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俺が「Needy Girl Overdose」に思う、「理想」と「宗教」の話

※本記事には「Needy Girl Overdose」のネタバレが含まれます。
お読みの際にはお気を付けください。
なお、前記事扱いのものとして「俺は『Needy Girl Overdose』が嫌いだ」がありますので、そちらを読了してからだと話の時系列が繋がりやすいと思います。

「Needy Girl Overdose」に触れてから三か月ぐらい経つのだろうか。
あれからずっと、あめちゃんと超てんちゃんの幻覚を追い続けながら、いろんな人たちの言葉に耳を傾けながら、配信を見ながら、「結局このゲームは何だったのか」ということを考え続けていた。
正直もうゲームに手を付けたくないレベルで恐怖を感じていたし、あんまり本体を触ることはなくなっていたが、「Internet Overdose」のMVを繰り返し見たり、友人づてでコミケで販売された「ニディガのスタッフほん」を送っていただいたりと、ゲーム外で触れることが多くなっていた。
(これは完全に余談だが、「ニディガのスタッフほん」を送ってくれた人物は、OMORIをギフトしたお返しにニディガを送ってくれた人でもある。
俺と彼とニディガには変な因果でもあるのだろうか…。)

正直、前に出した「解脱」の考えは変わっていない。
しかし、真に今の言葉で彼女の行いを表すならば、それは「今の自分そのものから解脱すること」ではないのだろうか、と感じ始めている。
彼女の言葉はインターネットを捨てるという範疇にとどまらず、不出来な自分から脱することを指しているのではないか。
そしてかわいく(あるいはかっこよく)生きていくこと、自分の劣等感を完全に捨てろという言葉なのではないだろうか。
最近はそう思うようになった。
そして、彼女の裏に色々なものを見出すようになった。
ただ、それでも「それには一切共感できない」という、捉え方の部分は変わっていないと思う。

具体的に彼女の本質的な部分を感じたのは「彼女の配信」である。

この配信では、超てんちゃんに対して送られたメッセージ(マシュマロ)に対して、彼女が的確に答えていくシーンがいくつかある。
ダイエットを成功させたい!応援して!というマシュマロには、「結局ダイエットは地道に努力するしかないんだよ」と言ったり、「恋ができない」というマシュマロには「自分がカッコよく、かわいく生きていればおのずと相手が来る」と言ったりと、ゲーム内のぶっ壊れかけてたあめちゃんからおおよそ考えられないレベルでまともな回答をしている。
正直驚いたが、それ以上に重要なのが「彼女が語るのは常に理想である」ということである。
彼女はマシュマロに対しては「地道に頑張ろう」とか「常にかっこよく、かわいくいよう」とか言葉を残している。

これはまさに理想だ。
実現可能性が高いとは言い切れない。
超てんちゃんの努力は体系維持とかコスメの重視とか色々あるんだろうけど、その生き様をそっくりそのまま捉えて現実の我々がどうこうできるかというと、流石に無理がある。
彼女みたいにYoutubeでホイホイ100万人集められるのならそりゃ素晴らしいことだが、そんなもんはどだい無理な話である。
それを理想にして、我々が「頑張ろう!」なんて思っても限界が来るようにしか思えなかった。
ただ、そういった「頑張る人」は素敵なものなんだろう。
配信を見た直後は、彼女の言葉に反発しながらも強い劣等感を感じた。

しかし、もっと根本的な所を見るとそうした言葉に重みを感じなくなった。
超てんちゃんの中身は壊れているという所だ。
超てんちゃんの中身はメンヘラで病みまくっている「あめちゃん」であり、言ってしまえば「かわいそうな女の子」である。
要は素晴らしいことを語る彼女自身が、「すでに失敗した存在」なのだ。

しかし、「かわいそうな女の子」「半分壊れているような女の子」という中身を知っていても、超てんちゃんの言葉に救われたり前を向こうとしている人がいる。
とんでもない皮肉だ。
壊れているものの天啓を信じて、自分たちから前を向こうとするのだから。
申し訳ないが、俺は彼女の言葉には一切共感する気がない。
甘えかもしれないが、そんな彼女の「頑張って!」「強くなれ」「キショキショ現実と戦え」という言葉は無責任だと思う。
超てんちゃんに依存するようにゲームが仕向けていると以前語ったが、そうであってもこうした言葉に「救い」を求めることは明確に違うと思う。
それを実現できる確たる保証はない。
彼女のためにリスクを張って行動した!としても、失敗したら何が残る?
彼女を責めることしかできないんじゃないか?
努力すればするほど、それを促した存在に「無責任」という言葉を投げつけたくならないか?
俺はそう思う。

ただ、この言葉自体にも矛盾はある。
そうであるならば、元々完璧超人である人物しか言葉を発してはならないと捉えられるのではないか?
失敗した時に努力するよう勧めた人を罵倒しないようにするのならば、努力をそそのかす人物は完璧でなければならない。
そう捉えるのが自然だ。
しかしそんな人間はいるわけがない。

…本当にそうか?
実はそうでもない。完璧超人はいる。
そうした言葉を継いでいるのが「宗教」ではないか?
ようやく主題にたどり着いた。
超てんちゃんを救いに捉える人々は、ある種「宗教」を築いているのではないか?
オタクなら聖地巡礼という言葉にあるように、宗教と信仰に結び付けたワードをコンテンツと結びつけるのも自然だ。
だからこそ怖いと感じたし、批判する部分もあるだろう。
もちろん宗教そのものを批判してはならない。
しかし、そうした宗教が一部で煙たがられるのは宗教に「きなくさい」ものを感じるからではないだろうか。
そして俺は超てんちゃんと周りの奴らからそれを感じ取っているだけではないのか。
今はそう思う。

ただ好奇心は未だにある。
超てんちゃんもそうだけど、その周りにいる人がどんな生活をし、どんな悩みを抱え、どんな苦しみを背負って生きているのか。
その断片が分かるのはSNSやYoutubeのコメントやマシュマロなんだろう。
超てんちゃんを信仰する人々はまるで社会の一部を切り取ったかのように属性に似通った部分があるような気がしてならない。
なんというか揃いも揃って心に闇を抱えてるっていうのかな。
もちろんそうじゃないかもしれないけど、触りを見て俺はそんな風に感じるし、俺もそういう一面があるように感じる。
多少は彼ら彼女らの苦しみに共感できるところはあるから。

それでもなぜか彼ら彼女らと違って俺は超てんちゃんに否定的なんだよな。
もしかするとシンプルな逆張りかもしれないけど、そう片付けるには自分の中で彼女を否定する根拠がしっかりしすぎている。
明確に彼女を否定できるのに、逆張りだけで済ますにはもったいない。
だから信仰する彼ら彼女らを知り、理解する必要がある。

そう考えるんだろう。

もしくは「宗教」には女の子の超てんちゃんに対する憧れの気持ちもあるんだろうか。
彼女のサクセスストーリーを追いかけるのがプレイヤーなわけだが、彼女には「ピ」というサクセスがあるし溺れられる薬もあるし顔はいいし、なにより自由がある。
そうした部分に憧れを抱くのかもしれない。
俺は男だし社会を知らないクソガキだからわからないのかもしれないが、そうした憧れを追いかけているのかもしれない。
これは残念ながら俺には理解できない領域だ。
女装癖でもあったらわかるかもしれないけど。

また思いつける一つの可能性は、「病み」への共感だ。
超てんちゃんは時々病んだり精神的に壊れたりする。
だからODなんて平気でやるし、リスカもするし、やりたい放題だ。
そうした彼女の「ヤバいことができる部分」に憧れを抱いたり、病んでいる彼女自身に自分の苦しみを照らし合わせて共感しているのだろうか。
そうとも考えられる。
ただそれだったら、俺は今全く病んでいないことになる。
ただ俺は自分自身が全く病んでいない幸せ人間だとは思わない。
将来の不安に襲われることも多々ある。
それでも超てんちゃんを理解できないのは、まだ「病み」の深層にたどり着いていないからだろうか。
ここは心理学的領域の先行研究を読む必要もあるのかも。

まぁそんなことを考えながら色々やっていたら、とうとうアップデートが入ってしまった。
正直もうニディガにおけるモチベーションは低い。
触れてはいけない禁忌と言ってしまっては悪いが、これ以上触れても自分が傷つくだけなんじゃないかと思って触るのを諦めた。
俺は超てんちゃんのオタクでも、あめちゃんの「ピ」でもない。
彼女の世界に溺れて、彼女の作り出す非日常でロールプレイをしたいわけでもない。
それはある種「逃げ」かもしれないし、ある種「客観的観測」かもしれない。
いずれにせよ、俺は崇められている「超てんちゃん」と崇める人々を遠くから眺める立場でいたいと思う。
それは後方彼氏面ではなく、「客観的な視点でのプレイヤー観察」であることを強調しておきたい。
でも、そう言って超てんちゃんから逃げようとしてる俺が一番キモいのかもね。

ちなみにそうやって彼ら彼女らの「自分にはわからない合理性」を知りたい、と友人に言ったら「お前はやっぱり人生充実してるよ」と言われた。
社会学って「他者の合理性を理解する」っていう意義もあるらしい。
そういう観点から見れば、彼ら彼女らを理解しようとするのも社会学的認知を持っているのかもしれない。
俺は「わからないから知りたい」という純粋な知的好奇心も働いて、信仰する人々の考えを知りたいと思っている。
それだけは間違いない事実だと思う。

だからこそ超てんちゃんが好きな人に問いたい。
彼女は正しいのか?
そして君たちは仮に彼女が間違っていると思うのなら、なぜそれでも彼女を応援したり崇めたりするんだ?
彼女の語る「仮初の理想」に縋る部分は俺はないと思う。
なぜそうして縋っている?
俺には残念ながらその理由が「わからない」。
だから教えて欲しい。

ただ、俺もさすがにこれが相当難しいことだってのはわかっている。
俺はカウンセラーみたいに慰める役割なんて到底できないから、知りたいという欲望が誰かを傷つけるかもしれない。
そうした難しさも、超てんちゃんとその周りの人々は抱えているような気がする。
でも、そうした人々をまとめて「Needy Girl Overdoseのコミュニティ」にぶち込めるっていうのは凄いことだ。
そうした部分は、ニディガそのものの功績だと思う。
そしてこのコミュニティには俺も偶然触れることができたし、興味を持つことができたからもっと知りたいと思う。
時間をかけてでも、そうした人々の心が理解できればいいなって思う。
何様だよって話だけどね。

言いたいところはこんなところです。
ニディガ本体の方はアップデートもやらないといけないんだろうけど、流石に手が出しづらいのでしばらくはやらなさそう…。
また気が向いたら触ってみようと思います。
それでは。



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