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【考察】ペルソナ5 ザ・ロイヤル メガテンのLNCから考える怪盗団

こんにちは、なるぼぼです。

お待たせいたしました。
ペルソナ5を女神転生的な軸から語るシリーズ、第二弾です。
今回はストーリーとキャラクターを切り口として、メガテンのLNC論との繋がりを考えていこうと思います。
相も変わらず長々と語ると思いますが、気楽に読んでいってもらえればと思います。
よろしくお願いいたします。

本稿には、ペルソナ5ザ・ロイヤル及び真・女神転生シリーズのネタバレが含まれます。
ご注意ください。

なお、ネタバレなしのレビューはSteamの方にアップロードしてありますので、そちらをご一読ください。
また、Noteの方にはネタバレありでシステム周りにおける女神転生との繋がりを探す記事をアップロードしています。
そちらも合わせてお読みいただけると、本記事をより楽しめると思います。

1.獅童正義と怪盗団

さて、前回もちょっと予告しましたがまずは獅童の話から。

獅童は怪盗団に立ちはだかる歪んだ人間としてのボスです。
「Rivers in the Desert」とかいう超かっこいい曲で出てくるムキムキのおっさんですね。
まずは彼がメガテンらしいと思う部分をお話しましょう。
僕は彼の背後に、徹底したロウのキャラ付けを見たのです。

さて、まず彼の詳細を軽くおさらい。
獅童正義は現職の政治家であり、新党結成から総理大臣就任を狙う人間です。
そのうえで若葉の認知訶学研究を奪った挙句、要人殺害を明智に任せたうえで自分は堂々とし続けるというバケモンみたいな人です。
そんな悪を煮詰めまくった人物ですが、僕は彼をロウフルな思想の持ち主であると考えました。
なぜか。そこにはオマージュとしての「沈没」怪盗団との対比的存在としてのロウ意識がありました。
順に見ていきましょう。

オマージュとしての「沈没」から。
シドウパレスは国会議事堂をもとにした船であり、獅童という導き手にあやかれない人物は全員おぼれ死ぬという世界になっていました。
船上の各界著名人や獅童の腹心は幸せそうに「我々が獅童先生に選ばれたのだ」と話します。
その一方で、国家の中枢である東京は沈み、国というものは獅童が進むためのフィールドでしかないように表現されています。
そう、文字通り獅童の頭の中の東京は沈んでいます。
…沈む東京。
これ、どこかで見たことがありませんか?

そう、「真・女神転生」の東京大洪水です。
東京大洪水は四天王を撃破後に、カテドラルや東京タワーの一部を除いて復興しつつある東京が水没するというものです。
これにより多くの人々が亡くなったことが予測されますが、ロウヒーローは「神の怒りが降り注いだ」「邪悪なものに満ち溢れた東京は消えた」と悠々と語ります。
真1で大洪水の意図は多くは語られませんが、おそらくロウ側の選民思想によるものでしょう。
真2のメギド・アークのように「選ばれしものだけが生きればよい」という考えがあって行われたものだと推測できます。
愚かな神の御使いにならないやつらは皆死んでしまえ。
こうした考えは、歪んでいるにしろ「自分を信用しない奴らは全員船から降りておぼれ死ね」と考えるシドウパレスにも如実に表れています。
こうした部分に、ロウ的な獅童の思想を感じることができます。

次に怪盗団との対比。
これはシンプルに、怪盗団がカオス側の思想を強く持っているということです。
カオス思想とは何か。
カオスとは、混沌による社会の中で、弱肉強食でありながらも自由をつかみ取るという世の中です。
真5では多神教による統治がカオス側の思想として語られましたが、そこでは「誰を選ぶか」という意志の強い人物が生き残り何も選べない弱い人は捨てられるとエンディング中で語られます。
怪盗団は、こうしたカオスの思想にかなり近いのです。
彼らは「悪人の成敗」「心を盗む」という過程を通じて、徐々に自分たちが「弱者に対する自由の確保」という目的意識を持つようになります。
竜司が作中でよく「俺らみたいな思いをする奴を増やしたくない」と語りますが、ここには「自由の確保」があるように感じます。
あくまでカオス思想は混沌をテーマ付けしているので弱者を守るという思想は全くないのですが、そこは怪盗団の正義ということでスパイスがつけられているのでしょう。

こうした思想は、結果的に獅童正義との対決に向かっていきます。
それは「腐敗した既得権益との戦い」というものになっていきました。
真2のロウフルな東京ミレニアムでは、弱者はファクトリーやヴァルハラで作られた幸福や作られた労働に搾取され、頂点にいるセラフ3天使は愚かにもメシアを人工的に作り上げ、創造神までも人口的に作り上げることで理想の千年王国を無理やり作ろうとしました。
こうしたセラフたちは「腐敗した既得権益」であり、これを現代社会に落とし込んですべてを支配しようとする流れが獅童正義たちだと言えます。
そう、ペルソナ5はロウとカオスの戦いを現代東京に落とし込んだうえで、悪の既得権益=ロウと正義の怪盗団=カオスに結びつけたのです。
分かりやすい怪盗団のサクセスストーリーでありながら、メガテンシリーズが追及したロウとカオスの対立を再現している部分は凄いと思います。

2.統制の神とシジマ

さて、本作のラスボスの話。
実際には次に話す人物がラスボスになりますが、その前の統制の神ヤルダバオトの話もしておきましょう。

ヤルダバオトは、人間が怠惰で何もできないことを事前に知っており、そうしたうえで主人公に勝ち目のないゲームを持ち掛けます。
彼の持ちかけたゲームは怪盗団が大衆を前向きにさせることでしたが、そんなことは実質不可能。
なぜなら、ヤルダバオトが大衆を操作し、歪んだ世界であるメメントスと合一化することをもくろんでいたからです。
だからこそ獅童を倒し英雄となるはずの怪盗団は人々から忘れ去られ、完全に蚊帳の外に置かれてしまいます。
そうして絶望した状態で、完全に勝てる状態で聖杯から攻撃を仕掛け、メメントスと合一化し自分が世界の神になろうとします。

さて、こうしたヤルダバオトも僕はあるオマージュであるように感じました。
それは、あの神聖4文字様。YHVHです。
順にオマージュと思われる部分を見ていきましょう。

まず、聖杯のデザインから。
まぁ聖杯と言ってしまっている時点で明らかに神格性があるのですが、それ以上に特徴なのが色。
見事なまでの金色です。
あの人の顔の色と全く同じなんですね。
まぁこれを見て人々が崇めているならもうね…と思いました。

とはいえこの時点ではこじつけ臭いです。
だから、もっと重要な点を話しましょう。
それは、ヤルダバオトが統制の神と名乗っている点です。
人民を掌握し、自らの名のもとに支配しようとする姿勢は、どこか神としての意思に近いようにも感じます。
意思のない人々を対象としているものの、支配や統制によって人民を支配する一神教的考えは、YHVHの求める支配に近いものです。
ただし、YHVHは選民思想的な点がありメギドアークを発射していた一方で、ヤルダバオトは人民を怠惰に結びつけるだけなので必ずしも合致しているとは言えないと思います。
まぁモチーフとして似てるってだけなのかな…?

さて、もう一つヤルダバオトとメガテンの話をしましょう。
このヤルダバオトに関連付けて、僕はある一つの思想を思い出していました。
それが真3におけるコトワリの一つ、「シジマ」です。

真3のプレイ後、僕はコトワリに興味を持って簡単にNoteにまとめました。
真3のコトワリを分析しながら、どういう思いがあるのかを見ようとしました。
しかし、シジマだけは共感できる部分がありませんでした。
簡単に言うと、シジマは「人間はシステムの一部になるべきだ」という思想です。
僕は真3の記事でシジマのロウ的側面を見出しましたが、思想が何をもって幸せとするのかが一切わかりませんでした。
千年王国という言葉まではわかるのですが、人間が意思を持たないことに何の幸せがあるのか、ただただ生かされていることに何の幸せがあるのか、一切わかりませんでした。
ヨスガやムスビはわかりやすかったんですけどね。

しかし、そうした思考はヤルダバオトを見て変わりました。
ヤルダバオトは人々に怠惰を要求します。
怠惰になった人々は、思考を放棄することで幸せを獲得していました。
本作では、それが悪意的に「牢獄」として描かれます。
自由のない、かごの中の鳥のような扱いを受けているわけです。
そしてヤルダバオトの指揮のまま、世界は動き出します。

しかし、人々を拘束し自由を奪う「牢獄」が、「世界を回すだけのシステム」であるのならどうでしょうか。
思考を放棄し、神から「やること」を指示されてそれだけをする世界。
そこには苦しみがないのです。
神から与えられるものにこそ幸福があるとするのならば、人は幸せに満ちた世界に安寧を求めることができます。
静かに明滅し、神から与えられた己のすべきことを苦しみのない中で静かに行い続ける、システム化するだけの社会。
それこそが氷川の求めた「千年王国」ではないのか。
僕はそうした点に、ヤルダバオトと対峙してはじめて気づいたのです。

もちろんこうした思想が許容されるべきではありません。
神の名のもとにやりたい放題する輩を、怪盗団は許すわけがないのです。
弱者に手を差し伸べ、自由を求めるカオスな彼らには、ヤルダバオトの述べるロウフルな思想は許されませんでした。
結果としてヤルダバオトは倒れます。
ただ、ヤルダバオトは私利私欲でありながらも、その陰にあるシジマの考えを理解したことで、僕は色々と納得したような気がしました。

3.○○の正義と神の息吹

さて、続いては○○の考えです。
目次で出すとネタバレになるので流石に避けておきましたが、まぁ皆さんこの流れだとお分かりですよね。
そう、丸喜です。
続いては、丸喜に潜むロウの存在を見ていきましょう。

丸喜の思想は、わかりやすく「幸福を与える」というものでした。
この思想はある種「正義的」に見えることもあって、ジョーカーも悩みます。
というか芳澤に至っては向こうに飲み込まれます。
ただ、ストーリーの進行上丸喜とは自然と対峙せざるを得ないのですが、僕は最初「別に丸喜悪くないから、対峙する理由もないんじゃない?」と思っていました。

というのも、丸喜は「真に幸せを願う存在」であるからです。
そして彼はペルソナの介入があったものの、純粋な意思として不幸な目にあった人を救いたいという、ある種怪盗団と同じような考えをもって認知訶学の研究を続けていました。
だからこそ、彼自身は純粋な気持ちをもってして幸福にしようとしているのであって、これに乗っかればいいじゃんと思っていました。

なぜなら、怪盗団は少なくとも「スーパースター」で、僕らには到底できないような「叛逆」を、軽々とやってのけているからです。
もちろんこれは怪盗団に感情移入しまくっていると「ありえん!」と思うのですが、冷静に考えると命がけで改心するなんてのはどだい無理な話です。
また、家族の死や濡れ衣、夢を潰されるなどかなりの苦しみを抱えたうえで、それを反逆の意思で全部乗り越えてしまうのだから、怪盗団は「強い人間」なのです。
少なくとも僕みたいな「弱い人間」には無理だと思いました。
だからこそ、怪盗団の敵対心にプレイ中は「そこまでするか?」と思っていました。
だったら丸喜の思想を受け入れるほうがよっぽどいい。
幸せの中に埋もれていた方が、よっぽど幸せだと思うんです。

まぁただこれも丸喜の思想をよくよく考えるとよくないことだと気づきます。
なぜなら、丸喜の思想は「ヤルダバオトと大して変わらない」からです。
彼は人々を幸福にしようとしていますが、彼は「選択した人」しか幸福にしようとしていません。
結局、丸喜の望む世界は、彼の裁量で「不幸な人」が救われるだけで彼に不幸だと思われなかった人は何も変わらない、選び取られた人だけが楽園に行ける世界なのです。
こうした選民思想は、言ってしまえば獅童やヤルダバオトなんかと大して変わりません。
彼もロウフルなのです。

そして、彼の思想には「怠惰」という存在が眠っています。
丸喜によって過去の幸福を与えられるということは、全てを受け入れて前に進むという進歩の過程を奪い取っていることに他なりません。
怪盗団はこれに怒っているわけですが、これは言ってしまえば進むことを放棄する「怠惰」と同じです。
今のままでいい、と思い込ませているのは、ヤルダバオトと一切変わらないわけです。
それが過去の幸福による薬漬けか、それともすべてを捨て牢獄に入る幸福かという違いはあるものの、本質的に人間を怠惰にさせることには変わりありません。
つまり、丸喜はロウフルで獅童やヤルダバオトと根幹が変わらないから、怪盗団に批判されてボコボコにされたわけです。
(あとこれは余談ですが、1月中の街頭の会話で、幸福になった人とそうでない人の間に認知のずれが起きており矛盾点が露出しつつあるところから、丸喜の思想は現実的にも無理があったと思います。)

さて、こうした丸喜の思想。
僕は彼にもメガテンの人物の背景があるように感じました。
それは、ロウヒーローたちです。

ロウヒーローは、歴代においてロウ側の重要人物として主人公を勧誘する役割を持つ人間です。
大抵は天使と合体したり洗脳されたりして、悲惨な末路を迎えます。
ここでは、真4のロウヒーローであるヨナタンを例にとりながら話していきます。

彼らと丸喜の似ている部分とはなんなのか。
それは、真に正義的なことを考えていたものの、結果歪んでしまったという点です。
ヨナタンからそうした正義の歪みを見ていきましょう。

まず、ヨナタンは自国の民に安寧が訪れるような世界を願っていました。
彼の願う世界は、平和に皆が暮らすことのできる桃源郷だったのです。
そもそも真4はカジュアリティーズ(下層階級)とラグジュアリーズ(上層階級)の間のいざこざから物語が始まっており、ヨナタンはこうした民の争いを憂いていました。
そして、彼は国の規律や法を大事にしながらも、民には平等に接するという心優しい人間でした。
意見が対立するワルターにも、ケガレビトと呼ばれ蔑まれていた東京の人々にも、彼は一定の敬意を払って受け入れていました。

ところが、彼は天使の思想に飲まれて行き、結果的にセラフ4天使と合体することで思想が「神への隷従」と「異分子の排除」に変化します。
もちろんその段階でメルカバ―となりヨナタンの意思は消滅していますが、平和を愛し民を尊重する彼の心は神によって利用され、神への服従と支配する王国の完成にまで変化してしまいました。
それ以降は大アバドンによる東京破壊に代表されるようにやりたい放題するようになり、ロウらしい選民思想へと切り替わっていきます。

そうして神に利用されたことで優しさを捨て、変化してしまったヨナタン。
一方で、丸喜はそうした平和や幸福を願う思想をずっと持ちながらも、理不尽な研究機械の剥奪によって狂ってしまったがゆえに純粋に選民思想化してしまったケースです。
両者は似ているようで少し違う存在なのです。
しかし、彼らの根幹には他人の幸福を願い平和を望むという、強い正義の心がありました。
彼らは全く違う理由により歪んでいきますが、元となった正義感というものが共通しているのが、女神転生との共通点なのかなと思います。

もちろんこうした「変化」というのは、真1のロウヒーローも、真2のザインも持っています(真5のイチロウは別)。
そうした変化によって狂っていった彼らに、丸喜はどことなく似ていて、物悲しいような雰囲気もありました。
丸喜に刃を向ける悲しさは、仲間だった歴代ロウヒーローに刃を向ける女神転生の主人公とどことなく似ているのかもしれません。

4.怪盗団の真なるカオス

さて、最後は怪盗団の話。

僕はここまで、怪盗団の存在をカオスだと言っていきました。
弱者を救うという相違点はあるものの、強者としての自由を求める姿勢というのはカオス思想に近いものです。
また、わかりやすい二極対立として本作では腐敗政治とロウが充てられており、その対抗馬として怪盗団はカオスな思想を持つようになっているのでしょう。

では、本作におけるニュートラルとは何なのか。
それが、丸喜戦後の怪盗団だと僕は思っています。
そう、本作は怪盗団が丸喜との戦いを経て「カオスからニュートラルへと変化している」と考えたのです。

ヤルダバオトとの戦いでは、「怠惰の檻に入る奴らに、自由を与えてやる」ことが怪盗団の目的でした。
つまり、怪盗団は弱いものを助けようとはしてくれますが、大体は自分で何とかしなさい、今まで通りの世の中でありなさい、と人々に告げるわけです。
迫害され社会で苦しめられた彼らだからこそ、強くなった彼らは彼ら自身の自由を主張し続けました。
モルガナが「自由である」と言い、竜司が「俺たちは自由に世界を塗り替えられる」と言うペルソナ5のエンディングは、彼らがカオスであることを高らかに宣言しています。

しかし、丸喜との対立では彼らの思想に変化が生まれます。
彼らは仮初の幸せを否定し、自分たちが立ち上がって幸せをつかみ取らなければいけないと言い放ちます。
そしてそれを皆に求めます。
ここにはニュートラル的思想と、カオス的思想が混在してます。
カオス思想は自分たちで前を向いて生きていくことです。ここは変化がありません。
しかし、前を向く対象が「怪盗団たち」から「人間全体」に広がりました。
そして仮初の幸せを否定し、「自分たちで幸福を掴め」という彼らの考えは、真4のように自分たち人間だけで幸せをつかみ世界を支えていくという、新しいニュートラルに近い考え方です。
だからこそ、僕はここに怪盗団の思想の変化があると思います。

しかも、自分たち人間が世界を作っていく、そしてそこには幸福なものであっても奇跡なんて必要ないと考えるさまは、真2のニュートラルの復興する東京ミレニアムに近いようにも見えます。
こうして怪盗団がニュートラルに近づいていることが、ペルソナ5ロイヤルの重要なポイントだと思います。
彼らの思想が結果的に良いものへと変化しているという点で、丸喜のストーリーは必要だと思いました。

5.終わりに

いかがでしたでしょうか。

個人的に思っていたことはこれで全部吐き出せたと思います。
本当に面白いゲームだったと思うので、またやりたいとも思う一方で、一周がとんでもなく重いのでどうしようかな…とも思います。
SteamレビューとNoteの別記事もよろしくお願いします。

さて、ペルソナ5ロイヤルはここまで。
スクランブルは今のところ書くか未定です。Steamレビューだけで終わるかも。
最近はソニック熱がかなり高いのでそれ周りの話を書きたいなと思ったり、ニディガの再考察が進んだり、スプラ熱が再燃したりと結構いろいろ手を付けています。
あと、ポエムに近いような思い出話も上手いこと書いてみたいな、なんて思っています。
あとは年末だし1年の締めに面白かったゲームでもまとめてみようかな、なんて思ってます。
今年はかなり豊作だったしね。
また何かまとまり次第投稿します。お楽しみに~。



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