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NIWAのはなし(III)

自分が本好きだとは、考えたことがない。私の従姉妹の娘は、本を片時も離さず「フィクションの世界で呼吸しているみたい」と母親に言わしめたほどの本好きで、大学の専攻も図書館学とかだったから筋金入りだ。彼女にとって本の世界は、飛行機内に突如として落下してくる酸素マスクのようなものだと想像する。あるいは肩に背負ったボンベか、アシストロボみたいなものかと。

その点、彼女とくらべ自分は身一つで生きている。本にアディクトするのが怖いから、読むときはフィクションとノンフィクションをおり混ぜ三冊を同時進行する。それに本はあくまで知や情報を得るためのもので、それで完結してはいけないという偏屈で面倒な決まり事を自分に課していたりする。だから古典を読めばタイムスリップした気分で喋り口調も変わる。スポーツや趣味の本ならもちろんにわかに体や手を動かしたくなる。それはいずれの方も同じだろう。

自慢できる庭ではない、庭をもつ私は何をこだわるかというと、どうして普通に庭仕事ができないかに拘っている。NIWAのはなしを二本アップしてから、その方向性が固まった。今日も台風が過ぎた後の庭を見渡したが、相変わらず「黒い」地面は見えない。ツユクサやらシロタエギクやらの緑の葉が雑草の勢いで茂っている。秋には寂しい庭を古風に飾ってくれる菊たちも、今はただ野放図に細い茎を振っているだけだ。台風の後は仕事が多い。

それだのに、私は本を開く。だって照りつけるように熱い太陽に罰せられるみたいんなだもん。私は庭仕事はご褒美であって欲しいのさ。

というわけでジル・クレマンの『動いている庭』を開く。先般、資格試験の申し込み用紙を入手するために行った本屋でみすず書房フェアをやっていた。フェアといっても三十冊ほどをアクリルの本棚に並べただけなのだが、そこでこの本に捕まった。ペイネの、あの柔らかくノルタルジックな表紙に目を引かれた後だった。みすずの本の、あの白くて品のある、そして表紙から想像させる内容の(本来は反対の順のはずなのに、そこがみすず書房の装丁のなせる技なのだと思います)全く期待を裏切らないことは本好きならご存知のことだろう。

本当はペイネのほうも連れて帰りたかったが、庭の方は流通を考えない価格だったので二冊というのは無理で、お一人だけをお連れすることにした。そして後悔した。

この本のことは、私が庭仕事が好きだと勘違いした長男が、社会学的アンテナの先で引っかかった本として教えてくれて知っていた。庭が動いている、と聞いただけで一言居士の自分には溢れるほど言いたいことが思い浮かんだ。雑草を雑草と呼ぶのは、それを活用できないから、制御できないから、美しさを理解できないから。庭が動くと言っているのは、おそらく、以前どこぞの論文で読んだあれであろう。

それは、十年以上の時間をかけ、手入れをしなかった場合植物はどうなるか、定点カメラ的に調査した論文だった。結果をかいつまんでお話しすると、植物は自分の成長に適正な温度の方向へ根や枝を伸ばした。また、アスファルトなどによって舗装されていない場所では、幹の中心が三十センチ程度移動したという。植物個体自体だけでなく、種子などによって新しい株が移動した例も紹介されていた。植物は子孫を増やすとき、株を増やしたり伸ばした先の根から別の株を生成したりするが、それ以外にも果実を食べた鳥類や昆虫が媒介することも多い。植物が動いたように見えるのは、こうした媒介によって芽を出した株が自然淘汰され残ったものを俯瞰的に観察したとき、そう見えるのだ。植物は「考えていない」ようで、考えている。その生理反応が最終的に生存のため活動に繋がるのなら考えていることになるのだろう。最近になって、植物には脳と呼べる器官はないが、成長するときの細胞の先端に個体としての記憶が残っているという記述をどこかで見た。落葉樹と言われている樹木は、落葉させずに維持するエネルギーと冬季のか弱い太陽光で生成されるエネルギーの損益分岐計算を密かにやっているらしい。これもどこかの論文の受け売りだが、確かなら気候変動が続いた数十年後、落葉をやめた木々によってジャングルのようになっているかもしれない。

そんな内容だと思った。わかっている。読む必要ない。そうに思ったが、息子と話がしたくて渋々読み始めた。何より、お高いし無駄にはできない。ところが、この本は面白い。クレマン氏の庭師としての視点から書かれた内容は植物学の論文とは違って花が奔放に咲く姿や虫や風の気配も感じさせる。特に、タイトルにもなった動くとは、庭に自生していた灌木が既存の歩道を圧迫し始めたので道の方を変えたという一文から、勝手に我が荒れ庭でやっている植物の植え替えと重なり一挙にのめり込んだ。

植え替えるところは、クレマン氏のやり方に反するが、ウチの庭の植物は私が勝手に「ここにあれが咲けば素敵」と植えたものなのだ。だからその植物が好む半日影に移動してやる、という点で一致するのだ。

さらに、Iでもお話ししたが庭には木が多く、日向と日陰ができる。どういうわけか家並みに囲まれているにもかかわらず日陰は砂漠ほどに日当たりが強く乾燥する。それで夏の植物のはずのインパチェンスでさえ萎れてしまう始末だ。この花のイメージといえば南国の日差しに小さくも明るい色の花を向けているはずなのだが。クレマン氏の本を読んで植物の好みに合わせてやるべく、渋々玄関ポーチの中に入れてやった。

クレマン氏は哲学者かもしれない。もちろん、翻訳者の山内朋樹氏の筆の力も忘れてはならない。山内氏も京大での庭師なのだから、原著のゆらりとした情緒的な一文ももれなく胸を打つ訳になっている。そもそも、庭はそういう場所なのだ。かのヴィトゲンシュタインだって、庭師を経て再び論文を発表するのだから。素材さえ持ち合わせていれば、庭という世界は小さな観察と実践の繰り返しが真理を垣間見せてくれる縮図的場所に違いない。

などと、また、草抜きをサボる理由を探してページを捲る。『動いている庭』には枯れた花殻をそのままにする理由や、小さなロゼッタのまま夏でも育たないジギタリスの都合なんかを教えてくれる。

そうやって、台風一過の、オーブンの庫内みたいな灼熱から避けて本を開く。すこし影ってきたら何かしよう。そうだ、狂い咲きしたドロシーの枝を下ろしてやろう。

結局のところ、私は本が好きらしい。

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