NIWAのはなし(II)
前回、雑草の話が途中で終わってしまったので、その続きを関連の小話を交えて。
車で15分ほどのところに牛久自然観察の森という場所がある。市が管理している里山で、実験的な草刈りなんかをしている。
もう十年以上も前のトレンドなのだろうか、里山研究が盛んだった。日本はそもそも原野で起伏の少ない土地に人が住み、住居の周辺を耕作のために整地し作物を植えた。台風や風雨を防ぐために木を植えたり、元から木立のそばを選んで移り住んだ。竹や果実を実らせる木々は里山には欠かせない。竹は食料の筍や、耕作に必要な道具を提供してくれる。近代になって腐らず手入れが必要のないステンレスやプラスチックが普及したが、それまで多くのものが竹から作られていた。
収穫し使うことでバランスが取れていた竹林が放置され、私が住むような半農地帯においてしげりすぎが問題になって久しい。荒廃し荒屋になった家には荒ぶる竹林と密集した笹がつきものだ。そういったことの原因や解決策を遠巻きに研究していたんだと思われる。
息子たちが小学生になる前、この自然観察の森によく行った。アニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』にこの森のネイチャーセンターが登場する。オオカミの生き残りが飼育されている場所としてだった。実際にはオオカミはいない。しかし子供ばかりか大人までも魅了するにあまりある自然が森にはある。ネイチャーセンターに足を踏み入れれば、自然が最高のワンダーランドだと思い知る。最も頻繁に足を運んだ頃はフクロウが最大のトピックだった。
森は国道から徒歩で10分ほど奥へ入りさらに雑木林や草原を抜けた先にある。駐車場は祭りが開けそうなほど広大なのが広がり、入園者通路とは反対へ進めば、ファンクラブならぬ好事家が集まって自家製のお茶を作ったり、炭を焼いたりしている作業上を経て森の中央の農家屋へとつながる。この駐車場脇の国道沿いの林が意外にも市の所有ではなく個人の所有だと知ったのはフクロウの雛が孵ったと聞いたのと同じ頃だった。
フクロウは意外と高いところに巣を作る。駐車場脇の林の、見上げるほどの木の上に一家が巣を作っていた。国道沿いの林がうられ、駐車場が剥き出しになった頃、悲劇が起きた。深夜、雛の餌のハンティング中だった親鳥が国道を疾走してきた車に轢かれてしまったのだった。無惨な姿を見つけたレンジャーが教えてくれた。
レンジャーは大学卒業後からずっと森に勤めていた。革のカウボウイハットをかぶった彼は子供たちの憧れだった。ゲームのぼく夏から虫取りにハマった団地住まいの息子たちを笑った。彼はフクロウと子供を繋ぐ橋でもあった。夜行性のこと、左右の耳がわずかにズレてついているため、3Dで音を把握することできること、餌としてハンティングされて初めてウサギのが生息しているのがわかったこと、それらを最高に愉快なおもちゃを見つけたみたいに子供たちに話した。その楽しそうなこと。
イベントが開かれれば、大学町に近い土地がら、図鑑をまるおぼえしているような天才的な児童もちらほら見かけましたが、いっときあれほどまでに森のファンが急増したのは彼のみならずレンジャーたちが実に楽しそうに自然に接していた姿のおかげだと思う。その後、カウボウイハットのレンジャーは青年海外協力隊に応募しアルゼンチンだったか、アラスカだったか旅立っていった。
子供たちにどう育って欲しいか考えていた時期だった。裕福でなくてもいいが生き方の選択が増えるから大学は出て欲しいなどと、なんとなく身近かな例を考えていたが、金銭や名前じゃなく自分の好きなものをおいかけ定住地も持たず移動ばかりの人生も楽しいかもしれない。自分がレンジャーの親だったら将来の心配ばかりだろうし、全くの想定外だと文句を言うかもしれなかった。しかし目の前の幸せな青年を見て、自然をみて、自分が子供の頃は絵空事だった理想を生活のリアリティより優先し満たされている様子には動かされるものがあった。ひどく揺さぶられる経験だった。
さて話は雑草に戻るが、その森では里山の自然環境と管理について研究をしていた。年単位の研究で、草原を四つほどのゾーンに区切り年間隔を開けて除草をする地区と何もしない地区を観察していた。除草の間隔をあければ想像通りの結果が出る。手を入れない区域でもいわゆる雑草と呼ばれる草が草原を構成するが、それも時間の経過とともに植生が変わった。そして年単位では、はじめ条件を揃えるため短く刈り込み同じ状態だった草原一帯が、一見して地面に起伏がある場所を意図的に選んだかのように変化が見られた。つまり、除草も頻繁がベストというわけでもないらしい。そして目的とか、栽培するにしても植物によって好みの世話のされ方があるらしいのだ。
この経験はまだ団地住まいだった。庭のない自分とは関係ない話だったが、不確実な自然相手の調査がこれほどの理詰めのアプローチで行われていることが愉快に思えた。どうせまた、予想外の結果についても、理詰めのアプローチで一貫した答えを探し出すのだろう。
(2) どうして素直に、何も考えに草を抜いていられないんだろう。
これまで見てきたあれやこれやを思い出しては手が止まる。(1)で話した笹も、何も考えずに抜いていれば今ほど繁殖しなかったはずだ。家の前の狭い道の左右にひしめく庭たちを見てみればいい。そこはどこも黒と緑のコントラストが広がる。黒は土、そして緑は植物だ。通りがかりなら華やかな庭も野菜を実らせている庭も物珍しさに感心するばかりだが、庭を持つものにとってそれはどれだけ励んできたかの証なのだ。
でも仕方ない、自分はこんな人間なのだから。
そう思わせるのには、近所との会話がある。農家育ちのご近所さんは専業主婦だがいっときとして暇にしていない。庭にしても、いわゆる雑草の一本も生えていない。すごいですねと、言うと田舎の人は放って置けないのよ、とまた一本手を伸ばし引き抜きながら応える。そうは言いながら山形のご実家の庭は草だらけでびっくりしたと、義理の妹さんの話に飛ぶ。結局、田舎も世代も関係ないのだ。
そして結局、庭は心を写す鏡なのだった。
我が家の『心』はゆえに、やばい。ポライトネス理論におけるネガティブフェイスが勝っている。放っておいてほしい、隠れていたいという心理が透けて見える。
雑草を抜いてしまいスッキリかんとして庭には憧れるが、見てくださいとばかりに片付いて美しく飾った庭は人目を呼んで怖い。背の高い草に隠れていたい心の現れなんだろう。
と、無理矢理こじつけたところで、今日の長舌は終わり。
去年植え付けたルリタマアザミやっと花をつけた。大好きな希少株を庭全体にポツリポツリと定植し、その周囲からはじめ円状に広げるアプローチで除草している効果だ。イングリッシュガーデンには欠かせないアザミだが、いらない植物と一緒に抜いてしまうこともままあるから注意が必要だ。
そうだ、我が家はイングリッシュガーデンを目指していたんだ。イングリッシュガーデンは、つまり、除草せずいらない草だけ抜くんだという、他国のガーデナーからすれば噴飯物のセオリで名をはせている。そうなってきたのだから、ずいぶん私も成長したものだ。
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