Do-shite馬に乗らないの?!
「きのうは、養魚場で一人夜勤だった」
青い顔をした大学生のOくんがカウンターの隣の席に座った。
そこは常連だけが座れる席。Oくんは漁業を学べる数少ない大学の学生で、専攻の淡水魚の養殖の研究およびゼミの研修やらバイトやらを兼ねてここからほど近い養魚場で夜を明かしたらしい。
そこは山梨県と長野県が境を接しているところで、清里とか八ヶ岳、諏訪湖なんかの観光地にマスやイワナを提供するための養殖場がいくつも点在していた。
いつも威勢がいい彼がどこか神妙な顔つきなのは、なるほど仕事をしてきたからね、感心感心と思っていたが、そうじゃなかった。
「夜中ねぇ、足音がするんだよー」
どういうこと?
「僕しかいないの、養魚場には僕一人だけなの。山んなかだから、誰もいないんですよ。きつねとか、たぬきとか、そういうのはいるけど、それがね魚盗んだりしないように、人が泊まって気配を出しているんだけど。
おとといときのう、二晩続き、夜中の1時40分になると、ひたひた歩く音がして。それから別棟のお風呂で水が流れるの」
最初は冗談だとおもった。
私は3日間有給をとり東京を離れ乗馬三昧しようと思った。涼しい高原?水べりでの仕事?いいわねぇと呑気に構えていたのに。
Oくんは大学の馬術部だが、自分でも馬に乗る。一人でふらりと常連になっているこの倶楽部に来ていた。大学馬術部の人にも色々いて、彼がだれかと行動しているのを見たことがない。一人できて一人で乗って、一人で汚ないボストンバッグをバイクに縛り付けて帰っていく。バイクもラッタッタみたいなしょぼいやつ。でもそれがバンカラでかっこいい。
横浜で建築士2年目のJさんと妙に仲が良い。ああ、それはJさんもバイク乗りだからね。横浜から鉄の馬にまたがって、山梨で本物の馬にまたがってる。ブランコ騎乗法っていわれても、しかたないねぇ馬は押しても動かないからなぁ、と力なく笑うところがかわいい。
ふたりは『とても馬が合う』らしい。
オーナーはこういう一本独鈷の人達がお気に入り。なぜなら自分もそうだから。なんつったって、自分でクラブハウスをセルフビルドしちゃうんだから。30年も前だけど、今はなかなかみないなぁ。
「本当にもういやなんですよねぇ」
ラッタッタがあるから逃げてここまで来ちゃった感じだけど、オーナーの話じゃあそれでも一時間はかかるらしい。
「まぁ、ハクビシンとかじゃねえか。あいつらの足は人の手みたいにヒラヒラしてっから、歩くとピタピタいうぞ、きっと」
今夜もまた養魚場に戻らなくちゃいけないから酒はのめないOくんのまえで、盛大に自分のグラスにブラントンと注いだ。コルク栓の上に小さなジョッキーがついている。誕生日に会員がプレゼントしたやつ。
小柄な奥さんが両手で大きな皿をキッチンから運んできた。それをみてオーナーはOくんの前にちらかった落花生の皮を手のひらでかき集めカウンターの内側にすてた。
「お腹空いてたせいじゃないの? 幻よ、きっと。まぁ、これでも食べてゆっくりしてかえれば?ギリギリでいいんでしょ?」
幽霊にであっちゃったのは可哀想だけど、Oくんかわいい。ほんとうに弱っちゃった感じだった。このままならどうかなっちゃうと思ったんだろうなぁ。それで1時間もかけて楽しい記憶の倶楽部まで逃げてきた。いつもは一人でヒッピーみたいにどこでも平気なのにね。男の子ってこんな風なのかって不思議なものを見るように観察させてもらっていたのに、これほど繊細とは。
暑さが去って、最後の6時半からのひと鞍乗ってレストランに戻ると、Oくんはもう意なかった。シャワーをあびた濡れたままの髪で入ってゆくと注文しておいたベンガルカレーはもう出来ていた。極太ソーセージから湯気が立ち上っている。
「Oくん、大丈夫ですかね」
一応訊いてみる。
さっきOくんがいた席には、古株常連のSさん50代がゆったりブランドを呑んでいる。常連だけど、馬にのっているのは見たことない。カンターの常連だと誰かがうそぶいていたっけ。そしてブランドンは、オーナーからのサービス。というか、分前。というか、当然というふうに、オーナーよりも似合っているから自然とそのグラスにはあの赤茶色い液体が満ち満ちることになる。グラスの脇には見たことないナッツの皮の山。Oくんの時とは風景が違う。そのとき初めてみた。ピスタチオは以前は海外旅行で現地で買わないと手に入らなかった。それもなんだかふつーのビニール袋にはいっているんだから。
「大丈夫、大丈夫。 今週末またくるって」
また来たところで私はもういない。なんだか残念。もっと幽霊の話を聞きたかったのに。
「まだあのアルバイトあるのか」
Sさんがポツリと言いました。アルバイトと、ドイツ語的に略さないでいう年代。
「おれもやった口だ。いるんだ、あの養魚場には、幽霊が」
バイクがあってよかったな。だれでも逃げたくなるよ。 」
Sさんも海洋大学の卒業生だ。もしかしたらOくんと関係あるかもしれないい。馬はのらないんです?
「馬?丘からずいぶん離れていたからねぇ、勘弁してよ。久しぶりに日本に帰ってきたんだよ、ずっと船の上だったからさ」
カウンターの御仁たちは見栄とか肩肘とかそういうのをするりと脱いでいて気軽で力が抜けている。それでもSさんのニュートラルさは他にいないレベル。心地よく話をきいていたら時計は11時を回っていた。
部屋に帰ろうとしたら、大量のピスタチオの山から一握りくれた。それから僕と会ったこと覚えていてよ、とジポーのライターをくれた。古くてカチッとやっても火がつかない。
「磨くと光るぞぉ」
煙突にしかみえないと揶揄されていたから、タバコ吸いと認められて嬉しかった。でも使い古しというのはどうも。
数ヶ月して、Oくんに会ったとき、私はまだタバコを吸っていた。あのジポーで火を点けると、Oくんが素っ頓狂な声をあげた。
「これ、うちの馬術部のマークですよ。どうして持ってんすか?」
そうかぁ、Sさんも馬術部だったのかぁ。
幽霊はどう?と訊くと、
あのあと彼女が泊まりに来てくれて残りのバイトの日々は最高だったそうだ。
かっこいい大人はみんな、馬に乗っている。
一本独鈷は 馬に乗らなくちゃね。
Do-shite馬に乗らないの?!
それにしてもお風呂に入る幽霊っているのかなぁ。
三十年以上前の話。Sさんはどうしているだろう。
私も次の持ち主を探さなちゃジポーの。
息子はまだ馬には乗らないけど、名前に馬がついている。
あなたもはやく馬にのりなよ。
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