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NIWAのはなし(I)

今の家に越して来て10年になる。10年と云うといかにも長そうだけれど子育てのクライマックスと女としてのアイデンティティとの格闘で感覚的には三、四年の感じ。

その間にも、植物は一年の営みを繰り返し、庭の隅々で自然淘汰と生存競争が繰り広げられた。当初、早春に芝生の間から小さな白い花を群生させたカモミールはもう見かけない。楓と月桂樹の間の小さな椿は変わらずおチビさんのままなのに、両隣は年2回の剪定では足りないほどに育っている。

いつも気忙しく、庭を楽しむ余裕もなく、ただ義務感でやりくりしていたけれど、振り返るとその時その時で、色々と試行錯誤する自分がいた。理想と現実と、無知と夢想と現実と、夢と周囲の迷惑と、そんな物との狭間で迷いながら色々調べては試すことの繰り返し。その葛藤と庭に対する捉え方の変遷を数回に分けてお話ししたい。

毎年、季節の花を迎え入れ、地面の柔らかそうなところを見つけ定植する。その年はそれで花の時期を楽しむ。翌年、再び発芽し花を咲かせれば移住成功。日当たり、土の具合、周囲の植物との相性などがうまく植物のお気に召した証拠。しかしこの庭にはこの条件を満たしていても計算を妨げる問題がある。

雑草問題だ。50年近く前、小山だった場所を造成した建売の二軒分の敷地に家と庭を配したものだから、庭はかるく一軒分ある。しかも前の家主はいずれ娘のためにもう一軒敷地の中に家を建てるつもりだったので、特に造園した様子がない。その庭に白木蓮、梅の木、夏椿、つげ、楓、蝋梅、ハナミズキ、わたぼうしが点々と植えられている。私のやる気が皆無だった時期に繁殖した笹が、その僅かなすきまに細い葉を伸ばし地面を固めている。それから雑草と呼ばれる草に同情し「よく見れば可愛いじゃないの」と観察のつもりで手付かずだったのでそれもまた繁殖に手を貸すことになった。これまで何度も土をまき固形肥料や液肥を与えてきたけれど、目立った効果はなく買ってきた花たちは盛りのシーズンだけ恩返しの花をさかせるが、そのあとは次の世代に子孫を残すような創造的な営みはなく気付けば跡形もなく溶けてしまっていた。結局のところ、いらない草は抜くのが一番正しいやり方なのだと悟ったのだ。

その理由にはいくつかある。

(1)雑草、と呼ばれるものは、二つある。

①つは繁殖力の多いもの。例えば、ドクダミ。四月ごろから水芭蕉に似た縦に丸まった葉っぱを地中からのぞかせ、乾いて緑の少なかった日陰が一挙に華やぐ。柔らかく光る葉っぱは湿り気を帯びてみせて、冬を巡った後の命の復活に見えて、抜くのは心苦しく、要観察対象とした。そうしているうちに梅雨になり、艶やかな葉は白い水芭蕉もどきの花をつける。これもまた雨に濡れた様子に趣がある。ドクダミは、このタイミングで抜くのが一番いい。葉の柔らかいうちに、まっすぐ上へ引っ張ると地面から抜ける。何度やっても、根が痩せることはなく茎と根の太さは、栄養状態というより期間が強く関与している気がする。この、抜いたドクダミは綺麗に洗い、雨の合間の晴天に軒下に広げておけばドクダミ茶を作ることができる。一昨年これを作ったところ、驚くほど香りが高く、アールグレイや薔薇のお茶にも匹敵する香りの強さで、驚いた。市販のドクダミ茶とは比較にならないほどで、明らかに別物の香りがするのでかえって心配になって飲用をやめた。今年は少し試してみたいと思う。このように繁殖力が強く、食用や薬用など、使い道があるものは採って使って仕舞えばいいのだ。他に、ミツバや紫蘇がある。フキもそうだ。一年を通して使える。商品になると効果が低い現象の典型はドクダミだが、今年河原に生えたヨモギをもらって庭に植えた。葉を二、三枚つけた茎にネメデールを浸し、ビニール鉢にさし発根させたものを植えたのだ。さすが不要な人にとっては雑草扱いされるだけあって、庭の環境にすぐに馴染んだ。来年には蓬餅をたっぷりいただけそうだ。アトピーにもいいと言うから、入浴剤がわりにも入れよう。

②つめは、繁殖力云々より植相として特定の限られた地域や水域に分布,生育する植物の全種類をいう。コトバンクより)良くないもの。最近ではよく知られているけれど、春先に咲くケシに似た赤オレンジ色の花、あれがその一つ。細くて長い花茎の先に咲いた花は風が吹くたびにゆらゆら揺れて風情がある。葉は透彫細工のように繊細で緑の少ない時期には歓迎したくなるが、これが咲いた箇所は乾きがちで浅い地表に欲しくない草が散在しがちだ。雑草と呼ぶのに害となる理由を探してもこれといって毒があるわけでも、近くの植物を枯らすわけでもない。けれども前述の通り、これの生えている箇所は段々しょぼいことになる。他には、クローバーに似た草や、カタバミ、カラスノエンドウ、チチコグサ。最初の頃は可愛いんだけど、やはり梅雨前後になると醜く変化する。そこではたと思い出し、抜き出すのだ。

①と②を合わせたものにササがある。地下茎から勢力範囲を広げあっという間にわっさと茂るササは、刈ってみるとそれがなぜ悪いのかわかる。笹はまとまって生えるため地表が固くなる。細く弾力と長さのある茎の先に線状に伸び葉は梅雨の季節でも地面あたりを乾燥させる。これが夏となれば反対に地表からの水分の蒸発をおさえる。つまり、たっぷり茂った笹の根元は普通じゃない水分状態になっているのだった。見た目では無駄な勝負に思われる笹退治だが、いざ始めてみると達成感がある。

前述の通り笹の茎はまとまって一箇所から生えているから、葉のところをむんずと掴み引っ張りながら鎌ですくうように刈り込んでゆく。地下茎で繁殖するからもちろん根っこをやっつけなければすぐに再生してしまうのだが、それも覚悟しつつ刈り込むと、あれほど旺盛に茂っていた葉がいかに見せかけにすぎないかよくわかる。そして乾いて石ころが転がっている笹の根元がいかに渇いているかがわかると達成感が湧くのだ。そして案外笹はまとまって生えるので作業がしやすい。植えた植物と欲しくない植物が混在する庭の混沌部分を笹を求めて歩いているうちに自然と小道ができる。そこを鎌を振るいながら何度も歩いているうちに、庭の植栽が理解できるようになった。意図的に植えたのに球根の位置が浅すぎて根本から折れてしまったグラジオラスや、毎年顔を出すのに地を這う龍のように低く育ったカサブランカを発見しては、土をかけてやったり支柱を立てたりと、一つの用事のために藪に入って仕事をいくつも見つけてくる始末だ。

一足飛びに視覚に映える庭を作るなら、一度全部整地して土を入れ替え植物が生えるのを許す場所とそうでない場所を分ければいい。そうやってすっかり造園してからなら、努力は半分で済むだろう。

この家を買ったばかりの頃はその考えがいつもちらついていた。しかし、ある家を見つけてからはそう思わなくなった。そこは近くの植物園にお勤めのご主人が管理する庭だった。黒い土の表面が見える場所は一ミリもない。至る所に植物が生えている。しかしいわゆる雑草が一本もないのだ。イギリスのシークレットガーデンといった感じのその庭は私の理想になった。この庭の話はまたいつか。

七月はそうだ、カサブランカが咲く。支柱をした大振りの白い百合が、雨に負けず開いた。湿った空気がやっと冷えてきた深夜、開け放った2階の寝室の窓から甘い香りが忍び込む。難しそうに思われているけれどユリは土が合えばとても育てやすい。

夜に漂うむせかえるようなカサブランカの香り、などガーデナーにとって最高のご褒美だろう。


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