春なる動き 第4章の1

 今年(2018年)の春はいつもと違う。ソメイヨシノの桜の舞台が違うのである。通常は、桜が満開になるや雨が降り、雨上がりとともに風が吹いて一気に花びらが吹き散ってしまう。こうした満開と散り果ての流れが、短い時の移りの中で見られるのである。毎年、卯月の訪れと共に、こうした情景が見られる。この情景に含まれる儚さが感じられるのだが、儚さに陰りがあるからこそ美しさがある。派手やかな開花と幕引きという陽と陰の対極が舞台で繰り広げられる美しさである。この美しさには花の差し出す物的な綺麗さの他に、時の流れの中で映される儚さへのスピリチュアルな美しさがある。長い冬の中で蕾を育み、弥生の季節の訪れの中で蕾をふくらませ、時季を得たかのように爆発的な開花となる。待ちに待った期が到来し、花を開かせるが、一瞬のうちに雨と風によって吹き去ってしまうのである。こうしたスピリチュアルなものは、何とも儚い情景だが、儚いからこそ、美的感覚が研ぎ澄まされるとも言える。
 今年の春は、こうした舞台設定とはならなかった。花が咲きはじめて、満開、散り初め、散り果てまでが長く、2週以上も好天が続いた。極めて珍しいことかもしれない。花見には好都合であったかもしれない。自分の日常都合の中で、自己都合的な花見日時の選択ができた人も多かったであろう。さらに、二、三度と複数回の花見も楽しめたかもしれない。そこには花が優位で自分がその下に置かれるといった制限がなく、一見すると今年の花見はよかったと思うかもしれない。しかし、十分花見は得られても、いつもと違って何か足りない。スピリチュアルなものが体験できなかったのである。さらに「今日も咲いている」といった言葉を毎日繰り返すことに、飽きを感じさせてしまう。何とも身勝手な感性なのだ。花によって本質的な感性を高めさせるはずの陰陽の二面性が、今年は得られなかったのである。「せっかく咲いたのにもう雨だ。もう、散ってしまう」といった、名残惜しさの感情が、花の舞台の演出効果を高めるとも言える。ここには、日本の春といったさらなる意味付けも裏にある。
 日本では、春に卒業と入学というドラマがある。

ここから先は

2,882字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?