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NIWAのはなし(V)

 老人は庭にすっこんでいるべきだ。
すっこんでいるのに十分なひろさがあって幸いだ、と思った。しれた広さだがノープランのまま長靴に履き替えたとしても、必ずすべきことが次々と頭に浮かぶ。土を掘り返したり、合わない土壌に不機嫌な草を植え替えたり、枯葉を集め、薔薇の枝を思い切り切り込む。
 今年の庭仕事もあとすこしだが、それなりに収穫があった。
 なんといってもペチュニアのこと。夏の草花とばかり思っていたが、さにあらず。要は初夏の温度がお気に入りなだけ。考えればイギリスなど、ペチュニアという意地悪なおばさんが登場する大ヒット小説の国では、パブの壁の花籠には溢れんばかりのペチュニアが揺れている。あれほどに成長させるには少なくとも、4ヶ月以上かかる。その期間イギリスは日本の三月ほどの気温から初夏の気持ち良い暑さまで気温差があるのだ。我が家では三月にペチュニアの小さな苗を鉢に植えた。その際草丈の先端を移植したところそこから根がで、今では立派な素焼きの鉢が色も形もとりどりの花を咲かしている。根出ししてから9ヶ月。いまだに花をもち親株とは色が違う。最近は冷える時間もあるが、まだ全く枯れる気配はない。
 苗の方は、さすがに植え替える時期のはずだが、ミルクティーバリエガータという品種はもともと渋いクリーム色でシックな色合いのため秋冬でも少しも違和感がない。長く垂れた茎の先に花芽をつけるから、ようやく大胆な切り戻しをした。そうやってもう一週間ほどたつ。枯れる気配はない。まだまだ頑張ってくれそうだ。
 それで思ったのだ。夏のお花と決めたのはこっちの都合で、ペチュニアとしては栄養と温度があれば咲き続けるのですわ。八月すぎから九月の頭にかけては暑さと湿度のおかげでもう無惨な状態になんどもなりかけたが、秋が深まるごとに息を吹き返した。我が家は前述どおり、一株から三株ほどにふやしたため、成長段階が二段階の鉢があって一度に見頃をじゃなくなるようなことがなかったのが、幸いした。

 庭仕事をすこしでもたのしくするために、あれやこれや苗を買い込んで植えてみたもののうまく定着しないこともあって。たとえばヒューケラは日陰に植え直した。オダマキも細い毛根のような茎だけになったのをやまぼうしの根元のやわらかくした土に移植した。
 丈夫だといわれているアガパンサスは、うちに来て二年が経つのにまだ花を咲かせてくれないから、土をやわらかくして肥料をやった。

 ターシャがほとんどの時間を庭ですごした、というのが少しわかる。家でいて、室内じゃない。家にいれば家族や家事のことが頭をはなれないが、庭にいると私は世界とも想像ともちがうがどちらとも遠くない世界にいて、庭のことしか考えない。
 ひとまわりしてやっと『にわがあってよかった』とおもっている自分がいた。歳をかさねても、それまでいくら頑張っても、実現しない理想と夢があることが肌感覚で分かった。追いかけることはやめられないけど、きっと実現しないのを受け入れようとしている自分がいる。庭は、そういう私をちゃんと整理してくれる気がする。すぐには変えられないが、ちゃんと手をかければ確実に変わってゆく。自然はそういうもので、自分もその一部なんだったと。
 すこし前まで年齢は積み重ねるものだと思っていた。年数はそれだけの重みがあって重みには価値があると。でもそうではないらしい。苦しい経験やそれに耐えてきた工夫は、誰かの助けにならないのかと残念だが、受け入れられないなら、せめて下手な小説にでも吸収させて、投稿サイトに訪れる人が感じてくれればいい。

 激変の75年だったと思う。食べ物もなく、世界はばらばら。それが今はインターネットで繋がっている。価値観を共有しないことの方がむずかしく、『他所は他所、うちはうち』なんて言葉は死語だ。私自身、親の世代とは価値観が違って相容れないことがあった。

 最近ご近所さんが、どこでひろってきたのかタイヤのホイールを二つ、差し上げますと持っていらした。「オタクの男の子たちなら、これで風車なんかつくってあそべるんじゃないからしら」
 おもしろいが、残念ながら二十二と二十五の成人男子が喜びそうなことではないので丁重にお断りして、お持ち帰りいただいた。すこし、きたしていらっしゃるのには気づいていた。灯油を玄関にこぼして消防車を呼んでしまったり、夜中だったので良い顔ができなかったら翌日たずねてきて息子にどなりちらしたり。
 けれども、自分が感じる不安とおなじような不安を、ご近所さんも感じているとしたら無碍に迷惑がるのも違う気がする。少し前、母を亡くし急につかまりどころのない山の頂上にたたされたような気がしたとき、私はとてつもない不安を感じた。もう山は下るしかないのだけど、下りるだけがこれほど怖いと思ったことがなかった。
 同じような不安をご近所さんは感じてるんじゃないか。狂気と正気と常識が渾然一体の状態だ。

 ミルクティーバリエガータの伸び切った茎をバッサリ切っても、まだまだ中心の茎が元気よく立ち上がっているのを確認した。それから適当な高さで、朝日が庭にさしたら一番に温まる場所をさがしてハンギングを枝にかけた。
 夕方のことでだんだん、薄手の肩あたりがさむくなってきた。30分ほどまえから町内会の人たちが庭先にあつまって話している。尋常じゃない言葉が飛び交う。あたまがおかしいとか、警察とか・・・。すぐにあのご近所さんのことだとわかった。

 なにをしたわけじゃない。どなっただけだ。消防車をよんじゃっただけだ。狭い路地に自転車をとめただけだ。退かしてください、といわれて逆ギレしただけだ。
 「おかしい」人に正論は通じない。でもちゃんとわかってもらえる言い方はある。そして「おかしい」人にも、そうなった理由がある。それに関して理解すべきだとはいわないけれど、わからないからと「おかしい」と一刀両断しないでほしい。
 わたしはわたしで幸せだと思う。ご近所さんを全く自分とは関係ないとは思えない私が、万が一同じようになってもカバーアップしてくれると言う家族がいる。自分の経験や感情が何にもならないのを知って悲しくならない人はいないでしょうに。みんなどこか壊れていて、どっか弱いところがある。そんなふうに捉えられればもっと寛大に生きられるのに。

 しかし、庭先の町内会も、実際はご近所さんを排斥しようってんじゃなくて、ちょっと注意して見ていましょうねっていう申し合わせだとしたら、案外優しい心遣いなのかもしれない。ただしいかどうかじゃなくて、健全に安全に回すための工夫。

 庭があってよかった。ノープランで長靴に履き替えても、やることはやまのようにあって、世間とかご近所さんとか、未達成の不安とかそういうことを考えなくていいから。それに、庭にすっこんでいれば、他に害を及ぼしてしまうこともなし。

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