見出し画像

銀座東洋物語。8(宵のホテル)

 あれは今から10年以上まえのことだから、ホテルをやめてから20年以上経っていたことになる。銀座東洋で仲良くなった子から連絡がきた。

 その子を、Sさんとしよう。彼女はホテル学校をでていくつか都内のホテルを経験したあと、東洋に就職した。個性の塊のような子で気の回るサービス業にピッタリの女性だ。この職業は最初に配属された部署の専門になることが非常に多かったけれど、このSさんは野心家だった。客室の管理担当のルームアシスタントの部署から、フロントや予約課の仕事に興味があり、なんと海外のホテルへ転職を試みたのだ。その方法は4章に書いた英字新聞で私が見つけたのと同じだった。
 入社当時の私の英語スコアはTOEIC700点台、大して高くはなかったけれど、毎日海外からくるファックスにしゃかりきに関わっているうちにコレポンを担当できるほどに進歩していた。デュッセルドルフの日系ホテルに就職を決めた彼女だったが、必要書類の準備など現地の外国人担当者とのやりとりに、私に助けを求めた。
 この彼女のヘルプの間にも、私は未熟な失敗をしたが、それもいい思い出。この縁で、ながらくお付き合いはつづき、その数年後、私がケンブリッジに三ヶ月遊びに行った時には、現地で仲良くなり実は海外ホテルで働くのが夢だと話していた当時議員事務所で仕事していた二十台の女性を、ケンブリッジの小さなホテルで紹介したことがあった。
 東京で出会った友人を、ケンブリッジで別の友人に紹介するなんて離れ業をあのころやっていたなんて自分でも信じられない。Sさんはそのころ数度の転職や配置転換を経験し、ずいぶん偉くなっていた。まだドイツにはいたと思う。その彼女がわざわざ会いにきてくれたのは嬉しかった。彼女の昔の友達のために飛行機にのるという離業もまるで現代みたい。

 そのSさんから電話がきた。
 東洋時代にお世話になったKさんが亡くなったという。私自身はKさんとは仕事上の以外の関係はなかったけれど、彼はとても世話焼きの優しい人だったらしかった。Sさんは泣いていたのだ。ルームサービスは二十四時間の対応だったから途中から男性だけのスタッフになる。その切り替えのギリギリの時間にSさんはトラブルで相談に乗ってもらったことがあった。

 ホテルの夜は昼間とは違う顔を見せる。その40代後半の女性のゲストは月に一度、関西から上京する。チェックインはいつも一人きりだけど、夕方になると男性客が一人訪ねて来る。とてもよく知られている方で、ホテルはお忍びの恋だと黙認していた。
 Sさんはちょうどその男性客が帰る時に出会してしまったのだった。客室の扉の下にはわずかに隙間があるのはよく知られている。客室の通気をよくするためのものだけど、夜は暗い廊下に在室中の客室から光がもれる。それが廊下の風景を一変させる。睦み合う音なんかが漏れ聞こえてくることもある。当時、当時彼女は客室係だった。その女性の常連客はいつもスタッフに関西の、しかも上品な、経木の箱に詰まった琥珀糖やら、和紙につつまれたお饅頭などなど、気遣いしてくださるから素敵な方と尊敬していた。その粋な常連客と芸能人の密会のことはホテルでよく知られていたけれど、、彼女は知ったのは初めてでショックを受けた。

 それを打ち明けたのがKさんだったわけだ。
 Kさんのことは他のスタッフからも聞いたことがあった。自分が知らなかったことを数十年たってから耳にするのは驚きと共に目から鱗だった。が、反面、あの愛にあふれたホテルらしいとも思った。Kさんがどんなケアをしたのか二人は言わないからわからない。が、数十年たち自分が亡くなったとき、涙を流してくれる女性がいるというのは、艶っぽい話だ。

 いずれも、30年以上前の話。残念ながらSさんとは結婚を機に連絡は途絶えてしまった。海外ホテルで働きたいと言っていた女性はどうしているだろう。案外、秘書の道を邁進してすごい人になっているかもしれない。
Kさんは、これを読んで笑ってくれているだろうか。いずれも、昔の話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?