親父の権威はどうなった? 第2章の7

 「親父の権威はどうなったのか」というテーゼに、誰もが「そんなこと今更、何の意味があるのだ。半世紀以上も前からわかりきったことだ。」と思うであろう。「地に落ちた親父の権威」といった結論が既にあると、それ以上の模索がなされない。
 先日、大手スーパーの中で買い物の散策をしていた時のことである。父の日の贈り物のコーナーが設けられていた。そのコーナーにある対象の商品は、座椅子や座布団、癒しグッズ、マッサージ用品など日常生活の中に癒しを求める志向性の商品が置かれていた。父の日が近いし、こうした風景に何ら疑問も感じなかったが、その隣のブースに置かれた商品を見て、唖然としたのである。
 普段の日々のように、父の日といった特別の意味づけがなされていなければ、その商品配置に特に不思議には感じなかったであろう。父の日という販売戦略によって特別ブースが設けられた状況で、そのブースの隣に自然に置かれていた商品に恐ろしさを感じた。その商品は何だったのか。紙おむつである。
 紙おむつの周りには、杖や、歩行器、介護器具などがある。通常であれば、家庭内でのお年寄りへの介護商品として、座布団やマッサージ用品、癒しグッズの隣に置かれても違和感はない。しかしである。
 その店での状況を客観的に見れば、作成された「父の日の贈り物」といったチラシが、父の日の対象になりうる商品に付けられただけである。当然、隣のブースの紙おむつにはチラシは付けられていない。当たり前といえば当然で、特に不正なことがなされているわけでもなく、商品配置の正当性に異議は唱えられない。そして、父の日に因んで家族が父に商品を送るという目的、そして、値打ちな商品をスーパーで購入するという行動、この目的と行動という2点に単純化してこの店に来店したとすれば、この店の商品配置に疑問は湧かないであろう。つまり、この店の商品配置に疑問を感じないということは、主観的な印象や感性、感情が削ぎ落とされて状況を見ていることになる。このことは、店の商品配置の担当者が、「父」に対して主観的に無関心であったことにほかならない。
 しかし、1ヶ月後に買い物でそのスーパーに出かけた際に、父の日の商品の配置が何ら変わっていなかった。その店は、大手のスーパーなので、顧客の意見が積極的に受け入れられ、サービス向上に努められている。よって、顧客の誰かが商品配置にコメントを寄せれば速やかに変えられていたと思う。この1ヶ月間、同じ配置であったということは、こうした商品配置のイメージとして、違和感の優先順位そのものが低かったと思える。
 多くの人が、父の日の贈り物のコーナーを過ぎ、隣の紙おむつを目にしても、クレームまでには至らなかったのである。別にこんなことぐらいでクレームは言わないだろうという推察はできるが、最近の他のさまざまな状況へのモンスター的クレームの多さとそれに対する細かいスーパーの対応を見てみると、やはりクレームそのものがなかったと思わざるを得ない。
 こうした状況は何を象徴しているのだろうか?

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