公共の場における赤ちゃんの泣き声問題について

ネット上でしばしば話題に登るテーマはいくつかあるが、その中でも「赤ちゃんの泣き声問題」がある。

これは公共の場で赤ちゃんが泣くのを嫌う者と赤ちゃんが泣くのを擁護する側の闘争である。

赤ちゃんの泣き声問題は「赤ちゃんは泣くのが仕事」「批判者も赤ちゃんの頃泣いてただろ」「しつけしない親が悪い」「赤ちゃんにしつけできるわけないだろ」等の平行線の議論で決着はついていないように思える。

先に私の意見を表明しておくと、「赤ちゃんの泣き声は耐え難い。だが理性でそれを我慢するのが人間である」ということになる。

赤ちゃんの泣き声はなぜ耐え難いのだろうか。それは進化生物学的な話題になる。それは、不快な泣き声をあげる赤ちゃんは世話を受けやすいからである。もし赤ちゃんが静かに泣いているのであれば、その赤ちゃんの世話は後回しにされる。しかし不快な泣き声をあげるのであれば、その泣き声を止めるために周りの大人が世話を積極的にし、手厚い保護を受けられ、結果として生き残る可能性が高くなる。これらの淘汰の結果、赤ちゃん(私やあなたの赤ちゃん時代含む)は不快な泣き声をあげるようになった。

または、同様に我々大人の側の変化もあっただろう。赤ちゃんの泣き声を不快に感じる親は、自身の赤ちゃんの泣き声を止めるために不断の努力をしただろう。もちろん世話をよくすれば、赤ちゃんの生存率は上がる。この結果、「赤ちゃんの泣き声を不快に感じる脳の仕組み」の性質は受け継がれていき、今の我々の殆どが赤ちゃんの泣き声を不快に感じる、というわけである。

これらのシナジー効果で我々は赤ちゃんの泣き声を耐え難く感じるのだ。赤ちゃんの泣き声問題で、「赤ちゃんの泣き声は不快ではない。キモいおっさんのが不快だ」のような論点のすり替えが行われる例があるが、おっさんの存在は不快だとしても赤ちゃんの泣き声を不快ではない、と主張するのはさすがに逆張りだろう。仮にその人が赤ちゃんの泣き声を不快に感じないとしても、先に述べた進化生物学の観点から、多くの人間は不快に感じるはずである。

だが、いくら不快だとしてもは我々大人は「我慢」する必要があると思う。人間は本能を理性で制御できる数少ない動物である。しかもかなり高度な範囲で。犬、猫、猿、一部の鳥、等々はまるでフロイトの超自我とエス(イド)の関係のように本能と理性が綱引きし、理性が勝つことがある(余談だが、動物行動学者のローレンツの著作で鳥の本能と理性の戦いが描かれている。面白いので読んでみてね)。人間はこれら動物より大脳が更に発達している。つまり、かなり高次なことまで理性で我慢できるのだ。人間社会がここまで発展したのは他の動物に勝る理性のおかげだ。その理性を最大限発揮し、我々は赤ちゃんの泣き声を我慢できる。この本能の我慢で人間の社会は回ってきた。

と、私の主張はこのようなものである。繰り返すが、赤ちゃんの泣き声は紛うことなく不快だが、それを耐えるのが社会的動物である我々ヒトなのだ。みんなも赤ちゃんが泣いているのを見たら我慢してね。泣き声を不快に感じるのは進化生物学的にはむしろ正常である。だが我々の肥大化した大脳はそれの我慢もできるのだ。みんなでちょっとずつ我慢して明るい社会を築こう。

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