扉は手前に引き上げ、そのまま奥に押し込める様な仕組みになっていた。
海渡は、中段の棚の扉を引き上げて中から一つのボックスを取り出してきた。 そのボックスには、昭和25年1月〜6月と記載されていた。
そして、そのボックスをデスクの置き、青い縁取りのある蓋をはずしてその中に収められている数十の新聞の束から2月と書かれた束を取り出した。圭子は、そのファイル方法が養父と同じ方法であるのを見逃さなかった。
海渡はパイプの煙を燻らせながら、こう語った。

「藤沢夕子は、夫の藤沢一郎と京都で知り合って結婚したんだそうだ、夫の藤沢一郎は陽ちゃんのお父さんと、京都で同じ中学で非常に仲が良かったそうだ・・・藤沢夕子の記事・・・記事・・・あっ、これだ、これだ」そういうと海渡は、その新聞をデスクの上に広げた。古い新聞紙の独特の匂いがした。
その2枚の新聞紙には該当の記事が、赤の枠線で囲まれていた。その記事は、次の2つだった。

昭和二十五年二月三日 朝日新聞
大阪天王寺区で不審火
二月三日、未明、大阪天王寺区大道四丁目×番地の藤沢駄菓子店から失火 消防によりますと、この家に住む藤沢一郎さん(33歳)が重症で意識不明の状態です。幸いに小学校3年生の俊也君は軽症で病院に搬送されたそうです。
大阪府警と大阪市消防局が火事の原因を調査中です。
当時は、藤沢一郎さんと息子さんが、家にいた様で妻の藤沢夕子さんは、不在であった様です。
昭和二十五年四月五日 朝日新聞
二月に発生した大阪天王寺区の藤沢駄菓子店の火災に関して大阪府警は、藤沢一郎さん(33歳)の妻、藤沢夕子(30歳)を菓子店放火事件の容疑者として断定し公開捜査に踏み出しました。夫の藤沢一郎氏の証言によりますと、夕子は灯油を台所にまいた後、火をつけ逃走したとの事です。

第5章(さよならGOOD BYE 第2章)

「夕子は、警察の捜査の目をかいくぐって、第二の事件を起こす事になるんだ、その事件の事は、陽ちゃんの本にも書いてあったよ、読んでごらん」

圭子は、海渡から陽一の本を受け取り第2章を読み始めた。

さよならGOOD BYE 第2章

陽一の母親が失踪してから、店はシャッターを下ろしたままで休業状態が続いた。父親は、ずっと部屋にこもりっぱなしで食事もほとんど取っていなかった。心配をしてくれた隣の紙屋の奥さんが、食事を用意してくれたり寝たきり状態の父親の面倒も見てくれていた。当時は、まだ近所づきあいも頻繁で人情が溢れていた時代だったのだ、そんな日が何日も続き、とうとう陽一の父親は入院する事になったしまった。うつ病になってしまったのだ・・・紙屋のご主人が病院を手配してくれた、北山町にある大阪警察病院だ。
 その事件は、陽一が、北山町の大阪警察病院に父親を見舞いに行った日に起こった。

その日も紙屋のおばさんは、いつもの様に朝ごはんの用意を始めていた、陽一は、おばさんの大根を包丁で切る音をバックミュージックとして、漫画本を読んでいた。すっかり陽一は、紙屋の子供の様に紙屋のおじさん、おばさんと馴染んでる様子だった。

「陽ちゃん、お父さんな、お母さんが、いなくなって疲れてもうたんや、お医者さんもな、薬を飲んだら治るって言うてるから安心しいや、ほんでな今日、本屋の正ちゃんと陽ちゃんとおばちゃんの3人でお父さん見舞いに行こな?」

「うん、わかった。」陽一は、大きくうなづいてそう答えた。
北山町までは路面電車(当時はチンチン電車と呼ばれていた)で20分位の場所にあった。そしてバス停は丁度、紙屋さんの真ん前にあったので、陽一は紙屋さんで
本屋の正ちゃんの来るのを待っていた。その紙屋さんは、色々な箱を作るのに使うような少し厚手の紙を取り扱っていて
幅50センチ、長さが1メートル位の紙が山の様に重ねてあった。陽一はその独特な紙の匂いが好きだった。そして正ちゃんが来るまではその積み上げられた紙をベッド代わりにして
寝っころがっていた。そしてすっかり気持ちが良くなって陽一は、ぐっすりと眠り込んでしまった。
「陽ちゃん、起きて!正ちゃんが来たで・・・」おばさんの声で
陽一は目が覚めた。「よう、そんなとこで寝れるなぁ・・」正ちゃんは、呆れながらそう呟いた。
「はいはい、電車がもう来るで・・」紙屋のおばちゃんは、陽ちゃんの手を引いて正ちゃんと一緒に道路の真ん中に作られた、コンクリート製の停車場に向かった。「ほら、よう右左見て渡らんと車にはねられるからなぁ」3人が無事、停車場に着くとほどなくして緑色のチンチン電車が到着した。停車場に着くときにチンチンと言う音を出すのが、到着したという合図なのか?その音がチンチン電車の名前の由来だと思われた。
チンチン電車の真ん中が乗降口になっていて女性の車掌さんから最初に切符を買う仕組みになっていた。3人の他には朝も早かったのか、乗客は4人5人しかいなかった。
チンチン電車は、チンチンと警告の音を鳴らして出発をした。陽一は、初めて乗るチンチン電車に興奮していた。「正ちゃん窓を開けてええな」陽一は正ちゃんにお願いした。二人は窓から顔を出して春の風を思いっきり感じた。
「陽ちゃん!内緒やで、京子ちゃんから俺なぁ手紙もろた。」
「えっなに聞こえへん」
「京子ちゃんから手紙が来たんや!」
「えっ・・・」
陽一は驚いて声にならなかった。
正ちゃんから渡された、その手紙は確かに陽一の姉、京子からの手紙だった。震える手で手紙を封筒から取り出し陽一は
内容を読んだ。 その内容は、この様な内容だった。

今は、どこに住んでいるか父親や陽一に伝える事は母親から強く止められている事、でも元気で生活している事は陽一にだけは伝えて欲しい。という内容だった。 京都の太秦の住所が書いてあった。

「行ってみよか?」正ちゃんのその問いかけに陽一は小さくうなづいた。

第6章 さよならGOOD BYE 第3章 藤沢夕子

小学生2人で大阪から京都まで行くというのは、大冒険だった。
父親の見舞いをした翌日、その大冒険は決行された。
「陽ちゃん、京都には今までで行った事、あるんか?」
「ううん、環状線に乗るのも初めてや」陽一は、初めて乗る環状線に興奮していた。
「大阪駅で乗り換えや、これがな、僕が作った旅程表やねん」
そう言うと、正ちゃんは自慢げに画用紙いっぱいにクレヨンで描いた旅程表なるものを広げるのだった。
「正ちゃん、すごいやん。これ自分で作ったん?」
「せやで・・すごいやろ?」正ちゃんは、満面の笑顔で自慢するのだった。
 そうこうしているうちに、電車は大阪駅に着いた。
「降りるで陽ちゃん」
「ラジャー」陽一は、兵隊の真似をして大声で返事をするのだった。 その様子を見ていた女子高生やOL達が、そんな陽一を見て笑っていた。
二人は京都線に乗り換えた。京都線の車両は、向かい合せのシート配列になっていて2人の前の席には中年の夫婦が座っていた。奥さんは、薄いブルーに髪を染めていて、ご主人の方はハンチング帽をかぶっていた。陽一はそのハンチング帽が気になってチラチラ見ていた。その中年男性がにっこり笑ってこう陽一に話しかけた。「自分らは京都に行くんか?」陽一は、恥ずかしいのか、赤くなってもじもじしていた。正ちゃんは、そんな陽一を見て「あほ、ちゃんと答えなあかんやろ。」と陽一を肘で突いた。「仲のええこっちゃねぇ」中年の奥さんもご主人と顔を合わせて笑っていた。
 しばらくすると高槻に電車は到着した。多くの人が高槻から乗り込んで来てあっと言う間に満席状態になってしまった。
二人は、その後も中年夫婦に色々と質問を受けた。それは
学校の事であったり、なぜ京都に行くのかとか、たわいもない話ばかりだった。ただ、驚いた事にその男性は、太秦に住んでいると言う事がわかり、陽一が行こうとしている常磐という町も通るとの事で、タクシーで一緒に乗せてもらえる事になった。
「ラッキーやな」正ちゃんと陽一は顔を見合わせガッツポーズをした。そんな姿を見て中年のご夫婦は屈託なく笑うのだった。今でこそ誘拐事件が頻発し危ない時代になってしまったが、当時は、まだまだ平和な時代だった。

京都駅から常磐までは15分ほどで到着した。タクシーの中では、このご主人がキリスト教の教会の牧師をやっている事、奥さんも教会の執事をやっている事など二人は教えてもらった。
「さぁ常磐に着きましたよ、あっそうそう二人にこれはプレゼントだ」そう言って牧師先生である男性が手渡したのは、小さな本、聖書だった。
「あ・・ありがとう・・ございます。」二人は、突然のプレゼントに驚いて声にならなかった。
「じゃお姉さんに会えるといいね?」 「また会いましょうね」
二人はタクシーが見えなくなるまで手を振っていた。
そんな二人にはこれから起きる惨劇を知るよしもなかった。

「えーと 常磐西町1丁目・・ここを左やと思うわ」正ちゃんの旅程表には、京子ちゃん家 常磐西町1丁目○番地と赤いクレヨンで大きく書いてあった。 ほどなくしてその番地にある古い一軒家が見つかった。
「ここやと思う・・・けど表札も何もでてへん・・・陽ちゃん、その呼び鈴押してみてよ」 その一軒家は築何年経っているのか
分からないくらい古びた家で呼び鈴も黄色く変色していた。
陽一は、「えいやぁ」と気合を入れてその呼び鈴を押してみた。
遠くの方で「ビー」という音が聞こえた。

そしてガラスの玄関扉に人影が映った。 それは陽一の母親の姿だという事が陽一には分かった。

「よ・・ようちゃん」 玄関の扉を開け陽一の母親がそう言った次の瞬間、陽一は何者かに肩を掴まれ引き倒された。

「えっ・・」それが母親の最後の言葉だった。
陽一と本屋の正ちゃんの後をつけていた藤沢夕子がそこに立っていた。その手には刃渡り40センチはあろうかという出刃包丁が母親のお腹に半分ほど刺さっていた。鮮血が吹き出していた。

夕子は「きゃはは」と意味のない言葉を発してさらにその出刃包丁を陽一の母親のお腹に突き刺した。陽一も正ちゃんの
その場で凍りつき動く事もできず震えていた。
夕子は、「お前のせいだ・・お前が悪い…死ね・・死ね」と叫びながら息絶えた陽一の母親の胸や首に包丁をさらに突き立てた。夕子のその姿はまさにサタンの姿だった。髪は逆立ち(おそらく風呂にも入っていなかったのだろう)白いワンピースは、返り血で真っ赤に染まっていた。
誰かが警察を呼んだのか遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。そして陽一のハンチング帽のおじさんからもらった聖書も、夕子のワンピースと同じく血に染まっていた。

陽一と正ちゃんは、ただただ震えていた。

第7章 父親の自殺・・そして太秦教会

「渡来さん、驚きました・・・」大きくため息を付きながら圭子は本を閉じた。

そして海渡が口を開いた。
 
「自分も陽ちゃんからこの時の話を聞かされた事があったが、陽ちゃん自身にも夕子は包丁を振り下ろそうとしたんだそうだ、丁度その時、警官が駆けつけて夕子を取り押さえたそうなんだ。そして、夕子はこの一連の事件で死刑判決を受ける事になるんだけど、実はその大阪刑務所で一年後に首をくくって自殺したんだ。この事件は当時大きく新聞に取り上げられ世間を騒がせたんだ、実は、この自殺事件の翌日に陽ちゃんの父親の賢治さんも病院で首つり自殺をしていた事が後で判明してこの事もいろんな憶測を呼んだんだよ」

「藤沢夕子と所長のお父さんも何か関係があったという事なんですか?」
「いや、それはわからない本当の偶然なのか、はたまた複雑な人間関係がそこにあったのか、今となっては全くわからない・・・ただ、陽ちゃんと彼のお姉さんは、それぞれ父方、母方の親戚筋に引き取られ離れ離れになってほとんど会う事ができなくなったらしいんだ・・」
「たった一人の肉親なのに・・かわいそう」圭子自身も幼い時父親を亡くしていたのでとても他人事の様には思えなかった。
海渡は、遠くを見つめ昔を思い出す様にこう続けた。
「陽ちゃんは、うちに来てしばらくは精神的なショックから話す事が出来なくなっていたんだ。そのせいで学校でもいじめられてね・・・そんな陽ちゃんを救ったのは、あの太秦の教会の先生だったんだ。」
「そういえば、本の中でも渡来家に引き取られて一年位経ってからあの時のハンチング帽の牧師と再び出会って太秦の教会に通う様になったって書いてありました。」
「そう、とても不思議な縁なんだけど、その牧師、三浦牧師と私の父親は大学の時の友人だったんだよ」
「それから陽ちゃんと私は太秦の教会に毎週通う事になるんだ、そのところは、本に何て書いてあった?」
圭子は、本をパラパラとめくってその箇所を探した。
「あっありました。第5章に太秦教会の事が書いてありました。こんな内容です。」

さよならGOOD BYE第5章 太秦教会

「海渡、驚いたよ・・・前に話していたハンチング帽の牧師さんと昨日、御池の交差点でばったり遭ったんだ。そしたら、日曜学校というのがあって色んな催し物をしているので是非、遊びに来てくださいね!だって・・・今度の日曜に行ってみようよ」陽一は本当に嬉しそうにそう言うのだった。陽一は、海渡の家に来てから一日も欠かさずハンチング帽の牧師からもらったあの聖書を読んでいた。そう陽一の母親の血に染まったあの聖書を・・海渡の母親がそれを見かねて新しい聖書を買ってあげたのだが、陽一は、あの聖書を手放さなかった。

陽一の問いかけに海渡は、「そうだね、なんでも経験だからね・・・」と、いつもの大人びた言い方をするのだった。

そして次の日曜日、水曜からの連日の雨が嘘の様に太陽がまぶしい快晴の朝だった。

太秦までは、海渡らが住む御池から電車を乗り継いで30分位だった。太秦の駅のすぐ前にその教会はあった。
太秦キリスト教会と書かれた十字架を象った看板が目印だった。教会の門は、いかにも京都らしく古民家風の引き戸になっていて陽一がその引き戸を開けると「ガラガラ」と大きな音がした。玄関はかなり広く一つの部屋の様な造りになっていた。
そして玄関の右側の壁一面は靴箱になっていてすでに多くの靴が入っていた。

陽一と海渡は自分たちの運動靴を靴箱の一番下に入れ、靴箱の前に置いてあったダンボール箱(ここにはたくさんのスリッパが詰め込んであった)から子供用のスリッパを探して履き替えた。玄関を上がるとまた引き戸があって引き戸の上半分は、すりガラスがはめ込んであってそれぞれの右と左に十字架の模様が透明に抜かれていた。そこから中の様子が伺える様になっていた。引き戸を海渡が開けると、すぐ右手にテーブルが置いてあって聖書が山積みにされていた。その聖書には今日の聖句箇所にしおりがあらかじめ挟み込まれていた。

「こんにちは・・」声をかけてきたのは、あのハンチング帽の牧師の奥さんだった。
「前の方から座ってね、もう礼拝が始まるから、聖書はこれを使ってわからない事があればなんでも聞いてね、おばさんが隣で座ってるからね」ハンチグ帽の牧師の奥さんは、そう言うと二人を一番前の席に案内してくれた。しばらくするとオルガン奏者と思われるお姉さんが登場してオルガンの音が礼拝堂を包んだ。決して広い礼拝堂ではなかったが、なんとも言えない落ち着いた雰囲気で陽一は本当に来てよかったと思った。

オルガンの演奏も終わり、あのハンチング帽の牧師が登場した。もちろんハンチグ帽は被ってはいなかったのだが・・・

「皆さんおはようございます。今日もこうして皆さんと共に礼拝できる事を心から感謝します。さて今日はみなさんと共にヨブ記を学んでいきたいと思います。」
「皆さんは、レ・ミゼラブルを読んだ事がありますか? 読んだ事がある人、ちょっと手をあげてもらえますか?・・・ああ結構読んでいる人がいるんですね・・・さすがです。レ・ミゼラブル 日本の題は、ああ無情ですが・・そのレ・ミゼラブルを著わしたフランスの文豪、ヴィクトル・ユーゴーはこう言っています。『ヨブ記は恐らく人類の心の所産の最大傑作である』と言いました。それでは、ヨブの受けた言語に絶する苦しみは、私たちに何を教えているのでしょうか?」

「神はヨブに5つの苦難がくる事を許されました。誰に許したのか?それはサタンにです。なぜならサタンは、ヨブが神に忠実なのは、神から大いなる祝福を受けているからだ、もしそれらが無くなればヨブは神に疑いを持ち神から間違いなく離れるだろうと言ったからです。最初の苦難は、息子の行状を心配する心の苦しみです。次が財産が失われる苦しみです。苦難は続きます。愛する7人の息子と3人の娘が失われました。この苦しみは想像を絶する苦しみです。しかしこの時もヨブは『主の御名はほむべきかな』と神を賛美しています。さらに苦難は続きます、ヨブは重い皮膚病にかかってしまいます。痒くて痒くてたまりません、夜も眠れません。それでもヨブは神から災いも受けなければいけないと言って神の摂理に従います。言語に絶する苦しみを受けながら、同情もされず友から激しい非難を浴び、人間の尊厳を損なわれた苦しみです。私たちは、ヨブのような大きな苦しみを受けていないかもしれません。しかし人の一生は、ある意味において喪失の連続であるという事ができるのではないでしょうか?ヨブは神を疑いませんでした。ヨブが神の全治全能を心から認め、新しい神経験をし彼に忠告を与えた3人の友人の為に祈りを捧げた時に神はヨブを元どおりにし、さらにヨブの所有物をすべて2倍息子7人と娘3人を与えられました。こうしてヨブは神から溢れんばかりの祝福を受けたのです。」
「あなたが苦しみにあっても落胆しない秘訣があります。それは永遠に神を疑わないことです。ただ、あなたが神を疑わなければ、神に全てを委ねていれば、すべてを失っても実際には何も失っていないのです。神はあなたが失ったもの全てを倍にして返そうとしておられるのです。ここで疑問を持った方がいるかもしれません。そう、ヨブの子供達は死んでしまったじゃないか?安心してください。そうヨブの子供達は天国で生きているのです。天国の子供達と新たに与えられた子供達を足すとちょうど2倍になっているのです。」
「いきなり難しい話でわからなかったでしょう?」ハンチング帽の奥さんが小さな声でささやいた。
「天国って本当にあるんですか?」陽一は、おばさんに問いかけた。
「あるんよ」とおばさん・・
「見たことあるんですか?」
「見た事はないけど。聖書にはちゃんとその事が書いてあるんよ、そやからおばさんは、それを信じてるの・・・」
「それが信仰って事?」
陽一のその言葉におばさんは感心してこう言った。
「そう、その通り・・それが信仰」
陽一と海渡はそれから毎週教会に通うようになった。

第8章 それから

圭子が海渡の事務所に来てから何時間たったのだろうか?
あんなに青かった空が今は、夕日に変わり街をオレンジ色に染めようとしていた。

そして圭子は、陽一が以前、良く話してくれた教会での生活の話を思い出し、こう海渡に聞いてみた。

「養父所長は、確か中学生になった頃から、太秦の教会で住み込みの奉仕をする様になったんですよね?」

海渡は、大きくうなずきパイプをくゆらし、こう答えた。

「そう、陽ちゃんは、中学1年の秋に、うちの家を出て太秦の教会の三浦先生の家に住む様になったんだ。
 それは陽ちゃんが精神的に依然として鬱的な状態であった事が大きな原因で、牧会カウンセリングで有名だった三浦先生がうちの親を説得して実現した話だったんだ。

三浦先生にはお子さんがいなかったからきっと陽ちゃんが本当の子供の様に思えたんだと思う。
 
 それから陽ちゃんは、さらに神様を真剣に求める様になって行ったんだ、それはどうしても神様が・・・本当の神様がいるという事が信じられなかった陽ちゃんの心の裏返しの行動だったんだと僕は思っているんだけどね、なぜなら陽ちゃんは僕に『神様を信じる事は難しい・・・』って良く言ってからなんだけど・・ その理由を聞いたら陽ちゃんは『神様はお母ちゃんとお父ちゃんとお姉ちゃん全部奪い取った・・・本当の神様がいて神様が全てを決めてるんなら、・・・なんでそんな事をするのか』 と•・・涙ながらに訴えてたからね。」

「そうなんですか・・・私が知る養父所長は聖書を片時も手放さず、私にこう言っていました。 ここに本当の神様がいるんだ」って・・・
「陽ちゃんも長い時間をかけて、やっと平安を見つけたんですね・・・」
「はい、そう思います。」

それから圭子は海渡探偵事務所で働く事になる。

新しい人生の始まりだった。

第9章 紀子

圭子の渡来探偵事務所での初仕事はすぐに来た。

それは、圭子の出社二日目の事だった。

「圭子ちゃん、陽ちゃんの奥さんから手紙が来たんだよ」
海渡は、白い封筒をマホガニーの巨大なテーブルの上に置いた。
依頼主との相談に使うそのテーブルは、渡来探偵事務所の真ん中に置かれており20畳くらいの事務所のほとんどのスペースを取るのではないかと思うくらいに大きなテーブルだった。テーブルの奥には海渡のこれまた大きなデスクがあり、その隣に申し訳程度の圭子の小さなデスクがあった。

「見ていいですか?」圭子は海渡の了解得て手紙に目を通した。その内容はこの様なものだった。

「拝啓、渡来海渡様 私、養父陽一の妻の養父紀子と申します。渡来様の事は主人からいつも聞かされていました。これは主人からの達ての依頼なので・・・正直、私は気が進まないのですが・・・お願いする次第です。
 それは、主人の最初の奥様である真砂子さんの事故を調査して欲しいという依頼なのです。何故私が気が進まないのかと申しますと陽一も長年この事件・・・いえ、交通事故なのですが・・・を調査し続けていて最後まで犯人・・・陽一は、この交通事故を殺人事件だと思い込んでいたのですが・・・その犯人を見つけ出せなかった事が心残りだったそうなんです。
 もう随分昔の話ですし主人が長年調査して分からなかった事件を今更、どうにもこうにもなるものとは、とても思われません。最初の奥さんを忘れられなかったという主人に対してヤキモチを焼いている訳ではないのですが、これが最後の主人の願望というのが理解できないのです。私の気持ちはさておき、非常に困難なお願いだとは思うのですが是非よろしくお願いいたします。言い忘れました、主人はこの事件・・いえ交通事故なのですが・・を圭子さんに依頼したいとの事でした。どうぞよろしくお願い致します。詳しいことはお会いしてお話させて頂きます。 敬具」

陽一の家は千葉県の市川の国府台にあった。この地域は国分寺、国分尼寺やいくつもの古墳が残っており千葉県のお屋敷町として有名で、古くは、作家の永井荷風や北原白秋など、この街に住む文化人が多いことでも有名だった。

圭子は京成本線の国府台で降り松戸街道を南に10分ほど下った。あらかじめ調べて手帳に書いた地図によると、もうそろそろ春日神社が見えてくるはずだった。

「あった、そうこの春日神社の向かいの家が養父所長の家のはず・・・」そうつぶやきながら圭子は表札を確認するのだった。

「養父陽一」確かに陽一の家だった。

チャイムを鳴らすと、しばらくしてドアが開き、ショートカットの端正な顔立ちの女性が現れた。養父紀子だった。

「伊集院さんですね・・・どうぞお入りください。」無表情に紀子はそう言うと圭子を招き入れた。

リビングルールにて

昼間というのにカーテンが閉められ薄暗いリビングルームのソファに紀子と圭子は向かい合った。
「はじめまして伊集院圭子と申します。」 圭子は、すこしバツが悪そうに挨拶をした、それは、最初の挨拶のタイミングを紀子のそっけない態度から逃してしまったからだった。
「さっそくだけど、要件だけ言いますね」紀子は、手紙にも書いてあった様にこの依頼も気が進まない依頼で、さっさと片付けたいという気持ちがありありと出ていた。
「真砂子さんの事故は、主人が大阪の住吉という町に住んでいた時に起こった事故で住吉警察署が管轄だったらしいの、そして住吉警察署は、これを交通事故として処理をしたんだけど、主人はあまりにもおかしな点が多いという事で個人的に調査をしていたの・・・と言っても主人は、真砂子さんを亡くしたショックで子供の頃のうつ病が再発し事故から1年間は入院生活をしていて口も聞けないくらいにひどい状態だったので、個人的な調査は事故から2年ほど経った後の事だったそうなの・・・住吉警察署の吉田と言う刑事さんに色々と話をしていたと言う事は聞いているんだけど、なにぶん30年くらいも前の話だし、今は吉田と言う刑事さんもいないでしょうから・・・」

「ありがとうございます。それでは大阪に行ってまずは、住吉警察署で当時の事情を確認したいと思います。」圭子は正直事件を解決する自信はなかった。ベテランの所長が追い続けて真相を突き止められなかった事件を自分が解決できるとは思えなかった。

「圭子さん、大事なものを忘れてたわ、主人の手帳・・・中を見てないので何が書いてあるかのか、また役に立つのか分からないけどあなたに差し上げるわ、私にはもう不要なものだから・・・」

それは黒い革の手帳で色々な紙が挟まってパンパンに膨れていた。ずっしりと重いその黒革の手帳は今後の調査の心強い味方になるものだった。

第10章 圭子 大阪へ向かう

その日はあいにく朝から雨が降っており新幹線の窓に雨粒がいくつも線を描いては後方に飛んで行った。圭子はその雨粒の線を指でなぞっていた。新幹線の窓に映った圭子の手のひらには大きな切り傷の跡があった。

その傷は、16年ほど前のある事件で負った傷だった。

ちょうど16年前、圭子は、京都の宇治市の中学に通う学生だった。京都の南に位置する宇治市は源氏物語の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が多くあった場所だった。圭子の中学校、宇治北中学もそんな高級住宅地が立ち並ぶ中心地にあった。平等院も目と鼻の先だつた。

「圭子ちゃん、お母さんが交通事故にあったんやて!」
お昼休み、担任の古谷先生が慌てて教室に駆け込んで来て友達と談笑している圭子に向かって叫んだ。「宇治川病院や、早よ行きなさい。」

圭子は、頭の中が真っ白になっていてどうしたらいいのか分からなかったが、とにかくカバンを抱えて学校を飛び出した。
宇治川病院は、近鉄線の小倉駅の北口にあって圭子の学校からはバスで20分ほどかかるところにあった。

バス停に向かう途中で、圭子は白いバンに乗った中年の男性に声をかけられる。

「伊集院さんちの圭子ちゃんやろ? 自分はお母さんから言われて迎えに来たんや、お母さんは無事やで安心して、さぁ乗って!」「おっちゃんはお母さんの知り合いの吉田って言う者や」

今考えれば、何故疑いもなく車に乗ってしまったのか、理解できないのだが、その時は完全に男の言う事を信じ切っていたのだ。圭子が異変に気づくのにそう時間はかからなかった。
「おっちゃん、この道は病院に行く道ちゃうやん」圭子は宇治川病院の場所をちゃんと分かっていたので車が小倉駅の方向ではなく、北の方向に進んでいる事でこれはおかしいと直感したのだった。」

「お母さんからな、頼まれもんしてるんや、それを買ってから病院にいくから、少し遠回りやけどすぐやから・・・」圭子は明らかにこの男が動揺しているのが分かった。任天堂の工場の側の道で車が赤信号で止まったタイミングを見て圭子は、車のドアを開けて逃げ出した。
「圭子ちゃん!どないしたんや!」男は大声を出して車から降りて来た。圭子は懸命に来た道を走った。ひたすら走った。
人影はまったくなかった。
「た・・・助けて」自分では大きな声を出さなければいけないと思っていても声にならなかった。遠くに人影が見えた。とにかく助けを求めなくては、圭子は必死だった。しかし次の瞬間、
強い力で男に腕を掴まれてしまった。
「やめて!」初めて大きな声が出た。遠くに見えた人が、異変に気がついた様でこちらに向かってくるのが見えた。
「くそっ」吉田と名乗ったその男は、飛び出しナイフを圭子の顔面めがけて振りかざした。鮮血が飛び散った。
「きゃー」圭子の大きな声に驚いたのか、男は一目散に車に戻り、タイヤの音を派手に鳴らし北の方向に逃げ去った。

忌まわしい思い出・・・
圭子は、忘れられない過去に縛られていた。

そして・・・外は、相変わらす激しい雨が降っていた。圭子は、走り去る白いバンが小さく消えて行く場面を新幹線の窓に見た。

第11章 交通事故の真相

住吉警察署は、大阪の上町台地の南部、大阪市の最南部に位置し、古代では「すみのえ」と読み万葉集にも登場する歴史のある町で現在の住吉、住之江、墨江は別の地名になってはいるが、元々は住吉の読みの異表記なのだ、また住吉警察署は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や落語「住吉駕籠」にも登場する料亭「三文字屋」の跡地に建っていた。

住吉警察署にて・・・

「伊集院さん、なんせ28年も前の事故やからねぇ・・もう記録は何も残ってないんですよ・・」田坂と言うその刑事は、タバコの煙を吐き出しながら困ったもんだという感じを思いっきりあらわしてそう言うのだった。

「まぁ・・渡来さんの事務所の方だから、自分も一生懸命調べましたよ・・・渡来さんにはお世話になっていますからね・・それで分かった事が一つあるんです。」田坂刑事はタバコをアルミの灰皿で消しながら、こう話を続けた。

「うちの署のOBに吉田と言う刑事がいましてね、その刑事が当時、依頼人のご主人・・・養父陽一さんでしたっけ・・その彼と何度か面談をしていたそうなんですよ・・これが吉田元刑事の電話番号と住所です。」圭子は手帳の電話番号と住所が書かれた手帳の切れ端を田坂刑事から手渡された。

その切れ端には、大阪市平野区平野東2の2の× 06-1245-97×× と殴り書きされていた。

とにかく圭子は行って見る事にした。

住吉警察署から圭子はタクシーを拾った。吉田刑事の家までは、15分もかからなかった、吉田刑事の家は、大きな公園のすぐそばにあった。

吉田刑事の家の居間にて・・・

「お待たさせしました・・」そう言って吉田刑事いや元刑事が現れた。年の頃は、60代の半ばだろうか、圭子が想像していたよりも大分若々しい感じだった。

「お休みのところ突然お邪魔して申し訳ないです。」

「いやいや、自分はね、家内にも先立たれてやる事がないんですよ・・いつも昔の事件のファイルを読み返してはああでもないこうでもないと思いを走らせているんですよ・・・まぁ暇な老人の趣味みたいなもんですな」

「老人だなんて、お若くてびっくりしてるんですよ。まだまだ現役で刑事ができたんじゃないんですか?」

「ははは・・なかなかおべんちゃらがうまいお嬢さんだ」吉田元刑事は、久しぶりに笑ったと言う感じで上機嫌だった。

「ところで本題なのですが、養父陽一の奥さんの交通事故の件なのですが、養父陽一、私の昔の上司なのですが、彼は、なぜ、これを殺人事件だと思ったんでしょうか?」

「伊集院さん でしたっけ•・・?自分もね、あの交通事故は殺人だと思っとるんですよ。ここだけの話・・・」

「えっ・・・どういう事ですか?」

「一言で言うと、ありえないと言う事やね・・・真砂子さん・・養父陽一氏の奥さんやけど・・・怪我をしとらんのですよ・・致命傷は頭部の損傷ですが、体には傷ひとつなかったんですよ。」

「えっ・・なのにどうして交通事故で処理されたんですか?」
圭子は吉田と言うその元刑事の思いがけない言葉に戸惑いを隠せなかった。

「目撃者がいたんですよ・・・仮にその人をTさんとしましょうか・・・そのTさんが証言したんですよ、真砂子さんをはねたのは泉ナンバーの白いカローラのバンだったと・・・当時の交通課の担当者は、何故かその証言を鵜呑みにして処理してしまったんやね・・・完全な怠慢ですよ・・陽一氏が自分のところに来たんは、事故から1年以上立ってからの事やったけど病み上がりと言う風態で正直、この人は大丈夫なんかと思うた事を覚えてます・・・実際のところ奥さんが亡くなってからの1年間は、うつ病が再発してずっと入院していたらしいんやけど・・・それでも陽一氏の洞察力は大したもんやったね・・交通課の判断がおかしいと言う事も独自の調査で見抜いとった」

「そうなんですか?そうすると、そのTと言う人の証言はなんだったんですかね?」

「そこや、問題は・・・陽一氏には言えんかったけど、そのTと言う人物は、あの藤沢夕子の息子やったんや・・自分は、そのT、藤沢俊也が犯人だったんじゃないかと今は思うてる。」

「その藤沢俊也は今はどうしてるんですか?」

「自分も気になって調べた事があるんやが、もう15年以上前に亡くなっとるようや・・・真相は闇の中と言う訳やな・・」

「そうなんですか・・・養父所長も真相には、たどり着けなかった訳ですね・・・」
「それとね、これもまた驚きなんやけど真砂子さんは妊娠をしていたんやけど、赤ちゃんは無事で帝王切開で元気に生まれてるんや・・」
「本当ですか? その事は養父所長は知っていたんですか?」

「あぁ知っていたはずや・・・ただこれは後で聞いた話やけど、どうもその赤ちゃんは、養父陽一氏の親戚か何かに預けられたそうや・・・養父陽一氏の精神状態で赤ちゃんを育てるのは、荷が重かったんと違うかな・・・」

「そうなんですか? その預けられたと言う親戚の方の連絡先などの手がかりはあるのでしょうか?」

「いやいや、自分も誰かから聞いた噂話のような話なので、申し訳ないが分からんな・・・」

「そうですか?わかりました。」 圭子は吉田元刑事に丁寧にお礼をして大阪での調査を一旦は終了する事にした。

交通事故の真相は、意外に簡単に判明した。
養父所長は、圭子に何を知らせたかったのだろうか?
帰りの新幹線で圭子はその事ばかりが気になった。

夜になってすっかり雨も上がり、黒い雲の合間に大きな月が顔を出していた。

静かな夜だった。

第12章 ふたたびの悪夢

圭子 アパートにて・・

圭子は、大阪での調査報告書をまとめていた。気がつくと午前0時をまわっていた。圭子は、ベッドに横になった。寝る間に少し陽一の本を読むことにした。第6章からだった。
                                                   
さよならGOOD BYE  第6章 ふたたびの悪夢

話は、1955年 陽一が15歳の時に遡る。陽一は、三浦牧師に引き取られて、すでに3年を迎えていた。事件は太秦の教会で起こった。

11月27日、その日は待降節の始まりの日だった。教会では、クリスマス(降誕祭)の4つ前の日曜日からクリスマスを準備する期間に入り、この期間を待降節(アドベント)と言うのだ。
アドベントとはキリストの到来を意味し、キリスト(救世主)がこの地に来てくださった事(初臨)、そして再びこの地に来てくださる事(再臨)を表現する語として用いられる。教会の1年は待降節から始まる。そんな日の出来事だった。

三浦牧師の宣教が始まった。

「今日は、いよいよ待降節の始まりの日です。皆さんもよくご存知だと思いますが、クリスマスの前の4週間をアドベント(待降節)と呼んで、救い主イエスキリストの降誕を待ち望むのです。それではルカによる福音書からクリスマスの出来事を学んでいくことにしましょう。イエス様が生まれる前、その先駆けとなる事件がありました。それは、祭司ザカリヤの子、バプテスマのヨハネの誕生です。ザカリヤとエリザベツは子宝に恵まれませんでした。しかし神様はこの高齢な夫婦に奇跡的に子供を授けてくださいました。
これは、次に起こるマリヤの処女降誕の布石であったことは明らかです。処女のマリヤに子供ができると言うこの事から、とても聖書は信じられないと言う人がいますが、実は現代の科学では、男性の皮膚細胞から卵子を作成して受精させる事は可能なのです。ましてや神様にできない事は何もないのです。」

その時・・・再びの悪夢が起こった。

「うぉー」と言う叫び声と共に男が飛び出して来たのだ!

その男は最後列に座っていた。三浦牧師も見慣れないその男の挙動には注意をしていた。なぜならこの寒さの中で異様なほど汗をかいていて明らかに挙動不審であったからだった。教会は、来る者を拒まずと言う場所であるから常にリスクを伴っているのだ。

その男は、最後列から飛び出して来て、最前列に座っていた陽一を羽交い締めにすると、「この悪魔の子供!」(確かにそう聞こえたのだが・・・)そう叫ぶと、ジャックナイフを陽一の首筋に強く押し当てたのだ。

「待ちなさい!」三浦牧師は勇敢にも、その男の前に立ちはだかり、聖書を男に向けながら男との距離を縮めていったのだ。何故に三浦牧師が、その様な行動を取ったのか謎ではあるのだが、男の頬に聖書を押し付けるところまで無防備にも近寄っていったのだった。その男は、その行動に驚いたのか、
陽一を突き飛ばし、今度は三浦牧師に向かってナイフを振り下ろしたのだ。

鮮血が飛び散った。三浦牧師は頬を切られ真後ろに倒れた。
講壇が倒れ大きな音がした。 次の瞬間、男は三浦牧師に馬乗りになり何度も何度も三浦牧師の胸にナイフを突きさしたのだった。
「警察だ!」大きな声と共に数人の警官が、あっと言う間に男を取り囲んだ。男は、ナイフを振り回し警官を威嚇した。
ナイフからは鮮血が飛び散った。

「うぉー」と言う叫び声と共に警官の隙を見計らい、その男は
礼拝堂を飛び出した。そして太秦教会の前の通りを東映の撮影所の方向へものすごいスピードで走り出した。

警官たちは、ここで取り逃がしては、自分たちのメンツも丸つぶれになるから、それは必死で、男を追いかけるのだった。
「こら!待て!」 大きな声を出して追いかける警官、そして
何か運動をしていたのではないかと思われるほどの俊敏性を見せて逃げる犯人、太秦の長閑な風景に不釣り合いな捕物帳が繰り広げられていた。

その男の目前には、京福電鉄の踏切の遮断機が、独特な音を立てて締まるところだった。男は躊躇するそぶりも見せず、京福電車の線路に遮断機を肩肘で止め飛び込んだ・・・

次の瞬間、警官らが見たのは、嵐山行きの京福電車のアイボリーとグリーンのツートーンカラーの車体に吹き飛ばされる男の姿だった。踏切待ちをしていた数人の女性の「きゃー」と言う声がこだました。

その瞬間、そのあたりの空気が凍りつき、時間が止まった様に感じられた。恐る恐る踏切に近寄る人々、その後ろで救急車のサイレンが次第に大きくなってきた。

ふたたびの悪夢、白昼の悪夢・・・

第13章 黒革の手帳

圭子は、陽一の本を閉じベッドの頭の部分にある棚に置き
窓際のデスクに座った。デスクに備え付けられた蛍光灯をつけ、デスクの下の3段キャビネットの一番上の引き出しの鍵を開けた。黒革の手帳は、紀子から譲り受けてから厳重に鍵付きの引き出しの中で保管されていたのだった。

資料などが挟み込まれパンパンに膨れ上がった黒革の手帳、年季を帯びた、その黒革は細かい傷がいくつも付いていて、もうコードバンの独特のツヤは失われていた。そして間に挟まった資料が落ちない様に黒いゴムバンドが二重に巻かれていた。

圭子は手帳の間に挟まった資料を落とさない様に丁寧にページをめくった。最初のページには、妻、真砂子の真犯人を
突き止める決意の様な言葉が並んでいた。その中の圭子の目を引きつけたのは、放火事件から一連の連続した事件の
備忘録の様な表だった。

(連続事件の記録)

1950年 放火事件 犯人 藤沢夕子
1952年 美子殺人事件 犯人 藤沢夕子
1955年 三浦牧師殺人事件 犯人 藤沢一郎
1968年 真砂子殺人事件 犯人 藤沢俊也?

と書かれていた。

圭子は頭を抱えた・・・何故に藤沢家の人間は、養父の家の人間をこうも目の仇にするのか?そこにどんな思いが秘められていたのか?この謎は、やがて明らかになるのだが、そこには深い闇があった。

そしてページをめくる

そこに挟まれていた写真をみて圭子は息が止まりそうになった。そこには、中年の男性の隣に奥さんと思われる人物、そしてその女性の手を握っている10歳位の少年・・・一目見て圭子はそれが、佐久間龍也であると分かった。そう圭子の初恋の男性だった。写真の裏には、こう書かれていた。藤沢俊也、
妻、和子 息子 龍也。

佐久間龍也が藤沢龍也 何故 何故 何故・・・

圭子の大切な思い出・・初恋の男性・・が養父所長の奥さんを殺害した?犯人の息子だったとは・・・

圭子と龍也の出会いは、圭子が京都の宇治高校の2年生の時だった。

圭子は高校時代に思いを寄せた。

「みんな、静かにしてください。
転校生を紹介します。」
それが、龍也との初めての出会いだった。
「佐久間龍也君です。大阪の高校から転校して来ました。」井上先生が、龍也に挨拶をする様に
促した。「じゃ挨拶してくれるかな?」
「あっはい、大阪の東住吉高校から転勤してきました、佐久間龍也と言います。どうぞ宜しく。」
「じゃ佐久間君は、伊集院さんの隣に座ってくれるかな。」
「はい」
龍也は、圭子のとなりの席についた。圭子は窓際から数えて2列目の一番後ろの席に座っていた。龍也は、窓際の最後列だった。
圭子は、龍也が席に着く際ににこっと笑ったように見えた。窓からさす光の中で白い歯が眩しかった。 その時、圭子の胸の奥で何かが芽生え始めた。そして体の芯がじんわり熱くなるのを圭子は感じた。その後の授業も圭子は上の空だった。
その日、声をかけて来たのは龍也の方だった。
「伊集院さんは、何かクラブ活動してんの?」
「私?・・・私は文芸部に入ってる・・」
「文芸部って何すんの?」
「えっーと小説を書いたり、読んだり・・・私は主に詩を書いてる・・・」
「へぇーすごいね!今度、俺にも読ませてよ・・」
「あかん、あかん、人に読ませる様なもんとちゃうから・・」
圭子は恥ずかしくて顔が赤くなった事が自分でも分かった。
「よっしゃ、決めた俺も文芸部に入るわ・・・」
「えっ・・・まじで?」
突然の龍也の宣言に只々、驚く圭子だった。

第14章 文芸部にて

その日は、龍也にとって、初めて文芸部の集まりに参加する日だった。圭子と知り合ってすでに数週間経っていた・・・

「はーい、それでは今日の課題を発表します。」文芸部は水曜の放課後に図書館に隣接した資料室で行われていて 毎週、課題が発表され文芸部員でその課題について話し合う時間が持たれていた。課題を発表するのは、文芸部の顧問の吉田先生だった。

「今日の課題は、八木重吉のこの詩です。」吉田先生は、文芸部員に八木重吉の詩が書かれたプリントを配った。文芸部員は、圭子と龍也を入れて6人で、そのほとんどが女性で男性は龍也の他に後一人いるだけだった。

6人は、吉田先生を囲んで円を描く様に椅子を並べて座っていた・・・プリントには、何編かの詩がプリントされていた。最初の詩は「貫く光」と言う題名で、こんな詩だった。

「貫く光」

はじめに ひかりがありました

ひかりは哀しかったのです

ひかりはありとあらゆるものを
つらぬいてながれました
あらゆるものに息をあたえました
にんげんのこころも
ひかりのなかにうまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福れながら
次に書かれていた詩は「怒れる相」と言う詩だった。
「怒れる相」
空が怒ってゐる
水が怒ってゐる
みよ!微笑がいかってゐるではないか
寂寥、憂愁、哄笑、愛慾
ひとつとして 怒ってをらぬものがあるか
ああ 風景よ いかれる すがたよ
なにを そんなに待ちくたびれてゐるのか
大地から生まれいづる者を待つのか
雲に乗ってくる人をぎょう望して止まないのか

「それでは、まずプリントの詩を読んでください。その後に感想を分かち合う時間を持ちたいと思います。先生は、少し席を外しますので黙読していてくださいね・・・」吉田先生は、そう言って教室を出て行った。

先生が教室を出て行くと龍也が話しかけてきた。「さっぱり理解でけへんわ・・・特に二番目の詩?何を意味してるんやろ?伊集院さんは、分かる?これ?」
「ううん、分からへんけど、詩ってそんなもんと違うのかな?」
「微笑みが怒るか?訳わからんわ・・・」龍也は頭を抱えた。
そんな姿を見て圭子は、龍也は意外に素直なところがあるんだと心の中で笑っていた。
しばらくすると吉田先生が教室に戻ってきた。
「はーい、それではみんなの感想を聞かしてくれるかな?まずは、飯田さんから右回りで一人ずつお願いします。」
「おい、おい、俺二番目やんか?」龍也は圭子に助けを求める様な目で訴えた。圭子はそれに対して小さく「ガンバ!」と言って両手の拳を胸の前に小さく突き出した。
飯田さんは、最年長で自らも詩集を自費出版する様な生粋の文芸女子だった。飯田さんは、少し考える様な仕草をした後、すくっと立ち上がり、こう語った。
「そうですね、私は『貫く光』に心を打たれました。光が何を貫くのか?それは全てを貫くと書かれています。光は私たちの心も貫き、そして私たちを憐れみ祝福を与えてくれています。私たちは光によって生かされている訳です。」
飯田さんは、長い髪の毛を右手でさっと搔き上げると席に着いた。それは、自信に満ちた態度だった。
吉田先生が質問した。
「なるほど・・・飯田さんにとって光とは何ですか?」
「光、それは生命の源、太陽なのかと思います。」
 飯田さんは、きっぱりと言い切るのだった。
「はい、ありがとう。それでは、次、佐久間君お願いします。」
「はぁ、どっちの詩でも良いですか?」
「いいですよ」と先生
龍也は、困ったなと言う顔をしながらもこう発言した。
「俺は『怒れる相』の方が印象に残りました。その理由は、空が怒ってゐる、水が怒ってゐる と続いた後に、いきなり、みよ!微笑がいかってゐるではないかと続くところが、何故か潔く、また心地良い響だからです。正直、意味は全く不明ですが、一言で言うと『かっけー』って感じですかね・・・以上です。」
圭子は、龍也の感想に呆れながらも何とか場をしのいだところに感動をしていた。
そして圭子の番だった。
「では、伊集院さん お願いします。」
「はい、じゃ私は『貫く光』の方の感想を述べたいと思います。この詩は、『はじめにひかりがありました。』と言う言葉から始まるのですが、この言葉を聞いて思い出すのは、聖書の『ヨハネによる福音書』の最初の言葉です。『はじめに言葉があった。言葉が神とともにあった。言葉は神であった。』と言う聖句です。また創世記には、『神は光あれと言われた。すると光があった』と書かれています。この言葉も光もイエス・キリストを指しています。すなわちこの詩は、イエス・キリストがすべてのものに命を与えようとしている事を言い表している詩なのかと思いました。」
「伊集院さん、ありがとう。その通りですね。八木重吉は、30歳でこの世を去るまで、その短い生涯をキリスト信仰に捧げ切った人なんです。八木重吉は生涯、信仰と詩の融合を目指し続けた人だとも言えるのです。」
「先生、怒れる相の詩は、どう言う風に理解するんですか?」龍也だった。
「そうですね、確かにこの詩は八木重吉の信仰がどうであったかを知らないとなかなか理解するのは難しいかもしれないですね。八木重吉は、キリスト教の洗礼を受けるのですが、教会のあり方に疑問を感じ、内村鑑三と言う人の無教会派に傾倒して行ったそうです。この怒れる相は、重吉のそのような信仰感が表現されていると言われています。すなわち怒れる世界の救いは教会の説く教えよりも、すべてがイエス・キリストの再臨によっていると言う信仰感が表現されているんです。」
吉田先生の力説について行けたのは圭子、ただ一人だった。
龍也を始め、飯田さんや他の生徒も焦点の定まらない目で吉田先生を見つめるだけだった。
我に帰った龍也は、圭子にそっと聞くのだった。
「なんで、そんな難しい事、知ってんねん?」と
「うちは、クリスチャンやから・・・」
「なんやクリスチャンってアグネスチャンの親戚か?」
 龍也のくだらない冗談に圭子は笑いをこらえるのに
 必死だった。
「佐久間君、じゃ今度の日曜に教会に行ってみる?」
「え、ええんか?俺でも」
「もちろんや、教会は誰でも受け入れるんや!」
「誰でも・・・?」
「そう、誰でも・・・」
「俺でも・・・」龍也は小さく呟いた・・・

第15章 はじめての教会

寒い朝だった。その日・・二月最初の主日の日、朝から粉雪が舞っていた。先週末のTVの天気予報士は、今年は例年にない暖冬だと伝えていたが・・・今年初めての雪・・・空から降ってくる粉雪は、まるで天使の羽のようだった。
 私は、傘をたたんで顔を空に向けて直接、自分の顔で粉雪を感じていた。
 京都の寒さは「底冷え」と言われる寒さで、体の芯からジンジン冷めて来るような寒さなのだが、雪が降ると空が厚い雲に覆われるせいなのか、幾分暖かく感じられた。
佐久間君・・・龍也君・・・知らない間に・・・ほんの短い間に・・私の心は龍也君への思いでいっぱいで、どうしたら良いのか分からなくなっていた。これまでに感じた事のない気持ち・・・自分の心と体がバラバラになって行く感じ・・・待ち合わせの場所の京阪電鉄の宇治駅に着いた・・・粉雪の向こうに龍也君の姿が見えた。傘もささずに茶色のダッフルコートのフードをかぶってたたずむ姿・・・
「佐久間君、おはよう」 私が声をかけると彼はニコッと笑ってダッフルコートのフードを取り、そしてオレンジ色のヘッドフォンの片耳を外して、「おはよう、伊集院さん」と返事をしてくれた。
「わぁすごい、それってソニーのウォークマンでしょ?」まだまだ、ウォークマンを見かけるのは珍しい時代だった。
龍也は腰のベルトにつけたウォークマンのスイッチを切って
ヘッドフォンを首にかけ変えた。
「うん、初代のウォークマンだけど、気に入ってる・・・」
「何を聞いてんの?」
「うん、ボブディランの2枚目のアルバムや・・・伊集院さんはボブディランって知ってる?」
「名前は聞いたことがある様な気がするけどよう分からんわ・・・」
当時の私の中では音楽といえば歌謡曲しかなかった・・・

苦手な音楽の話はそこまでにして、私は話題を変えた。
「教会は三室戸っていう駅にあるんや、教会までは一駅やから・・」私は、三室戸までに切符を2枚買って1枚を龍也君に渡した。
 そう、その教会は三室戸の駅から歩いて5分ほどのところにあった。「宇治ホーリネス教会」それが私の教会の名前だ。
「ホーリネスってなんなん?」龍也君が私に聞いて来た。
「ヘブライ語で『取分けられる』って言う意味なんやて」
「へぇー何を何と取り分けるん?」
「そやね、罪で汚れた自分と聖霊によって清められた自分をとりわけるんやって牧師先生が言うてたと思う。よう覚えてないけど・・」
 私は、龍也が理解するのは、難しいだろうなと思いながらも聞かれたので仕方なく答えた。
龍也がすぐにまた聞いてきた。
「聖霊って?」
私は、どう説明すれば良いのか?どう説明すれば、龍也にわかってもらえるか頭を悩ました。
 こればっかりは、頭で理解する事ができないと思ったからだ。
とにかく私たちは、出町柳行きの普通電車に乗り込んだ。
日曜の朝でもあり、車両には私と龍也の他には数人の乗客しかいなかった。車両の中は暖かく暖房がよくきいていて暑いくらいだった。

「あっ、聖霊のことやったね?」

「龍也君は、三位一体って聞いたことある?」
「いや、わからへん、聞いたことないなぁ・・・」
「そうか?・・説明するのは、とても難しいんやけど、聖書の神は父と子と聖霊の三つの位格を持っているんや、位格って言うのは人格みたいな意味やと思うんやけど・・または主体って言っても良いかと思うねんけど・・・でも神であること、すなわち本質的には一つの実体を持っていると言う訳なんや、簡単に言えば、父なる神は創造主で子なる神は救い主、聖霊なる神は助け主って言うわけや・・・」
「全然、簡単やないなぁ、水が気体では水蒸気、零下になると氷になる・・でも本質は変わらない・・・そんな感じ?」
「へぇ・・なかなかうまいこと言うね・・・」龍也の回答に何となく私は納得してしまった。
そうこうしていると三室戸の駅に私たちは着いた。三室戸の駅を出るとさっきまで粉雪だった雪が本格的な雪に変わっていた。
 「すごい雪やね?前が見えへんわ」龍也はそう言いながらも何故か楽しそうだった。宇治ホーリネス教会は、三室戸の駅から京滋バイパスの方向に5分ほど歩いた場所にあって、宇治高校が目印になっていた。
「あっ十字架が見えた、あれやね?」
「そう、あの建物が教会や」
「かわいい建物なんやね?」龍也は三角屋根の教会の建物に何かメルヘンチックなものを感じたようだった。
確かにおとぎの国の建物のような印象の建物だった。
建物の大きさは普通の民家をちょっと大きくした位だったが、ちょうど建物の真ん中に三角屋根の塔があってその塔の窓の中に木製の十字架がはめられていた。多分夜になるとあかりが灯るのだろう。
 私は夜に来たことがなかったのでこれは、あくまでも推測だったのだが・・・
 教会の入り口に今日の宣教題が張り出してあった。
「復讐するは我にあり」と言う宣教題だった。

「これって何か聞いた事ない?」と龍也
「聖書の言葉やと思うけど・・・」と私・・・
龍也は、頭を抱えてしばらく考えると、突然・・・
「思い出した、ちょっと前の映画の題名や!」
「えっ、そうなん?」私は、そんな映画があったことは知らなかった・・・意外と物知りな龍也に驚きながら私たちは礼拝室に入った。
 礼拝室は暖房がこれでもかと言うほど効いていた。
「おー南国や!」龍也の冗談に私の後ろにいた先輩教会員の原さんが笑っていた。
私は恥ずかしくって赤くなっている自分がわかったが、原さんは龍也に「よく来てくれました。伊集院さんのお友達ですか?」とニコニコ笑って挨拶をしてくれた。
「はい・・・まぁその」龍也も原さんの迫力にタジタジの様だった。
 私たちは、原さんの後をついていき、講壇の一番前のベンチ椅子に原さんと並んで座った。
 宇治ホーリネス教会の礼拝室は30畳ほどの大きさで5人くらいが座れる木製のベンチ椅子が左右に2列にそれぞれ5脚ほど並んでいて、そのベンチ椅子の2列の真ん中に、大きなガスストーブが置いてあった。
 そのガスストーブが、強力な暖房力があることは、そのゴーと、うなる音で感じ取られた。

まさに南国だった・・・

第16章 盲目の牧師

礼拝室の入り口の壁には大きな柱時計がかけてあり、その柱時計が10時を指すと同時にオルガンの演奏が始まり、宇治ホーリネス教会の牧師、永井牧師が登場した。永井牧師は、牧師夫人に連れ添われて講壇に上がった。なぜなら永井牧師は目が不自由だったからだ。
 そして静かに宣教が始まった。
「みなさん、おはようございます。今日もこの良き日に主にある兄弟姉妹とともに神を礼拝する時を持てますことを心から感謝します。さて、今から、7年ほど前に佐木隆三氏が実在の連続殺人犯、西口彰事件を題材として『復讐するは我にあり』と言う小説を書かれました。そしてその小説は後に映画化もされ、ご覧になったかたもおられるでしょう。この言葉は皆さんご存知の通り、ローマ人への手紙12章19節の言葉です。みなさん聖書を開いてください。
いいですか?それでは一緒に読んで見ましょう。
ローマ人への手紙12章19節 
「愛する者たちよ、自分で復讐しないで、むしろ神の怒りに任せなさい、なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が復讐する』と書いてあるからである。」
主人公の西口こと榎津は、この聖句の意味を復讐するのは自分にあり、自分で復讐してもいいのだと思い込んでいたのです。
そして後に、この『我』は神様の意味だと教えられ絶句したそうです。
 何故、そのように思い込んでしまったのか? 彼は父親もカトリックの信者だったのですが、複雑な家庭に育った彼は、自分で勝手に聖書の言葉を解釈して、間違ったまま信じ切っていたのだと思われるのです。
 すなわち彼は、信じていた親や、教師に騙され、自分のように人を信じて簡単に騙される様な人間は、かっての自分を見ている様でそんな人を見ているとまるで自分を見ているかの様な気持ちになり、そしてついには、その気持ちが連続殺人事件を引き起こすまでに高まっていったと言うのです。
 さて、憎しみを絶つことのできなかった榎津でしたが、次に憎しみを断ち切った日本人とアメリカ人の話を紹介したいと思います。
時は1941年12月7日・・その憎しみの連鎖は真珠湾から始まりまるのです。
 その日、帝国日本軍は真珠湾の米国太平洋艦隊と米軍基地に奇襲攻撃をかけました。いわゆる真珠湾攻撃です。
この攻撃で米国の2300人以上の命が失われました。
 そして、ここに復讐の炎を滾らせていた若き兵士がいました。アメリカ陸軍航空隊のジェイコブ・ディシェイザーです。
ディシェイザーは報復作戦に志願しました。日本本土への初めての空襲です。ディシェイザーには爆弾を投下する任務が与えられました。しかし、日本までは1200KM、片道分の燃料しか積めません、爆撃後は同じ陣営の中国で救出してもらうと言う命がけの作戦だったのです。ディシェイザーが向かったのは名古屋でした。そして戦闘機の工場やガスの貯蔵タンクなどに
焼夷弾を投下したのです。そして軍の司令になかった民間人にも機関銃を向けたのです。
 それは、彼の心の中の復讐の憎悪が牙をむいたのです。
その空襲の後、予定通り中国に不時着した爆撃機でしたが、なんとその場所は日本軍の占領地だったのです。
ディシェイザーはこうして囚われの身となってしまうのです。
 日本軍に囚われて1年半後、南京で収容されていた時のことです。仲のよかった友人がが赤痢で亡くなりました。悲しみにくれるディシェイザーに青田と言う日本人看守がこっそり聖書を手渡してくれました。ディシェイザーは、これまで聖書をほとんど読んだ事がありませんでした。彼はそれから聖書を
毎日欠かさず読む様になりました。そして聖書の次の言葉が
彼を変えたのです。
 それはイエスキリストが十字架で処刑される時に発した言葉でした。
「父よ彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 この言葉は、今まさに自分を殺そうとしているローマ兵とユダヤ人たちの赦しを父なる神に祈った言葉なのです。
 ディシェイザーはこの言葉・・そう御言葉によって変えられました。
自分を殺そうとしている日本人のために祈り始めます。
 そして、収容所から解放された彼はアメリカの大学で神学を学び宣教師になったのです。
 戦後、アメリカは日本の民主化の一貫としてキリスト教の布教を進め、3000人の宣教師を送り込んでいました。ディシェイザーもその一人でした。
ディシエイザーは、自分が日本軍の捕虜であったこと、日本人を憎んでいた事、そして聖書によってその憎しみを断ち切る事ができた事を語りました。
 また、日本にもアメリカへの憎しみを断ち切れない日本人がいました。真珠湾攻撃で英雄と称えられ連合艦隊航空参謀まで昇進した淵田美津雄氏です。彼はこう証言していました。
「私の目標は、アメリカ人を殺して殺して殺す事でした。皆殺しにして最後までアメリカを苦しめることができるように・・・」
 淵田氏は終戦後公職を追放され、軍人恩給も止められ一切の収入が絶たれました。敗戦の翌年、淵田氏は故郷の奈良に帰りました。そこでは、真珠湾の英雄から国を破滅させた軍国主義者へと手のひらを返した様に周囲の目は一変していたのです。
 そんな淵田氏でしたが、1949年12月、淵田氏の人生を大きく変える事件が起こりました。それは、GHQの取り調べを受けるために上京した淵田氏が渋谷の駅に降り立った時の事でした。一人のアメリカ人がキリスト教の伝道のためのトラクトを配布していました。トラクトとは、キリスト教伝道の為のパンフレットなどの印刷物を指すのですが・・・その題名は、「私は日本の捕虜でありました。」と言う題名でした。
 そうあのディシェイザーが書いたものだったのです。淵田は、自分と同じ様に敵国を憎んで憎んで憎み切った人間がいた事、そして、その同じ人間が今度は、日本人を愛してわざわざ、極東の敵国まで来て自分の信じている信仰を広めようとしている事に感銘を受けたのです。
 彼はすぐに聖書を購入しました。そして農作業の合間を見て2か月で最初から最後までを読みきったのです。
 淵田が感銘を受けた言葉、それはディシェイザーと同じく
「父よ彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言う言葉でした。淵田は、キリスト教徒になることを決意しました。そしてその後に今度は、淵田がアメリカに伝道の旅に出ることになるのです。目的は真珠湾攻撃の謝罪でした。アメリカ全土を淵田は回りました。覚悟していた以上の憎しみの言葉を投げかけられました、それでも淵田はイエスキリストの愛によって自分が変えられたこと、今はイエスキリストによって憎しみが愛に変わったことを証しして回ったのです。
淵田氏とディシェイザーの話は、まだまだ後日談があるのですが、今日は時間の関係でここまでにしたいと思います。榎津は、キリスト教徒でしたが憎しみを断ち切ることができませんでした。その反対に淵田氏とディシェイザーは、キリストに救われ憎しみから解放されたのです。彼らの違いはなんだったんでしょうか?
 それは罪の自覚と悔い改めではではないでしょうか?
私たち人間はみんな罪びとです。毎日、罪を重ねています。
罪とは何でしょうか?法律を破ることでしょうか?もちろんそれもそうかもしれません。しかし本当の罪とは人間が定めた法律を破ることと言うことではないのです。イエスキリストの律法、自由の律法を破ることなのです。イエスは言いました。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、また「自分を愛する様にあなたの隣り人を愛せよ」、この二つを守れば永遠の生命が得られると・・・実に単純明瞭な「愛の律法」です。使徒のヤコブはこれを「自由の律法」とも呼びました。 祈りましょう。 祈りと共に、永井牧師の宣教は終わった。

第17章 告白

午前中の雪は雨に変わっていた。そして私たちは三室戸の駅のホームのベンチに座っていた。
「寒いね?なんか飲もか?ちょっと待ってて・・・」
「あ、うん・・・」龍也の言葉に私は曖昧な返事しかできなかった。「コーヒーでええ?」自販機の前から龍也が声をかけて来た。「うん、えーよ」私も大きな声で返事をした。
 私たちは、宇治に戻る電車を待った。日曜日と言うことで電車の本数も少ないのか、次の電車が来るまで相当の時間があった。「電車も行ったばっかりやね?うちらタイミング悪いなぁ」と私・・・
「そやね」龍也の返事は、心ここに有らずと言う返事だった。そして宙を見つめていた龍也は、意を決した様にコーヒーをぐいっと飲み、こう話始めた。
 「聞いてもらいたい話があるんや。」龍也の目は真剣だった。
「なに?どうしたん?」私は自分の心臓がドキドキしているのがわかった。
「復讐するは我にありって言う、今日の宣教を聞いて俺は目が覚めたんや、実は・・・俺の親父は復讐の二文字に生きた人やった。親父は小さい頃から復讐することだけを命じられていたんや。」
「えっ・・・誰からやの?」私の声は震えていた。
「親父の親父、そう俺のおじいちゃんからや・・・」
「なんで・・そんな・・」
「その理由は、自分も知らんねんけど、俺のおじいちゃんもおばあちゃんも・・・二人ともとんでもない事をしてしもうたんや、
詳しくは言われへんけど、その事で俺の親父は、小さい頃からおじいちゃんから、復讐をする事だけを教えられて育ったんや・・・実は、俺もおんなじや・・・ずっと復讐する事しか考えてけえへんかったんや・・せやけど、今日、俺は目が覚めたんや・・復讐する事は神様に任せておく事やと言う事を・・・それが正しい事やったら、神様が復讐してくれる・・・と言う事を」

龍也は、その原因となった事件について話したくなかった様だったので、私は聞かなかった。
 龍也は泣いていた。
私には、それは龍也がこれまでの人生で親から背負わされて来た重荷が解き放たれた瞬間だったのではないかと思われた。龍也のその重荷がどんな重荷であったのか?
 また何故、龍也のおじいさんとおばあさんが
事件を起こしてしまったのか?

また龍也のお父さんは誰にどう復讐をしたのか?

それらが分かるのは、ずっとずっと後のことだった。

そして龍也とは宇治駅で別れてから・・・

私たちは・・・

もう会うことはなかった。
 私の手には、最後に龍也から渡されたボブディランのカセットテープだけが残った。

そして龍也から手紙が届いたのは、宇治駅で別れてから半年以上経った頃だった。

その手紙の内容はこんな内容だった。

「伊集院さん・・・挨拶もせずに突然、伊集院さんの前から姿を消してしまって本当にごめん・・・
あんなに良くしてもらったのに・・・
なんと言えば伊集院さんに自分の気持ちが伝わるのか?
正直、今でもわからない・・・
どうすれば良いのか・・・
伊集院さん・・・
わかって欲しいんだ・・・
この気持ちを・・・
うまく伝えられない僕だけど・・・」

手紙の裏には、こんな詩が書かれていた。題名も書かれていなかったが・・何故か私は龍也らしいと思った。

こんな詩だった。
 初めて君にあった時・・・
僕は、知った・・
君が僕と同じ悩みをもっていると・・・
そして、僕の復讐の炎は、雨で流され・・
心には特別な気持ちが・・
自分ではどうしようもできない、この気持ち・・・
何故・・何故・・・僕は僕でしかないのか?
宿命を背負って生きて来た、この17年・・・
できることなら、すべてを捨てて君と同じ時間を分かち合いたかった・・・
いつかきっと君の前に立てる様な人間になれたなら・・・
いつかきっと君に、この気持ちを伝えたい・・・
特別な君に
特別なこの気持ちを・・・
いつかきっと・・・
さよならの前に・・・
これだけは伝えたかった・・・
いつかきっと・・・
また会えることを祈っている・・・
それまでの間の・・・さよなら・・・  龍也」

同じ悩みって・・・何?・・・

高校時代の思い出から現実に戻った圭子は、
もう一度本を手に取った。

その章は陽一の手紙から始まった。

第18章 さよならgood bye  第7章 悪魔の系図

「海渡、元気か?三浦牧師が亡くなってもう3年が経ったよ
この教会も長い間、牧師がいない状態やったけど、やっと新しい牧師が来ることになったんや・・ところで折り入って海渡に相談したいことがあるんや・・・こんな話は海渡にしかでけへんから・・・力になって欲しい・・・」
 陽ちゃんとは、もう何年も会ってなかった。海渡は、折り入っての相談と言う陽ちゃんの言葉が気になった。何故なら三浦牧師の事件のことを考えても、陽ちゃんは何か重い十字架を背負っていることは間違いないと海渡は思っていたからだ。そしてその予想は的中することになる。

「先週末にこれが届いたんや・・・」そう言って陽ちゃんは、僕に小さな茶封筒を手渡した。
 その茶封筒には黒のマジックで封筒の大きさには不釣り合いなほどの大きな文字で住所と名前が書きなぐってあった。そう、まさに殴り書きとはこう言う事を言うんだと言う感じの字体だった。
「何がはいってんの?」
「まぁ開けてみて・・・」
陽ちゃんに促されて、恐る恐るその茶封筒に手を入れて中のモノを取り出した。 
「カセットテープ?」
それは、TDKと書かれた真新しいカセットテープだった。
「陽ちゃんは、もうこれ聞いたんか?」
「うん、聞いてみた・・・」
「何が入ってんの?」
「聞いてみて・・・」
 そう言って陽ちゃんは、ソニーのテープレコーダーを机の上に置いた。スタートボタンやストップボタンがピアノ式の操作ボタンになっているテープレコーダーでMAGAZINE MATICと英語で表記されていた。

その目新しいカセットテープレコーダーにカセットをセットし僕は、スタートボタンを押した。ガーと言う雑音がしばらく続いたかと思うと突然、若い男の声で次の様な内容のメッセージが始まった。
 「養父陽一、君には次のことをよく覚えておいてもらいたい。僕の母親は君の母親に人生を狂わされたと繰り返し、繰り返し独り言の様に愚痴をこぼしていた。そのせいで、父親とも喧嘩が絶えなかった。君の父親は僕の母親と結婚の約束をしていたにもかかわらず、僕の母親を裏切ったんだ。もちろん君の母親の策略で君の父親と関係を持って、そして君の姉が生まれたんだ。それを理由に君の母親は、君の父親を自分のものにしたんだ。
 それだけじゃないんだ、君の母親は僕の父親とも関係を持って僕の家を崩壊させた。そのせいで僕の母親は家に放火し、父を殺そうとした。君の家は呪われた悪魔の系図、そのものだ。僕は君の家を許すことはできない。」

テープはそこで終わっていた。

「誰やこれ?」僕は陽ちゃんに心当たりがあるのか聞いてみた。

「駄菓子屋の息子やと思う・・・あの藤沢夕子の息子や」

「おれらと同じくらいの歳やな・・この声の感じは・・」

「そうやな、多分15、6歳と思うわ・・・俺はどうすればええと思う?」

陽ちゃんにそう言う風に聞かれても僕には解はなかった。

もちろん、陽ちゃんもなすすべはなかった。子供ではどうする
こともできなかった。

それから10年後、まさか本当に藤沢夕子の息子が陽一に復讐をすることになるとは、想像だにできなかった。

この復讐の連鎖を断ち切ることはできなかった。

やがてこの復讐の連鎖は、夕子の孫である俊也まで

引き継がれる。

深い深い 闇 ・・・

心の闇・・・

第19章 北国の少女

圭子は、あの龍也からもらったカセットテープを愛用のソニーのツインリバースのカセットデッキに入れた。スピーカーはJBL4301、昔から何故か家にあったものだ・・・

圭子は、そのカセットの2曲目の“北国の少女”という歌がお気に入りだった。もちろん、1曲目の“風に吹かれて”が名曲であることは知っていたが、龍也が、このカセットをくれた時に
「2曲目が俺は好きやねん、大好きや・・・」と言っていた言葉が脳裏から離れなかったからだ・・・

圭子には・・・

その大好きや・・・と言う言葉が、圭子に向かっての龍也の気持ちであることは、直感で感じとっていた。

“北国の少女”はこんな歌詞だった。

『北国の少女』

ああ、もしきみが国境に厳しい風が吹く
北国の祭りを訪ねているなら
そこに住む人にぼくを思い出させてほしい
彼女はかつてはぼくの恋人だったんだ

ああ、もしきみが川が凍り夏が終ったとき
雪の嵐のなかを旅しているなら
どうか確かめてほしい、彼女が唸る風から身を守る
暖かいコートを来ているかどうかを

どうか見てきてほしい、彼女が長い髪を
胸元までたっぷりとあふれさせているかを
どうか見てきてほしい、彼女の長い髪を
それがいちばん素敵な彼女の姿だったのだから

彼女はぼくを今でも思い出すだろうか
ぼくは何度となく祈った
暗闇のなかでも、そして
昼の明るさの中でも

だからもしきみが国境に厳しい風が吹く
北国の祭りを訪ねているなら
そこに住む人にぼくを思い出させてほしい
彼女はかつてぼくの恋人だったんだ

第20章 初仕事の報告 (海渡事務所にて)

「圭子ちゃん、吉田元刑事から色々重要な話が聞けたそうだね?吉田さんから電話があったよ・・・とても有望な人材を採用できてよかったねって褒められたよ。」海渡はうれしそうに笑いながらそう言った。
 「はい、自分でも思った以上にスムーズに調査ができたので、誰かがあらかじめ色々と準備をしていてくれたんじゃないかと思ったくらいです。」圭子は率直に思ったことを海渡につげ、一晩かけてまとめた調査書を海渡に手渡すのだった。

調査書に目を通す海渡・・・しばしの沈黙

「うん、さすがに良くできているね・・・で、圭子ちゃん、実は陽ちゃんから、君がこの調査を終えたら伝えて欲しいと言われていた事があるんだ。しかも僕の口から直接にと・・・とても重要なことなので、しっかりと聞いてもらえるかな?」

「あっ・・はい、わかりました。」圭子は突然の話の展開に緊張を隠せなかった。

海渡は、マホガニー製の例の大きな机の引き出しから、手紙を出し、フッと息を入れて封筒から便箋を取り出した。その便箋は蛇腹便箋で封筒は和紙で出来ていた。

海渡は、黄色いべっ甲製と思われるリーディンググラスをかけ、その内容を読み始めるのだった。

「圭子・・・元気でやっているか? 君が元気に働いている事を、思うだけで僕は幸せな気持ちになれるんだ。
 これから話すことは、本来は、直接、僕が話すべきだったのだが、それが出来ずに今に至っていることは申し訳ないと思っている。どうか許してほしい。

1955年に三浦牧師が自分の身代わりとなって亡くなった事件の3年後、僕はまた、持病の鬱病が再発し1年ほど入院をする事になったんだ。それは、ある男の恐喝を受けた事が原因だったんだが・・・
 その時に彼女、稲川真砂子と知り合った。彼女は、僕が通っていた病院の看護大学の学生で見習い看護師だった。僕より4つほど年上だったけど、僕は彼女に恋心を抱いてしまったんだ。彼女は九州の大分の出身で物静かな女性だった。
 入院で退屈していた自分の話し相手にいつもなってくれたんだ。彼女はランボーの詩が好きだとよく言っていて、僕にもランボーの詩をよく読んでくれたんだ。

特に彼女が好きだったのは、『夏の感触』という詩だった。

こんな詩だった。

夏の青い黄昏時に 俺は小道を歩いていこう 
  草を踏んで 麦の穂に刺されながら
  足で味わう道の感触 夢見るようだ
  そよ風を額に受け止め 歩いていこう

一言も発せず 何物をも思わず
  無限の愛が沸き起こるのを感じとろう
  遠くへ 更に遠くへ ジプシーのように
  まるで女が一緒みたいに 心弾ませ歩いていこう

彼女が教えくれたのは、ランボーは10代で天才詩人と評価されると、20代では、詩を書くことをやめて放浪の旅に出たそうだ。彼女は僕にいつもこう言っていた。「私のモットーは、この詩の様に人生を何事も思わず、ただただ、心弾ませて歩いていく事なの」と
 ランボーのその後の人生は、そんなにクールな物ではなかったけど、彼女はランボーが放浪の旅をした様に自由に人生を放浪したいと思っていたんだと思ったんだ。

そんな彼女と僕は結婚した。だけど幸せな時間は、長くは続かなかった。
そう、あの忌まわしい事件が起こったんだ。僕は、その事件で
完全に自分を見失ってしまった。自殺未遂を何回も繰り返した。そんな自分が、真砂子のお腹いた子供がまさか生きているとは夢にも思わなかった。僕がその事を知ったのは、真砂子が亡くなって数年経った後だった。
 その子供は、僕の姉に預けられていたんだ、姉は京都の裕福な家に養子として迎え入れられて幸せに暮らしていたので、僕は、子供の幸せを考えると、姉にすべてを委ねるべきだと決心したんだ。それが正しかったのか?間違っていたのか?正直、今も迷っている。

君の母親は優しくて美しくランボーの詩を愛する人だった。

さよならの前に これだけは、君に伝えたかった。

君が幸せな人生を送れる事を天国から祈っている。

さよなら 圭子

さよなら・・・
手紙の最後の文字は何故か滲んでいた。
海渡は、蛇腹便箋を封筒に戻し、圭子に手渡した。

「僕は、陽ちゃんから、その手紙を直接、圭子ちゃんに読んで欲しいと言われていたんだが、何故、陽ちゃんが、そういう事をわざわざ僕に頼むのか分からなかった・・・でも今その意味がはっきりわかった・・・何故なら、陽ちゃんが僕の中で生きていたからだ・・・まさに今話をしたのは僕ではなく陽ちゃんその人だった。陽ちゃんは、また僕にこう語りかけてきた。

ありがとう」・・・と

最終章 再会

自分が誰なのか?初めて私は知った気がした。伊集院家に養子として入っている事は、実は知っていた。それを知った時は、悩み、苦しんだ。教会に通い出したのもそんな悩みがあったからだ。

そんな私は救われた。

教会に行かなければ・・・イエス様を知らなければ

今の自分はなかっただろうと本当に思う。

そんな事を考えながら、その日の仕事を終えた私は海渡所長

に挨拶をして事務所を後にした。

外は、もう真っ暗になっていた。

私は、九段下の駅に向かって靖国通りの坂を歩いていた。

靖国通りの街灯が美しかった。

そして私は、街灯の下でたたずむ一人の男性を見つけた。

龍也?!

それは、13年前に宇治駅で別れた龍也・・・

まぎれもなく、龍也だった。

龍也は、にっこり微笑んでいた。

私は、達也と目があったその瞬間・・・

13年前に止まっていた私の心の中の時計の針が、動き出した

のを感じたのだった。

[完]

キリストにならいて[コンテツスムンジ]
キリストにならい、地上のすべてのむなしいことを軽んじること
「私に従う者は、暗闇の中を歩くことはない」と主は言われました(ヨハネ8:12)。 このキリストの言葉は、 キリストの人生と人格にならいなさいという、私たちへのアドバイスです。 もしも私たちが、本当の意味で目を覚まし、 心のすべての盲目から自由になりたいと願うならば、ということですが。 ですから、私たちは、主たる努力を、イエスキリストの人生を学ぶことに向けましょう。
キリストの教えは、聖徒のすべての助言よりも素晴らしく、 キリストの霊を持つものは隠れたマナを見つけ出すでしょう。 福音をしょっちゅう聞いていながら、心にとめない人がたくさんいます。 それはキリストの霊を持たないためです。 キリストの言葉を十分に理解したいと願う人は誰でも、 自分の全生涯をキリストの生涯に一致させようとしなければなりません。
もし、あなたにへりくだりの心がなくて三位一体の神を悲しませるとしたら、 三位一体についての学識深い議論をすることが、 あなたにとってどんな益があるでしょうか。 人間を聖なる存在や正しい存在にしてくれるのは学問ではありません。 そうではなく、善い人生が、神に喜ばれるのです。 私は、悔い改めをうまく定義できることよりも、 悔い改めの心を持つことを望みます。 聖書のすべてを知り、すべての哲学者の原理を知っていたとしても、 神の恵みと愛なしで生きるとしたら、どんな益があるでしょうか。 空しい、空しい、いっさいは空しい。 空しくないのは、ただ、神を愛し、神に仕えることだけです。
最も大いなる知恵――それは この世をすべて捨て去り、天の御国を求めることです。 朽ち果てる富を求め、朽ち果てる富を頼みにするのは空しい。 賞賛を求め、驕り高ぶるのは空しい。 肉的な欲望を追い求めるのは空しい、 やがて来る時に厳しい罰を招く物事を望むのも空しい。 長く生きることばかりを求め、善く生きることを気にかけないのは空しい。 現在のみを気にかけ、やがてやって来ることを予見しないのは空しい。 あっというまに過ぎ去るものを愛し、 永遠の喜びがどこにあるのかを考えないのも空しい。
次の箴言を何度も思い出しなさい。 「目は見ることによって満足しないし、 耳は聞くことによって満たされはしない」目に見えるものを愛しないよう努め、 目に見えないものに心を向けるよう努めなさい。 なぜなら、自分自身の肉体的な欲望に従う者は、 良心にしみをつけ、神の恵みを壊してしまうからです。

自分に対してへりくだった考えを持つこと
人がみな知識を求めるのは自然なことです。 しかし、神を恐れない知識に何のよいことがあるでしょう。 星の運行を研究して自分の魂を無視している誇り高い知識人よりも、 へりくだって神に仕えている田舎者の方がずっとよいのです。 自分自身をよく知っている人は、 自分の目にすら取るに足りぬ者と映るようになり、 人々から誉められて喜んだりはしません。
私がこの世のことをすべて知っていたとしても、愛がなかったら、 私の行ないを裁く神の前で、その知識が何の益になるでしょう。
知識を異常なほどに望まないようにしなさい。 そのような状態は心をたいそういらだたせ、惑わせるからです。 知識人は、学問を積んだ者のように見えるのを好み、賢い人だと呼ばれるのが好きです。 知っていても、魂のためにまったく役に立たない知識はたくさんあります。 そして健全な魂に益してくれる知識以外に心を向ける人は、たいへん愚かです。
言葉が多くても、魂は満たされません。 しかし、健全な生活は心を安らかにし、 汚れのない良心は神に対する大きな信頼の念を起こしてくれます。
あなたが多くのことを知り、よりよく理解すればするほど、 あなたの生活が同じくらいに聖なるものにならなければ、 あなたの裁きはそれだけ厳しくなります。 ですから、あなたの知識や技術のゆえに誇ってはいけません。 誇るのではなく、あなたに与えられた能力のゆえに恐れなさい。 もしあなたが、多くのことを知り、多くのことを十分に理解していると思うなら、 それと同時に、あなたはたくさんのことを知らないのだということを自覚しなさい。 知恵を誇らず、自分の無知を認めなさい。 あなたよりも良く学び、あなたよりも勝っている人がたくさんいるというのに、 なぜ、自分自身の方を他人よりも優れた者だと思うのですか。
もしもあなたが何か価値のあることを学び、理解したいと望むなら、 自分が無名であることを愛し、軽視されることを愛しなさい。 自分自身を知り、とるに足りないものだと考えることは最善でかつ完全な知恵です。 自分をとるに足りないものだと考えること、 常に他の人のことをよく考えることが最善であり、もっとも完全な知恵です。 もしもあなたが他の人の罪を目の当たりにしたり、 他の人が重大な罪をおかすのを見たとしても、 自分はその人よりも良い人間だと考えてはいけません。 というのは、あなたがいい状態にいつまでいることができるのか、 あなたは知らないからです。 人はみな、弱くもろいものです。 しかし、あなた自身が一番弱くてもろいものだと認めなさい。

真理の知識
象徴やはかない言葉ではなく、真理そのものが本当の姿を教えてくれる人は幸いです。 私たち自身の判断や感覚は、私たちをあざむくことがよくあり、私たちは真理のうちのほとんどを見ていないのです。
隠されていること、見えないことについての議論が何の益になるでしょう。 私たちがそれを知らないからといって、終末の裁きの時に責められることはないのに。 自分の益となり必要となることを無視して、 自分に無関係なことや有害なことに心を向けるのは、 たいへんに愚かなことです。
私たちには目がついているのに、見えていません。
それなら、私たちは哲学上の疑問にどのように対処したらよいのでしょうか。 永遠の言葉が語りかけてくれるような人は、 理論を使わなくても理解することができます。 この言葉となられた方からすべてが生じ、 もろもろのものは彼について語るのです。 そして初めであられる方が私たちに語ってくださるのです。 この言葉なしでは、 誰も正しく理解したり判断したりすることはできません。
ああ、神さま、あなたは真理の方、 私をあなたと一つにし、永遠の愛のうちにおいてください。 私は聞いたり読んだりするたくさんのことで心を悩ませています。 しかし、あなたのうちにこそ、私が求めているもののすべてがあります。 知識のある者の口を閉ざし、 すべての被造物をあなたの御前で静まらせてください。 ただ、あなただけが私にお語りください。
心を鎮め、心を単純にすればするほど、 崇高なものごとを易しく理解することができます。 なぜならそのような人は、理解のための光を天から受けるからです。 純粋で、単純で、堅固な精神を持つ人は、 多くの労苦で悩むことはありません。 その人はすべてのことを神の栄光のために行なうからです。 その人は内なる平和を楽しんでいますから、 何に対しても自己中心な目的を求めたりしません。 まったくのところ、コントロールされていない心の欲望ほど、 問題と心の悩みを引き起こすものはありません。
善良で信仰深い人は、自分がしなければいけないことを心のうちで整えます。 それは邪悪な性向から生じるむら気に従ってではなく、 正しい理性の命令に従ってです。 自分を自分の主人にしようと試みる人ほど、 もがき苦しむことを余儀なくされるのではありませんか。 ですから、次のことを私たちの目的とすべきです。 自己に打ち勝つこと、毎日もっと強くなること、そして徳において前進することです。
この人生においては、どのような完全なものも、その中に不完全さを含んでいます。 私たちの知識も必ずいくらかの暗闇を含んでいます。 自分自身をへりくだって考えることのほうが、 深い知識を求めることよりも、確実に神へ至る道となります。 学ぶことが悪いのではありませんし、 また知識もそうです。 それはそれ自身としては良いものとして神に定められています。 しかしどんなときでも、汚れのない良心と、聖なる人生のほうが良いのです。 たくさんの人が、 より良く生きることよりも、知識を求めようとしたために、 過ちをおかしたり、何もなしとげられなかったりする場合が多くあります。もしも人々が、問題を議論するときと同じように注意深く 悪徳を根こそぎ引き抜いて、美徳を植え付けるならば、 この世にこれほど悪いことやスキャンダルはなく、 宗教的な組織がこれほどだらしないことはないでしょうに。 はっきり言いますが、私たちが裁きの時に問われるのは、 これまでどんなものを読んできたか、ではなく、 これまでどんなことをやってきたか、なのです。 どれほどうまく語ってきたか、ではなく、 どれほど善く生きてきたか、が問われるのです。教えてくれますか。 あなたがよく知っている、 以前一緒にいて学識を誇っていた有名な師や先生が、 現在どこにいるかを。 他の師や先生がすでにその地位を取って代わり、 自分の前にその地位にいた人のことなど思い出しもしません。 生きている間、かれらはひとかどの人物のように見えました。 しかし今となっては思い出されることはほとんどありません。 この世の栄光は何とすばやく過ぎ去ることでしょう! 彼らの生活が彼らの学識と同じように進歩すれば、 彼らの研究や読書は価値あるものとなったでしょうに。世俗的なむなしい知識を持ち、神に仕えることを大切にしなかったために、 いかに多くの人が滅びることでしょう。 彼らは自分のうぬぼれのためにむなしいものとなったのです。 それは彼らがへりくだらずに、偉大なものになろうと願ったからです。本当に偉大な人というのは、大いなる愛を持っている人です。 本当に偉大な人というのは、自分自身の目には取るに足りない小さな者であり、 最高の栄誉とは無縁の人です。 本当に賢明な人というのは、すべての世俗的なことをおろかなこととみなし、 キリストを得るような人です。 神の意志をなし、自分自身の意志を捨てる人が、本当に学識のある人なのです。

慎重に行動すること
心の衝動や思いつきに従ってはいけません。 そうではなく、物事は神の御心の光に照らして、注意深くまた忍耐強く考えなさい。 悲しいことに、私たちはとても弱いため、 あることを簡単に信じ込み、他の人を善く言わずに、 悪口を言ってしまいがちです。 しかし、完全な人間というのは、 噂を広める人のことを簡単には信じません。 なぜなら、人間は弱くもろいので悪に陥りやすく、 またその弱さは、語る言葉に現れることを知っているからです。
性急に行動したり、 一人の人の意見に盲目的に従わないこと、 人々が言うことをすべて信じないこと、 耳にした噂話を広めたりしないことは、 大いなる知恵です。
賢明で良心的な人に助言を求めなさい。 あなたの考えに従う人からではなく、 あなたよりもよい人からアドバイスを受けなさい。よい人生は、人を賢くし、人を神へ向かわせます。 よい人生は、多くのことについて人に経験を積ませます。 へりくだればへりくだるほど、人は神に対してもっと従順になり、 あらゆることに関してもっと賢明になり、 魂はもっと平安になるでしょう。

聖書を読むこと
真理こそ、巧みな言葉ではなく真理こそ、 私たちが聖書を読むときに探し求めるべきものです。 聖書のすべての個所は、それが書かれた精神を持って読まなければなりません。 聖書の中から、私たちは洗練された言い回しを求めるのではなく、 益を求めるべきだからです。
ですから、私たちは、深淵で難しい本を読むのと同じく、 シンプルでデボーショナルな本も読むべきです。 私たちは、著者の学識が浅いとか深いとかいった 権威に左右されることがあってはなりません。 純粋な真実を愛しているかどうかで読むべきかを判断しなさい。 誰が語っているかを尋ねたりせず、何を語っているかに注目しなさい。 人は死にます。 しかし、神の真実は永遠に残ります。 人について顧慮することなく、 神は私たちにさまざまな方法を通して語られるのです。
おうおうにして、私たちが持っている好奇心は聖書を読む際に妨げとなります。 それは、単純に読んで通り過ぎるべき個所を理解しようとしたり、 議論したりしようと私たちが望むときです。ですから、聖書を読んで益を得ようと望むなら、 へりくだって、単純に、信仰を持って読みなさい。 学識を積むという名誉を求める気持ちで読んではいけません。 聖徒の言葉について自由に尋ね、注意深く聞きなさい。 先人たちが語った厳しい言葉をいやがってはいけません。 それらの言葉は目的もなく語られたわけではないからです。

制御されていない感情
人は何かをあまりにも欲しがると、すぐに平安を失い始めます。 傲慢で貪欲な人は決して安らぎを得ることがありません。 一方、心貧しくへりくだっている人は平和の世界に生きるものです。 抑制を効かせていない人はすぐに誘惑され、小さくてささいな悪に打ち負かされてしまいます。 その人の霊は弱く、いくらか世俗的(肉的)で、感覚的な物事に向く傾向があります。 世俗的な欲望を控えることはほとんどできません。 ですから、欲望を手放すことは彼を悲しませます。 そのような人はとがめだてされるとすぐに腹を立てます。 しかし、かれが欲望を満足させると、 自分の熱情に従ったことのために良心の呵責が彼をうちのめし、 求めていた平安へと導かれることはありません。
だから、心の真の平安というのは、 熱情に抵抗したところに見出されるのであって、 熱情を満足させるところに見出されるのではありません。 肉的な人、空しい魅力に魅せられている人には、平安はありません。 熱心で霊的な人にのみ平安があるのです。

偽りの希望と傲慢から自由になる
人間たちに、あるいは被造物に信頼をおく者はむなしい。
イエスキリストの愛のために、他の人々に仕えたり、 この世で貧しいと見られたりすることを恥だと思ってはいけません。 自分のことを何でも自分でやろうとせずに、神に信頼を置きなさい。 あなたの力の中にあることを行いなさい。 そうすれば神はあなたのよい意志を助けてくださいます。 自分の知識や、いかなる人の知恵に対しても信頼を置いてはいけません。 むしろ、へりくだる人を助け、おごっている人をへりくだらせる神の恵みに信頼を置きなさい。
もしあなたに富があっても、それを誇りに思ってはいけません。 また有力な友人がいても、その友人を誇りに思ってはいけません。 そうではなくて、すべてのものを与え、 何よりも自分自身を与えることを望んでおられる神に栄光を帰しなさい。 人間の強さや肉体的な美しさ、 ちょっとした病気で傷つけられ壊されてしまうような特質を誇ってはいけません。 あなたの才能や能力を誇ってはいけません。 あなたが持っているすべての賜物を与えてくださった神を悲しませないようにするためです。
他の人に比べて自分がすぐれていると考えてはいけません。 人のうちに何があるかをご存知の神の前で、 より悪い評価を受けないためです。 自分の良い行いを誇ってはいけません。 神の裁きは人の裁きとは異なっていて、 人を喜ばせるものが、神を悲しませるのはよくあることだからです。 あなたの中によい点があるなら、他の人の中にもっとよい点を見出しなさい。 そうすればあなたはへりくだったままでいられるからです。 他の人みんなと比較して自分は劣っていると評価することは害にはなりません。 しかし、たとえ一人に対しても、自分の方がすぐれていると考えるのはとても有害です。 へりくだった人は、平和的に生活し続けます。 それに対して、おごった人の心の中には妬みがあり、いつも怒りがあります。

必要以上に親しくしないこと
すべての人に対して心を開くのはやめなさい。 相談をするときには賢明で神をおそれる人だけにしなさい。 若い人や見知らぬ人と付き合うのはやめなさい。 お金持ちにへつらってはいけません。 偉い人との社交を好むのはよしなさい。 へりくだっている人、単純な人、信仰の篤い人、穏やかな人と付き合いなさい。 その人たちと徳を高められるような会話をしなさい。 いかなる女性とも親しい関係にならないようにし、 すべてのよい女性を神に薦めなさい。 神と主の天使とのみ親しく交わるようにし、 人から注目をあびることを避けなさい。
私たちはすべての人を愛さなければなりません。 しかし、すべての人と親しく交わるのは得策ではありません。 その人をあまり知らない人たちの間では評判が良いけれど、 その人をよく知っている人たちからは大した評価を得ていないということが、時にあるものです。 自分が親しくして相手を喜ばせていると思っても、 相手のほうは私たちの欠点に気がついて次第に不快になるということがよくあります。

従順と服従
従う、というのはたいへん素晴らしいことです。 偉大な方のもとで生き、 自分自身の主とならないのはたいへん素晴らしいことです。 というのは、命じることよりは命令を受けるほうがずっと安全だからです。 多くの人は愛からではなくその必要があるから従います。 そのような態度では、 ちょっとした口実によって不満や落胆につながります。 彼らは、 神の愛から心から従うことなくしては、 決して心の平安を得ることがありません。あなたがどこへ行こうとも、 へりくだって権威あるルールに従うことなしには安息は得られません。 変化が起こればとか、別の場所にいけば幸せになれるという夢は、 多くの人を惑わして来ました。はっきり言っておきますが、 すべての人が自分の喜ぶように物事を行いたいと願い、 またそれに賛成する人に魅せられています。 しかしながら、もし神が私たちの間におられるなら、 平和という祝福を得るために、 自分の意見を放棄することも時には必要です。さらに、 すべての完全な知識を持つほど賢明な人間などいるでしょうか。 自分自身の意見を信用しすぎないようにし、 喜んで他の人の意見に耳を傾けなさい。 もしも、たとえあなたの意見が良いとしても、 神の愛のゆえに他の人の意見も受け入れるなら、 あなたはさらなるメリットを得るでしょう。 というのは、アドバイスに耳を傾けてそれを受け入れるほうが、 アドバイスを与えることよりも安全である、ということをよく聞くからです。 自分の意見が良いとしても、 正当な理由や機会があるのに他の人の意見を拒否するというのは、 プライドや頑固さをあらわすシグナルである、 ということもありえます。


無駄なおしゃべりを避けること
人々のゴシップは可能な限り避けなさい。 なぜなら、人は虚栄によってすぐに誘惑され捕えられてしまうので、 世俗的な事項に関する議論は、誠実なものであったにせよ、 私たちの心を大いに乱すことになるからです。
私は何度も、自己の平和を保ち人々と関わりを持たないで済めばよかったのに、と思います。 まったく、どうして私たちは、 会話をし無駄話をするのでしょうか。 良心を悩ますことなく会話を終えるということはめったにないというのに。 私たちは、互いの会話から元気を得、 さまざまな考えに悩まされている気持ちから楽になりたいと思っているのです。 そのようなわけで、 私たちは、とても好む物事や、深く嫌っている物事について語ったり考えたりすることを非常に好むのです。 しかし、悲しいことに、私たちは無目的でいたずらに語ることがよくあります。 この外的な喜びは、内的で聖なる慰めを事実上閉ざしてしまうからです。ですから、無駄に時間を過ごさないように注意して見張り、祈らなければなりません。正しくて適切な語るべきときがきたならば、 人の徳を高めるようなことがらを語りなさい。悪い習慣や霊的な進歩に対する無関心は、 舌からの防御を取り除いてしまう効果があります。 これに対して霊的なことがらに関する熱心な会話は、 霊的な進歩に大いなる助けとなります。 同じ心と霊を持った人々が神にあって集っているときには特にそうです。

平安を得、完全を切望すること
もしも、 他人の言行に対して、私たちが関わりを持たないなら、 私たちはもっと平安を享受することになるはずです。 なぜなら、他人の言行というのは私たちとは無関係だからです。 自分以外の事柄にかかずらっている人、 変わった気晴らしばかり求める人、 そして内的な思索をほとんど行わないような人が、 どうやったら平安のうちに長生きをすることができるでしょうか。
シンプルな心を持つ者は幸いです。 その人は平安をたっぷりと受けるからです。
なぜ、聖徒たちの中にはきわめて完全で、きわめて思索深い人たちがいるのでしょう? なぜなら、彼らは自分の内なる、この世の欲望を徹底的に抑制しようとしたからです。 そしてそのため、彼らは心から自分自身を神に添わせ、 自分の最内奥の考えに集中することが自由にできたのです。
私たちは、自分勝手で気まぐれな空想にあまりにも心奪われてしまい、 過ぎ去る物事に夢中になりすぎています。 たった一つの悪徳に対しても完全な勝利をすることはまれであり、 日々自分をよりよいものにしたいと切望することはありません。 ですから、私たちは冷めており無頓着なままなのです。 もしも私たちが自分の肉体を完全に抑制し、 気をそらすものが私たちの心に入り込むことを許さないなら、 私たちは聖なる物事を識別し、 天のご計画のいくらかを体験することができるでしょうに。
最大の障害は――実際それは唯一の障害でもあるのですが―― 私たちが欲情や情欲から解放されていないということであり、 聖徒の完全な道に従おうとしないということです。 このため、ちょっとした困難に遭うと、私たちは簡単に落胆してしまい、 人間的な慰めに向かうのです。 しかし、もしも私たちが、戦闘中の勇敢な人のように耐えるなら、 天からの主の助けが私たちを確かに支えてくださるでしょう。 というのは勝利の戦いの機会を私たちに与えてくださる神は、 神の恵みに信頼を置き、実行する人々をすぐに助けてくださるからです。
もしも私たちが自分の信仰生活における進歩を、 外面的な観察のみに頼りとするなら、 私たちの信仰はすぐさま終わりになってしまうでしょう。 ですから、情欲から解放されるために根元に斧をあて、 そうして心の平安を得ようではありませんか。
もしも私たちが、毎年たった1個の悪徳を根こそぎにできるなら、 私たちはまもなく完全になるでしょうに。 しかし、実際にはその正反対であることが多いものです―― 私たちは、信仰の歩みを何年も送ってきた現在よりも、 回心当初の熱心だった頃の方が、より善良で純粋だったように感じます。 私たちの熱心さと進歩は日々増し加わっていくべきです。 にもかかわらず、もしもはじめの熱心さの一部分でも保つことができるなら、 今やそれで注目に値すると見なされるのです。
もしも私たちが最初のころ少しだけ自分に対して厳しくしたなら、 後になってすべてのことが簡単に楽しくできたでしょうに。 昔からの習慣を打ち破ることは困難です。 しかし、自分の意志に反することをするのはさらに困難です。
もしもあなたが小さくてささいな事柄に打ち勝つことができないなら、 さらに困難なことにどうやったら打ち勝つことができますか。 はじめの誘惑に抵抗しなさい。 そして悪い習慣から足を洗いなさい。さもないと、恐らく少しずつ、 もっと悪い習慣へと導かれます。
もしも、良い人生がどんな平安をあなたにもたらすか、 そしてどんな喜びを他の人にもたらすかについて、あなたが本当に考えさえするなら、 あなたはもっと自分の霊的な進歩について心にかけるようになる、と私は思います。

逆境の価値
時として試練や困難に合うことは、私たちにとって良いことです。 なぜならそれによって、私たちは見習い中の身であり、 この世のいかなるものにも希望をおくべきではないことを忘れずに済むからです。 親切に、よかれと思ってしているにもかかわらず人々から誤解されたり、 反発に見舞われたりするのも良いことです。 これらのことは、私たちがへりくだり、むなしい栄光から自らを守るのに役立つからです。 表面上は誰からも認められない時、誰からもよく思われない時、 そのような時こそ私たちは心をご覧になられる神を一層求めるようになります。 ですから、人は人間からの慰めを必要としないですむように、神のなかに堅く根を張るべきです。
善良な人が邪悪な思索によってひどく苦しめられ、 誘惑され、悩まされるとき、その人は自分に何よりも必要なのは神であり、 この方なしには何の良いことも出来ないのだとはっきりと悟ります。 そのような人は自らのみじめさと苦しみに悲しんで、嘆き、祈ります。 これ以上生きることに疲れを覚え、消えてなくなりキリストと 共にいられるようにと死を願うようになります。 そのとき、完璧な安全と完全な平安は、 地上には見いだせないのだと、彼ははっきりと理解します。

誘惑に抵抗すること
私たちがこの世に生きている限り、苦しみや誘惑から逃れることはできません。 だからヨブ記にも次のように書かれているのです。 「地上における人間の生活は戦争である。」ですから、すべての人は、誘惑を防ぐ備えをし、 祈りによって注意を払っていなければならないのです。 それは、決して眠らず、むさぼり食らうことができそうな人を求めて歩き回っている悪魔にだまされないようにするためです。 どんな人間であっても、完全ではなく聖なるものでもないので、誘惑されるときがあります。 人は誘惑から完全に自由でいることは不可能なのです。
しかし、誘惑は問題を引き起こし、厳しいものですが、 人にとって有益な場合もあります。 というのは誘惑されたとき、人はへりくだり、きよめられ、教えられるからです。 聖徒はすべて多くの誘惑と試練を通り、そこから益を得てきました。 しかし一方誘惑に抵抗できなかった人々は堕落するようになり、 滅びていきました。 誘惑や試練がやってこないような聖なる状態や、隠れた場所というものはありません。 生きている限り人間は誘惑から安全でいるわけにはいきません。 なぜなら、誘惑は私たちの内側から出てくるからです。 私たちは罪のうちに生まれた者なのです。 誘惑や試練を一つ越したなら次がやってきます。 私たちにはいつも何らかの苦しみがあるでしょう。 なぜなら私たちはもともとの祝福を受けた状態を失っているからです。
誘惑から逃れようとする人はたくさんいますが、 結局いっそう深みにはまるだけです。 私たちは単純に逃げることで誘惑に打ち勝つことはできません。 忍耐と真の謙遜によって、私たちは敵よりも強くなるのです。 誘惑を表面的にだけ避け、根こそぎにしない人は ほとんど進歩することがありません。 実際、誘惑は以前よりも強力になってすぐに戻ってくるのです。
少しずつ少しずつ、忍耐と長い苦しみの中で、 あなたは誘惑を乗り越えていくでしょう。 それは、厳しさや自分勝手で性急な方法によってではなく、 神の助けによってです。 誘惑されたときにはアドバイスを受けなさい。 それから、誘惑された人に対して厳しくあたってはいけません。 誘惑された人に対しては慰めを与えなさい。 あなた自身が誘惑された場合に慰めてほしいと願うのと同じように。
すべての誘惑は、 迷いの中にある心と、神に対する信頼の薄さからはじまります。 ちょうど、舵のない船が波によってあちらこちらに揺さぶられるように、 軽率で優柔不断な人は、たくさんの方法で誘惑を受けることになります。 炎は鉄を鍛え、誘惑は正義を鍛えます。 私たちは自分が何に耐えられるかどうかを知らず、 誘惑が私たちの真の姿を明らかにすることがしばしばあります。
何よりも、誘惑のはじまりに特に注意しなければなりません。 というのは、敵が心に入ってくるところを拒否し、 敵がノックするときに垣根越しに会わねばならないなら、 敵をやっつけることは簡単だからです。
ある人が、たいへん適切にこう言いました。 「最初に抵抗せよ。 対処法はたいそう遅れてやって来る。 ずっと後に対処法がやってきたときには、 悪は力をすでに得てしまっている」 最初に、単なる考えが心に浮かびます。 それから、強い想像がやってきて、 次に快楽、邪悪な喜び、そして悪に対する同意が続きます。 このようにして、その人は、最初に抵抗しなかったために、 サタンは完全に心に入り込んでしまうのです。 そして人が抵抗を遅らせれば遅らせるほど、 毎日その人は弱っていきますが、 その人に対する敵の強さは増大していくのです。
回心の初期に大きな誘惑に直面する人たちもいれば、 終わりごろに直面する人たちもいます。 一方で、人生全体を通じてほぼ絶え間なく誘惑にさらされる人たちもいます。 さらに、誘惑されても軽くすむ人たちもいます。 それは各人の益と状況を考慮にいれ、 神の選民の救いのために全てのことを備えられる神の知恵と正義によるものです。
ですから、誘惑されても落胆すべきではなく、 神に対して、適切な助けを与えてくださるようにとさらに熱心に祈るべきです。 というのは、パウロの言葉によれば、 神は我々が耐えることのできる誘惑を問題になさるからです。どんな試みと誘惑の中にあっても、神さまの御手の中で魂を謙遜にしましょう。 なぜなら、神さまは霊的に謙遜な者を救い、高くひきあげてくださるからです。
誘惑と試練の中で、人の進歩は計ることができます。 誘惑と試練の中でこそ、価と徳を得る機会がさらに明らかになるからです。誘惑に悩むことがなかったら、 熱心で信仰深くなるということは難しくなります。 しかし、逆境の時にも忍耐強くがんばれば、 大きな進歩をする望みがあるでしょう。
大きな誘惑から守られている人であっても、 しばしば小さな誘惑に負けてしまうことがあります。 それは、小さな試練に対する自分の弱さによって謙遜になり、 自分は大きな試練に対する強さを持っているのだ、 などと思い込むことがないようにするためです。

早まった判断を避けること
あなたの注意を自分自身に向け、他人の行いを裁かないよう気をつけなさい。 なぜなら、他人を裁く時、人は空しい働きをするのであり、間違いを犯すことも多く、 またいともたやすく罪を犯すものだからです。 一方で、自分自身を裁き、吟味する人は、いつでも有益なことをしています。
私たちは物事を自分が願うように判断しがちなものです。 なぜなら個人的な感情のなかで正しい物の見方は簡単に失われてしまうからです。
もし神が私たちの願いの唯一の対象であるなら、 自分の意見に反対されたからといって簡単に平安を失うはずはありません。 しかし内側に何かが潜み、あるいは何かが外側から起こり、 私たちをそれと一緒に引き寄せてしまうことがよくあるのです。
気づかないままに、自分が行うことのなかに自らを求める人が大勢います。 自分の願いや好みの通りに物事が進む時に安心を覚えることさえあるようです。 しかし自分の願うようにならないと、まもなく平安を失い悲しみに暮れます。 感情や意見の違いは周囲の人々を分裂させます。宗教的で敬虔な人たちであってもです。
古い習慣はなかなか直らないものです。 そして誰しも、見えないところまでは導かれたがらないものです。
もしあなたがイエス・キリストへの従順の美徳よりも、 自分の知性や勤勉さに依存するなら、賢明な人になることはまずないでしょう。 なるとしても、それはゆっくりとしか起きません。 神は私たちが完全にご自身に従うようになることを願っておられ、 熱心な愛を通してすべての人間の知恵を越えることを願っておられます。

愛のうちになされる行い
この世のどんなもののためであっても、 また誰を愛するためであっても、絶対に悪を行なってはいけません。 しかし、困っている人のためには、良い行ないを敢えてそのままにしておいたり、 さらに良いものと取り替えたりするほうがよいこともあるでしょう。 これは良い行ないを切り捨てているわけではなく、 むしろ良い行ないをさらに改善するためだからです。愛がなければ、外面的な行ないには何の価値もありません。 しかし愛をもってなされたことは、 たとえそれがどんなに小さくて些細なことであっても完全に実を結びます。 なぜなら、神は行ないそのものよりも、 行なったときの愛を測られるからです。
たくさんのことを成し遂げるのは、たくさん愛する人です。 たくさんのことを成し遂げるのは、一つのことをうまく行なう人です。 うまく行なう人というのは、 自分自身の利益ではなく皆の益のために仕える人です。
さて、愛のように見える事柄が、実は官能にしか過ぎないことはよくあります。 自分の性癖や願望、報酬への期待、私利私欲が、往々にしてその動機になって いるからです。反対に、真実で完全な愛を持つ人は、 何ものにも自己を求めようとしません。ただ全てのことを神のご栄光のゆえに 追求します。さらに、そのような人は誰のこともうらやみません。 なぜなら、その人は個人的な愉しみを願うのではなく、また自分のなかに喜びを 見いだそうというのでもなく、ただ何よりも、神のさらなるご栄光を 願うからです。彼は人にはどんな良いものも帰しません。 ただ全てを完全に神に帰します。 泉から流れ出るように、全てのことがこのお方から発し、全ての聖徒たちは このお方のもとで喜び憩うのです。 (以下のベンハム訳を参考にしましたが、かなり苦しいかも。後から頭冷やしてもう少し 考えます。)もし人が真の愛の輝きを持たないのなら、地上の全てのものは まったくむなしいと、確かに感じることでしょう。

他者の欠点を負うこと
神が他のことを特に命じるのでない限り、 自分や他者のうちにみられる修正できないものは、 何であれ忍耐強く負うべきです。 ですから、たとえば自分の忍耐を試し、 あなた自身を吟味するには、その方が良いのだろうと考えなさい。 というのは、そのような忍耐や試練なしには、 あなたの長所に価値はないからです。 とはいえ、そのような困難のもとでは、 あなたがそれらの欠点を冷静に負えるよう、 神の助けを求めて祈るべきです。
一、二度訓戒を受けた後でも、その人が改心しないのならば、 彼と言い争ってはいけません。 その問題はすべて神に委ね、神の御心と栄誉とが、 神の全ての僕たちの間にさらに現されるようにしなさい。 神は、どうやって悪を善に変えるのかを、よくご存じだからです。 他者の欠点や弱さを、それが何であれ、忍耐強く負うように努めなさい。 なぜならば、あなた自身も、他者が耐えねばならない多くの欠点を持つ身だからです。
もしあなたが、自分が願うような者に自分自身を変えることができないなら、 どうして他人を自分の思いのままに曲げることができるのですか。 私たちは他人が完全であることを求めるくせに、 自分自身の欠点を正すことはできません。 私たちは他人が厳しく矯正されることを望むくせに、 自分自身を矯正しようとはしません。 他人の自由は不愉快に思うくせに、 自分の求めは拒否されたくありません。 他人のことは律法で縛ろうとするくせに、 自分のことは何ものにも縛られたくないのです。 このように、私たちが自分のことを思うように他者の ことを考えることは滅多にないことは明らかです。
もし皆が完璧なら、 神のために他者からどのような苦しみを受けることが出来るでしょうか。 しかし神は、互いの重荷を負うことを学びなさいと私たちに命じられました。 欠点のない人、重荷を持たない人、一人でやっていける人、 十分に賢い人、そのような人はいないのです。 ですから私たちは互いに支え合い、 慰め合い、助け合い、相談し合い、助言し合うべきです。 人の美徳というものは、逆境のなかで一番よく現されます。 逆境は人を弱くするのでなく、 むしろその人の姿を浮き彫りにするからです。

修道生活
あなたが平和と他者との調和を願うなら、多くのことにおいて自分の意志を 曲げることを学ばなければいけません。 修道院や宗教的な共同体で暮らし、不平を持つことなく そこにとどまり、死ぬまで忠実に耐え抜くことは、容易なことではありません。 そこで良い人生を生き、そこで幸福のうちに終わりの日を迎えることの 出来る人は本当に幸いです。
もしあなたが忍耐をもって完全を追い求めるつもりなら、 自らを巡礼者、地上における追放者とみなすべきです。 もしあなたが敬虔な人になるつもりなら、キリストのために 愚か者と見なされることに満足すべきです。 人は修道衣や剃髪によってはほとんど変えられません。 変えられた人生や完全な禁欲こそが真の敬虔さを生むのです。
己れの魂の救いと神のみを求めない人は、悩みと嘆きしか 見いださないでしょう。そして一番小さき者、すなわち万人の 僕になろうとしない人は、長きにわたって平安を保つことが出来ません。
あなたは仕えるためにやって来たのです。治めるためではありません。 またこのことも理解しなさい。あなたが召されたのは苦しみ、 労するためであり、怠けたり噂話で時間を無駄にするためではないのです。 ここでは、人は炉のなかの金のように試されます。 ここでは、心の底から神の前にへりくだることを願う人でなければ、 とどまることは出来ません。

聖徒により示されたお手本
本当の完全と宗教の光を持った聖徒たちが残した生きたお手本を考えるときに、 いかにわれわれが無に等しいかわかるものです。 彼らの命に比べると、 ああ、私たちの命はなんなのでしょう? 聖人たちや、キリストの友たる人々は、飢え、乾き、寒さ、裸の中で、仕事場でも疲れていても、 祈りや聖なる瞑想の中でも、迫害と困難の中でも、夜を徹する祈りや断食の中でも、主に仕えました。 使徒、殉教者、懺悔者、修道女、そのほかすべてのキリストの足跡に自ら従った人たち ―― 彼らが苦しんだ試練は、どれだけ多く、過酷なものだったことでしょう。 彼らはとこしえの命を得るために、地上での命を憎みました。
砂漠で人から離れて生きるとはいかに厳しく、 物事にとらわれない生活だったことでしょうか! 彼らが受けた誘惑は、なんと長く重苦しいものだったことでしょう! なんど敵に取り囲まれたことでしょう。 どのよう熱心な祈りがなんどもささげられたことでしょう! 過酷な断食を行ったでしょう! 彼らの精神的な完璧を求める愛と情熱はいかに大いなるものだったでしょうか! 自分たちの悪い習慣や癖をやめるための霊的戦いはいかに勇敢だったことでしょう! 神に対してかれらが示したものはなんと純粋でごまかしのない目的だったでしょう! 昼間は、働き、夜には長い祈りのため時間を費やしました。仕事場においてさえ、 霊のいのりを続けました。時間のすべてを有効に使いました。 神に仕えるためには1時間は短く感じられ、 主と交わる瞑想の中では寝食も忘れるほどでした。
彼らは、すべての豊かさ、威厳、名誉、友人、知人を否定し、捨ててしまいました。 彼らはこの世の何も求めませんでした。 彼らは生きていくために必要なものさえほとんど持たず、 肉体を維持することはたとえそれが必要なときにおいてさえ、 退屈なものとなりました。 地上での生活は貧しかったにもかかわらず、恵みと人徳においては豊かでした。 外面は見捨てられたものでしたが、内面は恵みで満たされ、聖なる慰めがありました。 この世においてはよそ者でしたが、神さまとは親しく、神さまの近しい友となりました。 彼ら自身にとっては、世に捨てられ、ゼロに等しいものでしたが、 神の目から見ると、高価で大切なものと映りました。 彼らは真の謙遜と素朴な従順のなかに生きました。 霊的な人生への道を日々前進し、 神から偉大なる恩寵をいただきつつ、愛と忍耐のなかを歩んだのです。
この人たちは、すべての信仰者にとってのお手本となり、 私たちを完璧へと導く彼らの力は、 不熱心な者が私たちを放縦へと誘惑する力よりもはるかに優れています。
初期のころの聖なる習慣はなんと熱心な事だったでしょう! 祈りへのデボーションや徳を求める競争は大いなるものでした。 彼らの間で花開いた自制心は何とすばらしいものだったことでしょう! 上に立つ人の支配のもとで、なんと素晴らしい尊敬と従順とが万事において見られたことでしょう! 彼らが残した足跡は、彼らが本当に聖く完全な人々であり、 この世と勇敢に戦い、この世に打ち勝ったことを今なお証しています。
今日、罪を犯さず、忍耐強く自分の責務を果たす人は大いなる人と見なされます。 私たちはなんと不熱心であり、怠惰な者でしょう! 私たちは情熱をなんと早く無くし、怠惰な生活に何と早く流されて疲れてしまうことでしょう! このように熱心な先駆者たちのお手本を学んだ私たちは、 まどろむことなく、徳を求め続けなくてなりません。

孤独と沈黙を愛すること
静まるためにふさわしい時間を求め、 神の恩恵について何度も思いを巡らせなさい。 好奇心を満たそうとしてはいけません。 心を占領するようなものよりも、心に悲しみをもたらすものを読みなさい。 不必要なおしゃべりや、 目的もなく走り回りゴシップや噂ばなしに耳を傾けることから身を退けるなら、 聖い黙想に適した時間を十分にとることが出来るでしょう。
偉大な聖者の多くが、出来る限り人と付き合うことを避け、 ひそかに神に仕えることを選びました。 ある人はこのように言いました。 「人と交われば交わるほど、その後で空虚感を覚えました」 長い会話をした後に、これが確かに真実であることを私たちもよく経験します。 あまり話さないでいるよりは、完全に沈黙を保つ方が簡単です。 十分に警戒しながら外出するよりは、家に留まる方が簡単です。 ですから、誰でも内面的で霊的な生活を目指す人は、イエスとともに、 群衆から離れなくてはなりません。
まず無名であることを享受するのでなければ、 誰も世間の目の前に安心して出ることはありません。 まず無口であることを愛するのでなければ、 誰も安心して話すことはありません。 まず喜んで治められるのでなければ、誰も安心して治めることはありません。 まず従うことをよく学ぶのでなければ、誰も安心して命令することはありません。 まず良心の証を自分のなかに持つのでなければ、 誰も安心して喜ぶことはありません。
これ以上に、 聖者が安全でいられるのは神への恐れのなかにいつも包まれているからです。 聖者の安全は、 注意が足りないことや、謙遜が足りないことの中にあるのではありません。 彼らは素晴らしい美徳や恵みに輝いているからです。 これとは反対に、 邪(よこしま)な者の安心はプライドや傲慢から生じ、 しまいには自己欺瞞に陥いるでしょう。
この世のいのちにおいて決して自分に安全を約束してはいけません。 たとえあなたがとても敬虔で熱心な隠遁者であると思ってもです。 人々から高い評価を得ている人ほど、過剰な自信のゆえに より深刻に危険な状態にあるということがよくあります。 ですから、誘惑からあまり自由になり過ぎない方が、 多くの人にとってはいいのです。 安全になり過ぎたり、プライドに満ちたり、 外的な快適さをしきりと求めるようにならないために、 たまには試練があるくらいの方がいいのです。
はかない喜びを求めたり、 この世的なことがらに自分から深く関わったりさえしなければ、 その人はどれほど健全な良心を持つでしょう。 全ての空しい心配事から自らを切り離し、 ただ神に関することがらや己の魂に役に立つことだけを考え、 全ての信頼を神に置くのなら、 どれだけすばらしい平安と静寂を自分のものにできるでしょう。
人が絶え間なく自らを聖なる悔い改めに向かせるのでなければ、 誰も天からの慰めを受けるに値しません。 あなたが真の心の悲しみを願うのであれば、 一人きりになれる小部屋に入り、世の中の喧騒を閉め出しなさい。 このように書かれている通りです。 「自分の部屋で自らの罪のために嘆き悲しみなさい」 そこではあなたが頻繁に外で失うものを見つけるでしょう。
その小部屋は、もしあなたがそこに留まるのなら、 あなたにとってとても大切なところになるでしょう。 しかし留まらないなら、退屈な場所になります。 あなたの信仰生活の初めにおいて、 あなたが小部屋のなかに住み、そこから離れないなら、 まもなくそこは特別な友となり、大変な慰めとなるでしょう。
沈黙と静けさのなかで、敬虔な魂は徳を高め、 御言葉の隠された真理を学びます。 そこでその人は夜ごとに自らを洗い清める涙の洪水を経験します。 それによってその人は父なる造り主と一層近密な関係を持つようにと、 この世の騒ぎから一切身を引くのです。 というのは、神とその御使いたちは、 周囲の人々から身を避ける人に近付いてくださるからです。
人にとって、人目につかないようになり、 自らの救いに注意をはらう方が、 救いを無視して奇跡を行うよりも良いのです。 敬虔な人が滅多に外出せず、 人々の目を避け、人々に会わないように願うのは、 誉めるに値することです。
なぜ持つことを許されないものを見たがるのですか? 「この世とその情欲は過ぎ去ります」 官能的な渇望は、時として、あなたを魅了し、あなたをさまよわせます。 しかしその瞬間が過ぎるとき、困惑した良心と重たい心の他に、 何を持って帰るというのですか? 喜んで出かけても、往々にして悲しんで戻ることになるのです。 陽気な夕べから悲しみに沈んだ夜明けへとです。 このように、 全ての肉的な喜びは好ましいものとして始まりますが最後には嘆きと死をもたらすのです。
あなたの小部屋で見つからないものを、他のどこで見つけることができるでしょうか? 天と地と、そこにある全ての要素を見なさい。 全てのものはそれによって造られているからです。 長く残るものを、太陽が照らしているどこかに見つけることは出来るでしょうか? あなたは自分では完全に満足していると思うかもしれませんが、 それはあり得ないのです。 なぜなら、存在するもののすべてをあなたが見たとするなら、 それらは空しい幻以外の何ものでもないからです。
あなたの目を天におられる神に向けなさい。 そしてあなたの罪と欠点のゆえに祈りなさい。 空しいことは、空しい人々にまかせなさい。 あなた自身は、神があなたに命令していることに心を向けなさい。 あなたの前で扉を閉め、愛するお方であるイエスを呼びなさい。 あなたの小部屋でイエスと共にとどまりなさい。 そのような平安は他のどんな場所にも見いだせないからです。 もしあなたがそこから離れず、空しいうわさ話に耳を貸していなかったなら、 あなたはさらに深い平安のなかにとどまっていたことでしょう。 しかしあなたは新しい話を聞くのを喜ぶことがあるので、 そのせいで心の悲しみに苦しむのは当然のことなのです。

心の悲しみ
もしもあなたが、徳のうちに進みたいと願うならば、神を畏れて生きなさい、 あまりに多くの自由を求めてはいけません、あなたの感覚を鍛錬しなさい、 そして空虚で愚かなことを避けなさい。悲しみはふしだらをいつも滅ぼす 多くの恵みにドアを開けます。
亡命国で熟慮し、深く考える人やその人の魂の多くの危険が完全にこの 生涯で幸せになりえることができるかはわかりません。私達は魂の本当の悲しみを感じることはありませ ん、しかし私達は涙を流すよい理由があるとき、しばしば空虚な笑いにふ けります。もしも神への畏敬や良い分別に基づかれていなければ、自由が ないのが真実であり、喜びがないのが真です。
幸せはあらゆる心配の重みから抜け出し、聖なる悔恨に心を落ち着かせ ることのできる人です。幸せは良心を傷つけたり苦しめたりする全てを彼 から打ち破る人です。
家臣のように戦いなさい。習慣は習慣で克服されます。もしもあなたが人に 干渉しないならば、彼らはあなたがしなければならないことをするためにあなた を干渉しないでしょう。他人の事情について忙しくするのはやめなさい。あなた の上司の仕事に巻きこまれるのはやめなさい。第一にあなた自身に目を向け 続けなさい。あなたの友人の代わりにあなた自身を気づかせなさい。
もしもあなたが人の親切を経験しないならば、あなたを悲しませることはあり ません。もしもあなたが神に仕える人や敬虔な修道士にふさわしい注意深さ と同様にふるまわなければ、深刻な問題だと考えます。
この生涯で慰めがほとんど無い方が、特に体の慰めが無い方が私達にとって しばしばより良く、安全です。しかし、もしも私達が慰めを分かち合わなければ また、それをめったに経験しなければ、心の悲しみを捜さずに中身の無い見せ かけの満足をやめない私達のせいです。
かなりの苦しみより神の慰めや深い悲しみに価値が無いと考えなさい。人が完 全に悔恨する時、世界全体が彼にとって苦しく、うんざり感じます。
良い人はいつも十分嘆き悲しむことをわかります。彼は彼自身あるいは誰も苦し みを経験することなしに生きることはできないことを知っている隣人かどうかを考 えます。そして、彼はきわめて自分自身を考察し、もっと彼は深く悲しみます。
とても混乱しているので私達は私達自身を神の考えにめったにむけないことは 罪であり悪です。そして、悲しみや深い悔恨にあります。
長い人生より早い死を考えるならば、きっとあなたはあなた自身を真剣に 罰するでしょう。そしてもしあなたが、地獄あるいは浄罪界の未来の痛みを心に あれこれ考えるならば、進んで骨の折れる仕事や困難に耐え、困難を恐れない だろうと信じます。しかし、この考えは決して心を突き進むことがないので、 また私達は気休めの喜びに心を奪われるので、私達はとても冷たく、無頓 着のままでいます。私達の惨めな体が魂があまりに活力がなさすぎるので 簡単に訴えています。
主に祈りなさい。それゆえに、主はあなたに悔恨の聖霊を与えるでしょう。 預言者に言いなさい。「慰めてください、主よ、悲しみのパンで十分な慎みの涙 飲むことで与えてください。」

第22章 人の苦しみについて
どこにいようと、どこに行こうと、神に向き合わない限りあなたは 不幸だ。だから、願い望んだことが起こらないからといってどうして 落胆することがあろうか。すべての願いが叶えられた人などいるだろ うか。いや、いない。わたしもそうでないしあなたもそうでない。地上 のどこにもそんな人はいない。世界中の誰もローマ教皇だろうが 王だろうが、試練や苦悶を免れることはできない。
では、最も幸せなのはどんな人だろうか? それは、何かを神のために犠牲にする人に違いない。 不安定な心弱き人は言う、「あの 人を見たまえ、なんと頑健で、なんと豊かで、なんと偉大で、なん と力に満ち溢れているか」しかしあなたは目を開いて天の富を知ら なければならない。そうすれば物質的な豊かさについての彼らの言 い分が無意味だと悟ることができる。これらのものはうつろい易い うえにひどく負担になる。なぜなら所有することには心配と恐怖も またつきものだからである。物をたくさん持っている人が幸福とい うわけではない。所有する物はほんの少しで十分なのである。
地上に生きることは全く不幸である。霊的な生活を望めば望むほど、現状は 当人にとって苦々しく映る。なぜなら霊的な生活を望む人は理解深く、人の 生まれ持った堕落しやすい性質という欠陥を一層はっきり知覚するからで ある。飲み食い、見て眠り、休息し労働し、他人の要請に縛られているの は、信心深い人には甚だしく不幸で苦痛である。そういう人は全ての罪か ら自由になることを切望しているものだ。内面に信仰のある人間は肉体が 必要とするものによって現世にかたく縛られている。それ故に、預言者は できるだけ自由になるために「私に必要なものを、主よ、与えたまえ」と 祈ったのである。
しかし哀しいかな、自らの苦しみを知らない人達は、そして一層哀しい かな、そのみじめで堕落しやすい生活を愛している人達は。そうした人達の一部 は、労働によっても物乞いによっても必要なものをほとんど入手できない人達な のである。しかし彼らは現状に愛着しており、仮にここに常に住むことを 得たとしても、彼らは決して神の国を顧みない。
なんと愚かで不信心なのであろうか、世俗的な価値しかないものを 好む、現世の暮らしに夢中な人間は! 不幸な人間よ、最後にはきっと、 自らが切望して得たはすのものがどんなに安っぽく価値のないものかを 知って後悔する羽目になるのだ。
神の使徒たちとキリストの敬虔な友たちは肉体の喜びにもその時々の流行 にも目をとめない。彼らの望みと目的はひたすら永遠の善というものに向けられ ている。彼らがひたすらに切望するものは目に見えない永遠の王国であり、低俗 なものごとに彼らを引きずりおろす目に見える障害には決して近づかない。
魂を見失うなかれ、きょうだいよ、霊的な生活を追求するさなかには。 時間はある、遅すぎはしない。目的の実現を遅らせるのはなぜだ?  起ちて今すぐ始めなさい。「今が実行する時だ、今が戦いの時だ、 改めるのは今だ」
あなたが悩み苦しむとき、それは徳を積むときである。あなたは安息 の前に水と火をくぐりぬけなければならない。自らに鞭打つことなし に悪徳に打ち勝つことはできない。
この壊れやすいからだのなかにある限り、われわれは罪から自由に なることも、憂い悔いることなく生き続けることもできない。すべて の苦しみと無縁でいられたらどんなにうれしいだろう。しかし罪に染 まり無垢さを失ったいま、また真なる至福も失われた。ゆえにわれわれ はこの悪しきものが通りすぎるまで、死がわれらの運命を飲みこむまで、 辛抱強く神の慈悲を待たねばならない。
人の性質とはなんと弱いものか、これほど悪に染まりやすいとは。今日罪 を告白するあなたは、明日にはもう同じ罪をまた犯す。注意深くあろうと 決意した瞬間のわずか一時間後には、せっかくの決意を無にした振る舞いに戻る。
われわれには自らを貶める原因がある。それは意志の弱さと肉体の もろさであり、そのために、自らのうちの偉大なるものを決して顧 みることがない。長く辛い労働を通じてのみようやく得られた神の 恩寵をわれわれは怠慢によってたやすく失う。何という生温さで あろうか、われわれが速成されるであろう最終的状態は。なんと 哀しいのであろう、真の神聖さはかけらもない現世で、平和と安全 のうちに安息を夢みるわれわれは。良い修練者のように、 良い生活というものの規範の中で再び導かれ、 将来の改心と大いなる霊的な進歩を期待される方がずっと有益であっただろうに。

死についての考え
この世界でのあなたの命は、もうすぐ終わるでしょう。 ですから、自分のために別世界に何を貯えられるかを考えなさい。 今日、私たちは生きています。 明日、私たちは死に、あっという間に忘れ去られます。 ああ、人間の心は何と鈍感で、頑固なことか。 将来に備えようとせず、ただ現在だけを見ているとは。
ですから、何をするときでも、何を考えるときでも、 あたかも今日という日に自分が死ぬかのように振る舞いなさい。 もしあなたが正しい良心を持っているなら、死をそれほどは恐れないでしょう。 死を恐れるよりも、罪を避ける方が良いことです。 もし、今日、用意ができないなら、どうして明日、用意できるでしょう。 明日というのは不確かな日です。 どうしてあなたは、自分に明日という日がある、と思うのですか。
私たちが人生を正しく改めることがこれしかできないなら、 長い人生を生きることにどんなよいことがあるでしょうか。 ああ、実際、長い人生が常に私たちにとって益となるとは限りません。 その反対に、私たちの罪を増し加えることが多いものです。 この世において、私たちは、たった一日でも、 本来そのようにあるべき形で、正しく生きたことがあったでしょうか。 多くの人が、自分が宗教に費やした年月を数え、 自分の生活がちっとも聖なるものになっていないのに気がつきます。 もしも、死ぬのが恐ろしいことなら、 おそらくは、長く生きることはもっと恐ろしいことでしょう。 自分の死の瞬間を常に目の前に描き続け、自分の死に日々備えるのは幸いな人です。
もしも、人が死ぬのを見たことがあるなら、あなたも同じ道をたどるというのを忘れてはなりません。 朝が来たら、自分は夜までは生きていないかもしれない、と考えなさい。 夜が来たら、明日の明け方を約束するのはよしなさい。 いつも、備えていなさい。 備えができていないあなたを死が連れ去らないように生きなさい。 多くの人が、突然、予想もしないときに死にます。 神の御子は予想もしないときに来られるのです。 最後の時があなたに訪れたとき、 あなたは過ぎ去ってしまった自分の全人生についてまったく異なる考えを抱きます。 どれほど自分が、うかつで、だらしなく生きてきたかを悔やむでしょう。
何と幸せで、何と賢明な人でしょう。 死ぬ時にはこうでありたいと願うような存在に、 生きている今のうちになろうと努力する人は。 この世を完全に軽視すること、 徳において前進するのを心から願うこと、 修養を愛すること、 懺悔、即座の従順、自制、そしてキリストの愛のためにどんな困難でも忍耐すること、 これらによって人は幸福な死を期待することでしょう。
健康なとき、あなたはたくさんのよい行いをすることができます。 病気なら、あなたは何をすることができますか。 病によって善良になる人はほとんどいません。 同じように、たくさん巡礼の旅をして聖くなる人もめったにいません。
友人や親戚に信頼を置かないようにしなさい。 また自分の魂に気を配ることを後まわしにしてはいけません。 人は、あなたが考えているよりも早くあなたのことを忘れてしまうからです。 いますぐに、時を移さず備え、 他の人の助けを当てにしないほうがいいのです。 あなた自身が自分の幸福に今気を配らないとしたら、 あなたが死んだときにだれが気を配るというのでしょう。
現在はとても貴重です。 現在は救いの日であり、 今は喜びの時です。 もっと良い永遠の人生を買うことができたかもしれない時を、 あなたが逃してしまうなら、 それは何と悲しいことでしょう。 もう一日生きる時間が与えられたら、 もう一時間やり直す時間が与えられたらと望むときがやってきます。 あなたはその時間が与えられるかどうか知っていますか。
ですから、愛するあなたよ。 もしも、あなたがいつも慎重であり、死を忘れないようにしさえすれば、 逃れることのできる大きな危険と、 救い出される大きな恐怖をよく見なさい。 死の瞬間に恐れが満ちるようにではなく、 死の瞬間でも喜んでいられるように、現在を生きなさい。 この世に対して死ぬことを、いま学びなさい。 そうすればあなたはキリストとともに生き始めるでしょう。 すべての物を捨て去ることを、いま学びなさい。 そうすればあなたは解放されて神のところへ向かうでしょう。 あなたの肉体を懺悔によって厳しく責めなさい。 そうすればあなたは確かな生を勝ち得るでしょう。
ああ、おろかな人よ。 たった一日ですら生きられるかどうか確かではないのに、 どうしてあなたは長生きする計画を立てるのですか。 どれほど多くの人が思い違いをして、急に命を失うことでしょう。 あなたは、 溺れて死んだ人、高いところから落ちて死んだ人、 食事中に・遊んでいるときに・火事で・剣で・疫病で・あるいは強盗の手で死んだ人の 話をどれほどしょっちゅう耳にするでしょうか。 死はすべての人の終わりであり、 人の命は影のようにさっと過ぎ行くものなのです。
あなたが死んだあと、誰があなたのことを思い出してくれるでしょうか。 誰があなたのために祈ってくれるでしょうか。 愛する者よ、あなたができることを今、しなさい。 自分がいつ死ぬのか、あなたは知らないし、 死んだ後、自分がどうなるか、あなたは知らないのです。 時間があるうちに、朽ちることのない財産を自分のために貯えなさい。 ただ、自分自身の救いのことを考えなさい。 神に関わる事柄のみに心を砕きなさい。 神の聖徒を敬い、彼らの歩みにならって友人を作りなさい。 そうすれば、命の尽きるとき、 彼らはあなたを永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。
この世では、よそ者であり続け、巡礼者でありつづけなさい。 心を自由に保ち、神のもとへ上げなさい。 あなたはこの地上には永らえる家を持っていないからです。 日々の祈りを、あなたのため息を、あなたの涙を直接神にささげなさい。 そうすれば、あなたの魂は死んだ後、 主のみもとで幸福にすごすことでしょう。


裁きと罪の罰
すべてのことにおいて、終末を考えに入れなさい。 何も隠すことができず、 わいろも言い分けも通用しない、 すべての公正なる裁きをなさる、あのお方の厳しい審判の前に、 どのようにして耐えることができるでしょうか。 そして、あなたよ、みじめで不幸な罪人であるあなたよ、 怒った人の表情すら恐れているあなたよ、 あなたのすべての罪をご存知の神に対してなんと答えるつもりですか。 どうしてあなたは、裁きの日のために備えないのですか。 その日には、どんな人も言い訳したりできず、誰しも自分の答えをするのに手一杯なので、 誰かに弁護してもらったりすることもできないというのに。 この人生において、あなたの労苦は報われ、 あなたの涙は受け入れられ、あなたのため息は聞かれ、 あなたの悲しみは慰められ、きよめられます。
忍耐強い人というものは、 次のようなときに大きくて有益な苦難を通ります。 それは、自分自身の傷よりも 自分に傷を負わせた人の悪行のことを嘆くとき。 彼が自分の敵のことをさっと祈り、 敵の攻めに対して心から赦すとき。 彼がためらわずに他の人の赦しを請うとき。 怒りよりも哀れみのほうが心を動かすとき。 自分自身を頻繁に責め、 肉体を完全に霊に従わせようとするとき。
罪の悔い改めをして悪徳を刈り取ることを現在おこなうほうが、 来るべき世において魂の浄化をするのを待つよりも良いのです。 実際、私たちは肉体を愛する誤った助言によって 自分自身をあざむきます。 かの炎は我々の罪以外の何を燃料とするでしょうか。 私たちが自分自身を惜しめば惜しむほど、 肉体を満足させればさせるほど、 清算するのは困難になり、 炎で燃やされるものが多くなるのです。
というのは、人は自分が罪をおかした事柄において、 よりひどく罰をうけるようになるからです。 そこでは、怠け者は炎の先端に駆り立てられ、 大食らいの人は話すことすらできないほどの空腹と乾きに苦しめられるのです。 不貞を働く人や肉欲を愛する人は、 燃えるピッチとむかつく硫黄に浴することになります。 ねたみ深い人は、 狂った犬のように嘆き吠えるでしょう。
いかなる悪も、それに応じた罰を伴うものです。 高慢な人は、あらゆる混乱に直面するでしょうし、 欲深な人は、最高にみじめな貧困に苦しむでしょう。 1時間あちらで苦しみを受けることは、 100年間こちらでもっとも厳しい懺悔を行うことよりもつらいでしょう。こちらの生活では、人はときどき労働から解放されて友からの慰めを受けますが、欲望を持つ人々は、休息を得ることや慰めを得ることはありません。
ですから、あなたがたは、いま自分の罪を取り扱い、悔い改め、 裁きの日には恵みによって安息に入ることができるようにしなければなりません。 貧しい者、へりくだるものは、大きな確信を得るでしょう。 一方、傲慢な者は恐怖に打たれるでしょう。 そのときになると、 この世においては愚かとされ、 キリストのために軽蔑されるような人が、 実は賢明だったのだということが明らかになるでしょう。
その日には、すべての忍耐の中から生まれた試練は喜ばしいものとなり、 邪悪な声は沈黙するでしょう。 信仰深い者は喜び、不信心者は嘆くでしょう。 はずかしめを受けた体は、 ありとあらゆる快楽で甘やかされてきた体よりも、 はるかに大きな喜びを得るでしょう。 そのとき、安っぽい衣装は堂々と輝き、 立派な衣装は色あせ、すり切れるでしょう。 貧相で小さな家は、黄金の宮殿よりも賛美されるでしょう。 その日には、辛抱強い忍耐力はこの世のすべての力よりも重要なものとされるでしょう。 愚かなまでに一途な従順は、この世的ないかなる賢明さよりも高められるでしょう。 善良できよい良心は、学識のある人の哲学よりも、人の心を喜ばせるでしょう。 財産を軽視する態度は、この世のすべての宝よりも重用になるでしょう。
そしてあなたは、優雅に暮らすことよりも、熱心に祈ることのうちに、 さらなる慰めを見出すでしょう。 あなたは、 だらだら続く噂話よりも沈黙を好むほど 幸せになるでしょう。
多くのきれいな言葉よりも、聖なる働きは大きな価値を持つでしょう。 人生の厳しさと激しい懺悔は、 すべての世俗的な喜びよりも喜ばしいものとなるでしょう。
ですから、現在のささやかな苦しみを受けることを学びなさい。 そうすれば、より大きな苦しみを永遠において受けることはないでしょう。 ここで、自分が何に耐え得るかを示しなさい。 現在、ほんの小さな苦しみにしか耐えられないなら、 どうして永遠の苦しみに耐え得ることができるでしょう。 もし、小さな苦しみにいま耐えられないなら、 地獄の炎はどうなるでしょう。 実際、あなたは二つの喜びを持つことはできません。 この世の喜びを味わうことと、 後の世にキリストとともに統べ治めることを同時に行うことはできません。
今、この時、あなたの人生が栄光と歓喜に満ちているならば、 もし、あなたが死んだ瞬間、それが何の益になるでしょう。 ですから、すべてはむなしいのです。 ただ、神を愛することと神に仕えることだけがむなしくありません。
心の底から神を愛する人は、 死を畏れず、罰や、裁きや、地獄を恐れません。 なぜなら完全な愛が神との結びつきを保証するからです。
罪の喜びの中にまだいる人が、 死や裁きを恐れることは不思議ではありません。
しかしながら、これはいいことです。 愛がまだあなたを悪に向かうのを引き止めないとしても、 少なくとも地獄に対する恐怖はあなたが悪に向かうのを引き止めるというのは。 神への畏れを脇に投げ捨てるような人は、良いことのうちに永らえることはできず、 あっというまに悪魔の罠におちいってしまうでしょう。

自分の人生を熱心に改めること
注意深く、神の奉仕に熱心でありなさい。 そして、自分はなぜ世俗を離れて、ここに来たのかを頻繁に考えなさい。 神のために生き、霊的な人間になるためではなかったのですか。 完全になることを心から求めて努力しなさい。 そうすれば、そしてまもなくあなたは自分の働きの報酬を受け取るのであるから、 恐れや悲しみが死の時にあなたを襲うことはないでしょう。
いま少し働きなさい。 そうすればまもなくあなたは大いなる休息を見出すでしょう。 実際、あなたが見出すのは永遠の喜びです。 というのは、もしもあなたが信仰深くあり、行ないにおいて熱心であり続けるなら、 神は疑いもなく報酬を与えるときにおいても真実で気前のよい方だからです。 救いを得ているというしっかり筋の通った望みを持ち続けなさい。 しかし、 あたかも救いを得るのが当然であるかのように振舞ってはいけません。 それは、怠慢になったり傲慢になったりしないためです。
ある日のこと、 希望と恐怖の間を心配のうちにしょっちゅう揺れ動いている人が、 悲しみで打ちひしがれていました。 彼は、教会の祭壇の前でひざまずき敬虔な祈りをささげました。 あれこれと瞑想にふけりながら、彼はこう言いました。 「ああ、もしも私が最後まで屈せずにやり遂げるかどうかを知ることさえできればなあ!」 即座に彼は神の答えを聞きました。 「もしあなたがそのことを知ったからといって、どうしようというのですか。 そのときにあなたががするであろうことを今、しなさい。 そうすればあなたはまったく心配することがなくなるでしょう。」 すぐに慰めと平安を受け、 彼はその神のご意志に身をゆだね、悩ましい不安定さはストップしました。 それ以降、彼の好奇心は自分の未来がどうなるかを知ろうとすることをやめました。 彼はその代わり、 すべての良き働きの初めであり終わりである、完全で欠けることのない神のご意志を 探し求めるようになりました。
自分の生活を熱心に改めることから多くの人をそらしてしまう1つのことがあります。 それは困難なことに対する恐れであり、戦いに対する苦労です。 確かに、最も大きな困難や不愉快な障害に対して勇敢に打ち勝とうと努めている人は、 徳を追求することにおいて他人を追い抜くことになります。 人というものは、自己に対して最も打ち勝ち、自分の望みを最も抑制した事柄において 最大の前進をし、最大の恵みを確実に受け取ることになるのです。 そうです。 直面して勝利をおさめねばならないような困難が、どんな人にもそれぞれにあります。 しかし、たとえ感情に走り勝ちであっても、勤勉で誠実な人のほうが、 落ち着いているけれど徳についてあまり気にかけない人よりも、大きく前進するものです。
特に大きな進歩となるのは次の2つのことです。 それは、自然的な性向によってしつこく陥る傾向のある悪徳から強制的に撤退することと、 最も必要な恵みを求めて熱心に働くことです。
あなたをしょっちゅう不愉快にさせるような失敗を他の人がするなら、 あなた自身はそのような失敗をせず、 そのような失敗に打ち勝つことを学びなさい。 すべての機会を最大限に生かして、 もしもあなたが良い例を見たり聞いたりしたなら、 あなたがまねをしたいと思うほど感動するようなものになりなさい。それに対して、 あなたがこれはひどいと考えるような事柄において、 自分が罪をおかさないように注意しなさい。 また、もしもそういう事柄で罪をおかしたことがあるなら、 できるだけ早く自分自身をただしなさい。 あなたが他の人を見るのと同じように、他の人もあなたを見ているのです。
熱心で、信仰深く、礼儀正しく、また訓練されている兄弟を見ることは、 何と喜ばしく心地よいことでしょう。 ばらばらにさまよい、召されている事柄を実践しようとしない兄弟を見ることは 何と悲しく痛みを感じることでしょう。 召命の目的を無視し、自分が関知すべきでない事柄にかかずらうのは、 なんと有害なことでしょう。
あなたが請け負った目的を忘れないようにし、 十字架のイメージを心に留めておきなさい。 たとえあなたが長年にわたって主の道を歩いてきたとしても、 あなたの前にキリストのイメージを置き、 自分自身をさらに主に似たものになるよう努めなかったなら、 あなたは恥ずかしいと思わねばならないでしょう。
一心に、信仰深く、私たちの主の最も聖なる生涯と熱意に関わる信仰者は、 その中から、自分に必要で有益なすべてのことをたくさん見出すでしょう。 イエスさまよりもよいものを何も探し求める必要はないのです。
もしも十字架が私たちの心に届くなら、 どれほどすばやく豊かに私たちは学ぶことでしょう。
熱心な信仰者は、命じられたすべてのことを受け入れ、しかもよく成し遂げます。 しかし、怠慢で不熱心な信仰者は、 試練に継ぐ試練を受け、ありとあらゆる方向から苦悩を受けます。 なぜなら、そのような人は内には慰めを持たず、 外に求めることも禁じられているからです。 神の規則に従って生きない信仰者は悲惨な破滅に身をさらすこととなり、 もっと気ままでいたいし、拘束されたくないと願う人は、いつもトラブルにおちいります。 というのは、その人はあれやこれやの物事に対していつも不満を抱くからです。
どうして、 こんなに多くの他の信仰者たちが、 修道院の規律に縛られてやっていけるのでしょうか。 彼らはほとんど外へ出ず、熟考の内に住み、食事は貧しく、 着るものは粗悪で、勤勉に働き、ほとんど話さず、徹夜で祈祷し、 早くから起き、たっぷり祈り、頻繁に読書をし、あらゆる訓練に従事します。 カルトジオ修道会の人や、シトー派の人のことを考えなさい。 他の修道会に属する修道者や修道女たちのことを考えなさい。 彼らがどんなふうに毎晩起きて主に賛美の歌を歌うかを考えなさい。 これほど多くの信仰者が神の内にすでに喜び始めているというのに、 あなたが聖なる務めに怠けているとしたら恥ずかしいことです。
もしも、心のすべて、声の限りを尽くして主なる神を賛美する以外にすることがなかったなら、 もしも、食べたり、飲んだり、眠ったりする必要がなく、 常に神をほめたたえ、霊的な探求に専念することができるなら、 肉体のすべての必要の奴隷となっている現在に比べて、どれほど幸せになるでしょう。 そのような必要がなく、魂の霊的な食事だけがあったとしても、 悲しいことに、私たちがそれを味わうことは非常にまれなのです。どんな被造物からも慰めを求めないという境地に達するとき、 人は、神を完全に享受し始めることになります。 そのときまた、人は自分に何が起こっても満足することでしょう。 そのような境地に達した人は、大きなことにも嬉しがらず、 小さなことにも嘆きません。 そのような境地に達した人は、 確信を持って自分自身を完全に神の手にゆだねます。 すべてのすべてである方、 そのお方に向かうとき何物も滅びたり死んだりしない方、 すべての存在がその方のために生きる方、 その方が望まれるがままにすべての存在が仕える方、 そのようなお方である神の手に。
いつも自分の最期を考えに入れ、 失われた時間は二度と戻っては来ないということを忘れてはいけません。 注意深さと勤勉さがなければ、徳を得ることは決してできません。 生ぬるい不熱心さを育て始めるなら、 あなたは悪の始まりに陥ろうとしているのです。 しかし燃えるような熱心さに向かうなら、 神の恵みと徳の愛によって、 あなたは平安を得、困難が軽減されることでしょう。
熱心で勤勉な人間はいかなることにも備えができています。 悪徳や欲情に抵抗するというのは、肉体的な苦役に汗するよりも偉大な仕事です。 小さな失敗に打ち勝たない人は、少しずつ大きな失敗にはまり込んでいくのです。
もしもあなたが昼間を有意義に過ごすなら、 夕方にはいつも幸せになることでしょう。 自分自身をしっかりと見張りなさい。目を覚ましていなさい。 注意深くありなさい。他の人に何が起ころうとも、自分自身を取るに足りないものと思いなさい。 自分自身に厳しくあればあるほど、あなたは大きく前進することでしょう。

あとがき

ヨブ記をベースとして小説を書けないかと思い筆をとりました。
養父(やぶ)という友達が小学校時代にいたので、ヨブにかけて養父(やぶ)と言うのも面白いなと思ったのですが、筆を進めるにつれて、ヨブ記という主題から復讐というテーマに変わって行ってしまいました。主人公も養父陽一から伊集院圭子に比重が移って行きました。

まぁそれは、それとして・・・

振り返って、この小説で伝えられれば良いなと思うのは、信仰によって養父陽一が、試練を乗り越えられたという事、そして藤沢(佐久間)達也が、信仰によって復讐の連鎖を断ち切れた事この二つが伝えられれば良しとします。(笑)

さよならの前に・・・・


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