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「Detroit:Become Human」に中庸は存在しない

このゲームは末恐ろしい。
そう思って、僕はこのゲームをやめた。
彼らの結末を拒絶した。

「Detroit:Become Human」は、Quantic Dream開発のアクションアドベンチャーゲームだ。
より正確に言えば「インタラクティブアドベンチャー」であり、アドベンチャーでありながらリアルタイムでの選択や決断をプレイヤーに迫り、その選択によってゲームの進行が大幅に変化する、という内容である。
Quantic Dreamは「Heavy Rain」や「Beyond:Two Souls」などでその実力を見せているが、それはまた別の話。

このゲームの恐ろしさは、一般的に語られる「アンドロイドが自我を持つ恐怖」や「アンドロイドという奴隷の反逆に対する、人間の逆説的な残酷さ」といった点だけではないと、個人的に思っている。

もちろん、マーカスが彷徨うことになる廃棄場のシーンはホラーな展開になっているうえ、アンドロイドの生存本能が見られる狂気性も相まって恐ろしい。
また、マーカス自身の革命的行動も、プレイヤーが人間であることを考えると「このまま進めることが正しいのか」という葛藤もある。
一方で、アンドロイド側に感情移入して見てみると、アンドロイドをものとして扱うことしかできない多数の人間に辟易する。
アンドロイドのことを何とも思っていない人間が、彼らを単純すぎる理由で破壊してしまうという部分に、人間に対する恐怖心というものが生まれる。
しかし、こうした点だけではない、もっと重要な、根本的な問題に、我々は気づいていないのではないか。

そう、このゲームの一番の恐ろしさは、「共存する道が完全に潰えている」という点だ。
(毎度のことながら申し訳ないが)「真・女神転生シリーズ」では、プレイヤーのイデオロギーを明らかにするために、LNCと呼ばれる座標軸が用いられる。
「ロウ(Law)」は法の支配と階級制が支配する安寧の世界、「ニュートラル(Neutral)」は全ての人間が前を向いて生きていく中庸の世界、「カオス(Chaos)」は自由と混沌による誰にでも開かれた弱肉強食の世界、といったものだ。
プレイヤーはこのうち所属する陣営をゲーム内で選択し(もしくは選択させられ)、それによってエンディングが分岐する。
このゲームでは、「規則」と「自由」の間に「中庸」という道が用意されており、どちらにも縛られず、流れるがままに己の運命を受け入れる、というどっちつかずな考え方が許される。

しかし、「Detroit」ではそれが許されない。
「Detroit」上のキャラクターにLNCを充てるならコナーがロウ、マーカスがカオスになるが、カーラはどちらでもなく、無関係な人物である。
となると、自由と規則との対立が展開されるだけであり、その間である中庸という考え方は存在しない。
どちらかに付かなければならないという非情さがある。

さらに、本作はアンドロイド側の目線が常に採用されていることで、虐げられた者が反逆する行為にプレイヤーが触発され、「カオスになっていく」
人間は(カール以外は)徹底してアンドロイドを「モノ」だと思っているからこそ、虐げられる描写が常に描かれる。
個人的なお手伝いロボへの虐待描写から、社会的にバスステップがアンドロイドだけ別になっている描写など、浸透し常態化していることが分かる。
プレイヤーは、そんな中でアンドロイド側としてその仕打ちを受ける側になることで、人間への対立の気持ちが助長され、アンドロイドの反逆を手助けしたくなる。
ここに、カオス側の心理に助長される傾向が出る。

この助長を最も強く表現しているシーンが、ジェリコでのコナーとマーカスの出会いだ。
コナーはアンドロイド変異体事件の捜査を行い、変異体を捕まえる役割を持っていた。
その役割を全うしマーカスを捕まえることが本来の目的であるのだが、プレイヤーの選択によっては変異体となっていた自分を受け入れ、マーカスの味方になることができる。
私もこの結末を踏んだのだが、プレイヤーの足跡を辿ると7割以上のプレイヤーがこのルートを選択していた。
つまり、このゲームの自由というものに、それだけ多くの人が助長され感化されているということになる。

このような、本作の助長する「カオス」な考え方はもっともだ。
多様性が強調される現代において、あらゆる人種や性自認、価値観は許容されるべきであるという考え方はスタンダードになっている。
そうした中で「差別されるアンドロイド」がいるのであれば、それに対しても平等に接するべき、と考えるのは至極真っ当な答えである。
前述しているアンドロイド目線で被虐者側から見ている点も、守ってあげたい感情になるだろう。

しかし、忘れてはならないのは「対立している相手は人間である」ということだ。
当たり前だが、アンドロイドが死に恐怖するのであれば、反逆するアンドロイドが報復を考えるのは自然なことだ。
実際に、ノースはマーカスに「人間を攻撃しろ!」と何度も言ってくるし、コナーも人を殺す選択ができる瞬間に直面する。
人間にモノ扱いされ散々な仕打ちを受けたからこそ、アンドロイドが反逆して襲い掛かってくる、というのは最悪のシナリオだ。
特にジェリコというコミュニティがあることで、彼らがアンドロイド勢力として力を蓄え、多数の人間に危害を加えることは容易に想像ができる。
ここはマーカスの判断によって区別ができるものの、暴力による解決という選択肢があることで、プレイヤーにも少なからず恐怖が残る。
ここに恐怖を覚え行動するのならば、プレイヤーはマーカスを止めるように誘導するか、コナーを上手く操って人間のいう通りの社会に組み込んでいくのだろう。

さて、こうした構図を改めてLNC的に見ると、アンドロイドによる反逆を助長する「カオス」と、コナーなどを操って人間中心の社会に戻す「ロウ」の二つに見ることができる。
序盤で言った通り、本作はロウとカオス、規則と自由の二極対立であり、やはり中庸という道は存在しない。

…といいたいところなのだが、実は本作にも中庸の道は存在する。
いや、正確には「存在していた」。
それが、生前のカールである。
カールはマーカスの主人として、彼に介護の役割を担わせる傍ら、自分が学んできた絵を教え、アンドロイドでも表現をし、人並みに活動できることを説いていた。
そして、アンドロイドと人間は共存するべきであることを重視していた。
しかし、カールは途中で死亡してしまう。
その後、マーカスがアンドロイドのリーダーとなり、中庸の考え方はマーカスの躍進と共に消滅する。

この「共存」の道はなかったのだろうか?
マーカスが平和的デモを行ったとしても、人間はアンドロイドを潜在的脅威とみなすことに変わりはない。
今まで奴隷のように扱っていたからこそ、抑圧されていた力の反発を自らの身で思い知ることになるし、その対処というものは限りなく恐ろしいものになるだろう。
それはあくまで人間サイドの捉え方であり、アンドロイド側がどのような言葉を出そうとも、相互理解が完全でない以上、人間サイドの考え方は何をしても変わることはないのだろう。
カールのような奇異な人物が多数を占めていれば、もしかするとデトロイトのあり方も変容したのかもしれないが、もともと作業を依頼するロボットにそのような感情を持ち合わせろ、という方が無理がある。
だからこそ、無慈悲なぐらい本作は「共存の道」というものを与えず、「中庸」という中途半端な考え方を許さない。
あくまでどちらかの要求を押し通すことでしか、根本的な問題の解決はかなわない。

本作に唯一希望の道を見出すのならば、「世論の支持率」が表記される瞬間だろう。
世論の支持率が上がることで、市民という人間社会がアンドロイドの存在を認めようとしてくれている。
これを異種族への理解と捉えることができるのならば、デトロイトの可能性が少しずつ変わってきているというのだろう。
キング牧師のように、演説で考え方を変え、暴力による革命に頼らないという方法論が、世論を動かすもっともよい方法であるというゲームメッセージは、ある種の救いのようにも見える。

ただし、これで「共存できるのか」という問題を現実的に見ると、私は首を横に振るだろう。
世論がどれだけアンドロイドを支持しても、根本的な「機械」という種族的差異を解決することはできていないからだ。
キング牧師の事例は人と人の共存であり、ロボットを新たな人種として迎え入れ、共に生きて行こうとするのはあまりにも早計な判断だ。
人間の思考を読むということだけでも難しく、共感を得るということも難しいというのを歴史から学んでいるのに、アンドロイドも同じだから受け入れろ、というのは難しい。
特に、本作では「差別されてきたから反旗を翻した」として表記されているが、全くおかしくならないという保証はないのだ。
それに、簡単に思考を共有できるからこそ、そのおかしくなった思考を共有されてしまえば、手を付けられなくなってしまう。
だから、共存というものの実現可能性が低いことが分かるし、本作が共存の選択肢をはじめから出さないところにも納得がいく。

では、どのようにして本作を中庸に持っていけばよいのか。
好ましいやり方ではないが、私は「ゲームをやめる」ことで決着をつけた。
どうあっても、彼らの衝突を避けることはできない。
衝突が解決したとしても、どちらかがどちらかの偏見を持ったまま、物語が進む恐れがある。
なら、いっそ途中で止めることでしかこの無慈悲な結末を回避することはできないのではないか。
そう思った。
フォロワー「水越みづき」氏が、「パラノマサイト」の着地点を自分で決めていたことを思い出して、「自分もそうすることでこのゲームの結末をいい方向に選択できるのではないか」と思った。
だから、このゲームを止めた。

ただ、これだけが理由ではない。
もう一つの理由は、「ゲームにそれを推奨されたから」だ。

ゲーム終盤、もうちょっとでゲームが終わるところで、ファイルを選択した時に、メニュー画面にいるナレーターが「ちょっと待ってくれ」と言ってきた。
今までも急にアンケートを出してくるなど、ちょっと不思議な部分はあったものの、このタイミングで止めてくることに違和感を覚えた。
そして、彼女はこう言い放った。

「ホントにこのまま続けますか?
そのままにしておく方がいいのかも…」

この発言を聞いて、「その選択肢があった」ことを思い出した。
この先を遊びきれば、マーカス達はアンドロイドとしての逆境を乗り越え、自分たちの主義主張を高らかに発信できるかもしれない。
しかし、それはアンドロイドの潜在的脅威を高めることにもつながってしまう。
プレイしながらそう葛藤しているときに、こうした提案をされた。
ゲームが、全く思わぬ視点から、「やめる」という選択肢、つまり「中庸」を実現する可能性がある選択肢を与えてきたのだ。
これに乗らない手はなかった。
実際これで良いのか、とも悩んだが、彼らの真なる共存を願うのならば、今このゲームに触れるべきではない、と思った。
少なからずアンドロイドには感情的に肩入れしているし、アンドロイドに中立的な目を持てば自分は一気に人間側の思考に陥る。
ならば、触れないことこそが真の中庸、どっちつかずなんじゃないか。
そう思って、彼女の意見に乗っかって、このゲームから離脱した。

おそらく、このゲームは「選びきる」ことに意味がある。
しかし、「選ばず退く」こともまた「選択肢」であり、それが真なる「中庸」と「共存」なのではないか。
逃避ではなく、共存のあり方の一つのステージとして、その選択肢や可能性を少しでも残すために、「ゲームをやめる」選択を取った。
それが、このゲームに対する、私なりの回答である。

皆さんの選択に幸あれ。


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