『灯台守の詩』 作/森下オーク
灯台守はいつも海を見ています。
朝焼けの海を、真昼の海を、夕焼けの海を、真夜中の海を。
灯台守は海を見るのが好きでした。
波の音を聞くのが好きでした。
(今日はよく、晴れているな)
灯台守は、灯台のガラスの玉を磨きながらそう思いました。
遠くの空は水色に染まり、だんだんと近く青さを増し、海は更に青く、青く広がっていました。海鳥たちが白く大きな雲の真下で、上へ下へと自由に翼を広げて飛んでいました。
(楽しそうだな)
窓から入る南風の中で、灯台守はそう思いました。
灯台守がそう思うと、灯台守は海鳥になっていました。
白く大きな翼は太陽の光に反射して、光の翼のようでした。
灯台守は他の海鳥たちと同じように、大きな光の弧を描いてみせました。心地よい南風の中で、どこまでも飛んで行けるような気がしました。
(気持ちいいな)
灯台守は、北野水平線をめがけて飛びました。どれくらいの時が経ったでしょう。灯台守は他の海鳥たちと同じように、長い、長い間飛んでいました。
眺める景色はいっこうに変わりませんでした。北の水平線は、北の水平線のまま、青い空は青い空のまま、もっと青い海は、もっと青い海のまま。
(やっぱり海は大きいな。なんだか、疲れたよ)
灯台守は少し頭を下げました。
青く広がる海に、白く輝く波がありました。けれども一つだけ、なんだか様子の違う波がありました。そこにだけ、光のスポットを当てたような、他の波より少し光の量が多いような、そんな不思議な波でした。
(なんだろう)
灯台守は行ってみることにしました。
灯台守が近づくにつれ、さらに光の量は増すようでした。
(魚だ!)
大きな、大きな群れでした。
たくさんの魚が、海面を飛ぶように泳いでいました。
そこに太陽の光が強く反射して、不思議な波を作っていたのでした。
(魚かぁ)
灯台守は海の世界を覗いてみたくなりました。
灯台守がそう思うと、灯台守は大きな群れの中の一匹の魚になっていました。
灯台守の周りを、矢のようにたくさんの魚がつっきりました。灯台守は懸命に泳ぎました。
上も前も、後ろも左も右も、どこを見ても銀色の鱗を持つ、同じ形の魚ばかりでした。
長い、長い間、灯台守は他の魚と同じように泳いでいました。いつの間にか、見ることも、聞くことも忘れ、いや、そんなことも分からないまま、灯台守はただただ泳いでいました。
どれくらいの時が経ったのでしょう。灯台守は時の世界から離れてしまいました。
そんな中、突然、頭に石をぶつけられたような激しい驚きがあり、灯台守は、時の世界に連れ戻されました。
(雨だ!)
海面を激しく雨が叩きました。
我に返った灯台守は、一人群れを離れ、海中深く潜りました。一人で泳ぐ海の世界は、さっきまでの海とは別のものでした。
色とりどりの海藻、七色に輝く魚たち、全てのものに驚きと幸せを感じました。平穏の時間が流れていました。灯台守はそんな時の中で、いつしか、深く、深く、眠りにつきました。
雲の多い夜でした。海の世界も、空の世界も、優しい暗闇に包まれていました。灯台守は、そんな暗闇の中で、つらつらと、目を覚ましました。
はっきり目を覚ましたときには、あまりの怖さに、灯台守の身体は硬く固まってしまい、目だけがせわしく動きました。
昼間の月の世界のような海の中は、今はもう暗黒だけでした。寝ているのか、起きているのか、灯台守は、自分はもう死んでしまったのではないだろうかとさえ思いました。
暗黒の世界では、どっちが上で、どっちが下なのかも定かではありませんでした。恐怖の中で、目だけがせわしく動きました。
けれどもそこには、暗黒だけでした。
(あっ!)
灯台守は、そんな暗黒の中で、光を見たような気がしました。
うっすらと、海中が明るく照らされたのを感じました。
(光だ!間違いない!)
灯台守は無我夢中で、光の方に泳ぎました。心臓がちぎれて、自分の前を泳いでいるような、そんな錯覚を覚えました。灯台守はあまりの勢いで、水面を突き抜け、空高く跳び上がりました。
(星・・・)
星の光が目の中にまっすぐ飛び込んできました。
灯台守は確信しました。そして海の中へ、落ち込みました。
冷たい水の中に落ち込みながら、不思議と灯台守の心は、落ち着きを取り戻しました。そしてもう一度、海面にちょこんと顔をのぞかせ、夜空を見上げました。雲の切れ間に、無数の星々が煌めいていました。
灯台守は、すっかりと心を落ち着かせ、すいすいと夜の海を泳ぎました。冷たい海水を、心地よく感じました。
夜の海を泳ぎながら水面を見上げると、星の煌めきが、滲んで見えました。優しい、優しい、希望の光でした。灯台守は、夜の海に別れを告げ、星の世界へと旅立ちました。
灯台守が願うだけで、そこはもう、星の世界でした。
青白い光が灯台守を覆っていました。
灯台守は、星々を行き交う流星になっていました。
星の世界は不思議な世界でした。
海の底よりまだ暗く、聞こえるものは何もなく、だけれども、なんだか懐かしいような。暗黒の持つ、恐ろしさがありませんでした。
広く、大きく、深く、流星になった灯台守は、どこまでも落ちて行っているような、止まっているような。それは、時にしても、同じことでした。ただただ、安らいでいました。
時折、灯台守は、いくつもの星を眺めました。
マグマのような赤い火に覆われた、赤褐色の星。風の渦がぶつかっては生まれ、消え、それを繰り返す、風の星。岩の大地に覆われた、灰色の星。ときには何もないただ音だけが鳴り響いている、音の星。雲に覆われた、雲の星。
暗闇の中に存在する無数の星々。
灯台守は、どの星にも、懐かしさと安らぎを感じました。
最後に辿り着いたのが、青と白のマーブルの星、地球でした。
青い海、緑の森、白い川、氷の大地、たくさんの人が行き交うコンクリートの街、黄色い砂漠、象の群れが走るサバンナ、戦火の炎。
夕焼けを越えれば、そこはもう夜の海でした。
暗い海の上で、一筋の光が灯台守を導きました。
(僕の灯台・・・)
灯台守はいつも海を見ています。
朝焼けの海を、真昼の海を、夕焼けの海を、真夜中の海を。
灯台守は海を見るのが好きでした。
波の音を聞くのが好きでした。
(おしまい)
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