「現代社会における神に何の意味がある?」の話
我々は、現代西洋資本主義が掲げる「効率的な大量所有と大量消費」という原理によって、生まれながらに毒されている。
その原理は「効率化」の名において地球規模で人を拘束する。
「多様性を重んじる」と言いながら自らの利益を案る。
各人が「人生における絶大な優先度を誇る目標」もなく淡々と目の前の流れ作業をこなす。
ふと訪れる社会や隣人や自分にすら疎外されることに由来する「至極真っ当な孤独感」に対して「大量消費」という幻想のむさぼりに偽りの満足感を得て誤魔化す。
そのどこに美しさ、本来生物が持っていたはずの自然体があるというのか。
別に「かくあるべし」とは言わない。
社会において最適解などあろうはずもないし、思いついてもそれは資本主義の利潤をすする者どもに握りつぶされるだけだろう。
そして、腹立たしくも、そこに甘んじる自分が実に愚かしく思え、正しくいられないのが嘆かわしく思える。
資本主義の原理が人の性格を歪め、その精神に宿る神の概念すら歪めてしまったのだ。
免罪符、お賽銭、お布施、神への投資の行為ではないか。
そもそも父権的にしろ母権的にしろ、偶像崇拝自体が偽りなのだ。
ビジネスが絡んだ、ビジネスパートナーとしての神の姿は人の形をしているのではなくて、我々がビジネスの成功を神に望んだから「成功を授けるために」我々と同じ人の形をしているのだ。
(動物的・自然的な偶像であれば、尚のことその寄る辺に依存していることを証明するだけである。)
「成功を授ける」ということは「特定分野におけるNo.1を授ける」とか「特定の地位を授ける(所有させる)」ということで、そこには「絶対無」としての統一性・網羅性はない。
そして単なる「値段のつけられた商品」になった今、最早偉大さや有難さなどどこにあるというのか。
「絶対無」としての姿こそが神のあるべき姿であるなら、愛の実践・善き行いの実践は、詰まるところ、はじめの一歩としてそうした「商品としての神々との決別」にあるのではないのか?
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