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Mediterranea Inferno こちら、地獄への小路になります。

天国に行くためにはどうすればいいのか。
永遠の幸福にたどり着くためにはどうすればいいのか。
…簡単なことだ。
ミラージュの実を食べればいいだけ。

「Mediterranea Inferno」はイタリアのゲーム開発者、ロレンツォ・レダエリが制作したノベルゲームである。
コロナ・パンデミックから二年経ったイタリアで、パンデミック前にスターだった3人の少年が再会しバカンスを過ごす。


1.世界に押しつぶされる若者たち

このゲームは、「コロナ・パンデミック後における若者の葛藤」をテーマにして物語を描いている。
そこには若者が感じている普段のストレスや、コロナ・パンデミックによって失ってしまった様々なものへの渇望などがある。
最初に気づくのは、イタリアという国の中で、社会の差異にもがき苦しむ若者の存在だった。

わかりやすいのはクラウディオだ。
クラウディオにとって祖父はルーツであり憧れであったが、同時に彼と同化しより尊い存在になる必要があることも自覚していた。
祖父の遺産を非常に大切にし、祖父の成功に誰よりも強い羨望を抱いていた彼は、祖父にならなければならない、ルーツに立ち戻って家を再興しなければならないという使命感に燃えていた。
その一方で、彼は、遺産を浪費して金の無心ばかり考えている父にあきれ果てていた。
父との描写は金の無心や財産がなくなったからどうにもできないと吐き捨てられるシーンなど、ろくなものがない。
父に対する恨みは恐ろしいほどだが、そこには祖父に対する羨望と畏敬が混じった複雑な感情に対する、シンプルな思いがあるようにも見える。

さて、彼からわかることは「世代間ルーツ回帰の重要性」だ。
クラウディオは、異常といっていいほどにルーツの回帰に執着する。
だから、イタリアの遺産もすごく大切にしようとするし、ルーツの原書となる歴史的イベントや墓場などに友人たちを連れて行こうとする。
彼は徹底して過去の存在を重視しており、未来以上に過去から学ばなければ人は進んでいかない、と述べる。
彼に言わせてみれば、成功した人間に学ばなければ、人は進歩しないということなのだろう。
祖父から学ばなかった父は馬鹿だ、というわけだ。

逆に言えば、彼には未来がない。
自分が受け継がなければいけない「クソみたいな過去」のために、「良かったより昔の過去」に依存しているだけだ。
だから、未来というものに期待をしていない。
そしてそれはクソったれなことだ。
「自分がだれか?」という問いを証明するために過去や人を使うのは問題ないのだろうが、それを自分のすべてとして表現してしまっては、自分が何者なのか、そして何をもって未来に進んでいるのかを表現できない。
それは無意味であり、自己を証明するようなものにはなり得ない。

クラウディオはゲーム冒頭、マダマに向けてこう述べる。

「僕はいま25歳だけど、すでにして疲れ切っている。
僕らが受け継いだ世界はめちゃくちゃなのに、それを立て直すことを期待されているんだよ?」

彼は、若者が世間から変革を求められていること、そしてそれが若者に疲労を及ぼしていることを述べている。
イタリアという国を見てみると、若者の失業率がEU圏内でも高く、一方で高齢者社会への進展が著しいという問題を抱えている。
その現状を見ながら、コロナ・パンデミックという病気をトリガーとして、さらなる負担や経済的な労働力としての価値を若者に見出そうということは、もはや社会にとっては自分の首を絞めていることと同じだ。
だからこそ、若者に期待するくせに自分たちは何もしない、クラウディオの親の世代に対して異様なまでに反発を覚えるのだろう。

アンドレアも、悪夢の中で「ジジイが多すぎるからいけないんだ」というような言葉を発する。
もっとも、彼のヘイトの向く先は金銭的なものや期待による圧ではない。
彼のヘイトは「抑制」だ。
彼のヘイトの行く先はLGBT法案を否決した議員だ。
彼らは若者の上の世代で、ただ死んでいくだけのくせに保守的に求めているものをかき消そうとする。
革新を起こせと期待してくるくせに、そのほかの社会的革新には自ら手を付けようともしない。
保守的に自分たちを守るくせに、他人に対しては「新しいことをやれ!」と喚き散らし、できなければ課税などで圧を与える。
若者から見た社会構図はこうなっているのかもしれない。

本作は「悪意や矛盾を誇張した形で描写」している作品だが、この思いというものはどこまで誇張されているのだろうか。

2.過剰なまでの「繋がり」

続いての葛藤は「繋がり」だ。
これはアンドレアがテーマ的にずっと述べていることでもある。

コロナ・パンデミックは繋がりを分断した。
リアルで長期に会えないという繋がりの分断は、インターネット社会のつながりを発展させるだけでなく、体面で出会うことの重要性を再確認させた。
出会いがなくなったことで、壊れる人もいれば、成功する人もいた。
仕事を獲得する人がいる一方で、孤独に耐えられず苦しみ続ける人もいた。
この人間的な繋がりの分断、接触や出会いの抑制が社会にとって大きな影響を与えたことが、コロナ・パンデミックの最大の功罪である。

アンドレアにとって、コロナ・パンデミックは「クソ」だった。
出会いやディスコの空間、人が騒ぐことでしか快楽を得られないアンドレアにとって、孤独な状態は地獄そのものでしかなかった。
他者との交流もネット上だけでは満足できない。
他人との情熱を分かち合いたい。

その結果が友人を誘ってサマーハウスに行こうとする行動だった。
アンドレアのミラージュは他人が多く出てくるだけでなく、情熱的でコミュニケーションに長けている。
「セックスも交流の形ですよね」と語られるシーンもあるなど、アンドレアの展開はとにかく情熱と肉体的接触に満ち溢れている。
性的な描写も強いため、クィアの主張も激しい。

しかし、彼は強すぎるほど繋がりを欲しているように感じる。
しかも、彼が求めるのは多くのつながりだ。
繋がりを求めるために求めていないようなものを吸い続け、多くの他者を理解し続けようとすることほど難しいものはない。
それは本質的に自分を吐き出す趣味的アイデンティティとは逆説的で、自分が何者かを証明するには「虚無」である。
誰かに囲まれているため孤独は感じないが、逆に「みんなにとっての理想であり続けなければならない」ため、非常に苦しい思いをする。
インスタグラムに本当に見たかったのかわからない観光地の画像を上げ続け、友達への感謝を常に述べ続ける。
陽キャ的な理想像に見えるかもしれないが、そこには自分を表現するための「自分と向き合う時間」が喪失しており、コロナ・パンデミックなどの断絶を如実に受けるだろう。

悲しいことに、多くの人が「他者と会話するために、娯楽を消費する」という結末に帰着している。
しかし、それは大きな問題ではない。
それが問題になるのは、その娯楽というコンテンツそのものが膨大になりすぎて、他人と話をするためだけに大量の時間を消費してしまうことにある。
もちろん、そのコンテンツに愛着をもってファンで居続けることは非常に重要で、それをアイデンティティにしてしまえばいいのだが、今のコンテンツ量ではそこに至る前に次のコンテンツに移動しなければならない。
時間に追われる現代人だからこそ、コンテンツにもコスパ、タイパを求めてしまうのだ。
これを正面切って悪と言うわけではないが、その娯楽消費をしたがために、自分が無趣味人間だと感じてしまうのはあまりにも悲しいことである。
アンドレアのように自己を失ってしまえば、同じ存在であることに絶望してしまわないのか。
他者を心配するなどお節介も甚だしいのだが、こう思わずにはいられない。

3.強く求められる「自己」

最後の葛藤は「自己実現」だ。
ミダは己の存在と常に戦い続けている。

ミダは、ファッションを外に出すことで成功したインフルエンサーだ。
彼はインターネット上に自らを出したことで自分の職も手に入れて、自分の存在を様々な人に認めてもらっている。
彼はそれを自覚していて、それを「力」と呼んでいる。
コロナ・パンデミックを上手く生きたようなタイプの人間だ。

しかし、彼のファッションの表現は残念ながら良い意味での自己表現ではない。
彼の自己表現はサン・ガイズとして惨めだった自分へのアンチテーゼであり、一緒にいたクラウディオやアンドレアへの復讐であった。
しかも、彼はクラウディオを愛していた。
パンデミック前夜にクラウディオに振られてしまったことで、ミダはまた彼に気づいてほしいという理由でSNSを始めていた。
そのため、彼にとってSNSは自己表現をする空間ではなく、クラウディオ一人に向けたアピールのメッセージだったのだ。
だから、たくさんのフォロワーや仕事は付随してきたものであり、それを力として認識できても満たされることはなかった。

正直、自分はミダに一番共感した。
自分もコロナ・パンデミック直前で恋人を失って孤独になり、自暴自棄になったときに見つけたのがnoteというコンテンツだったからだ。
だから、SNSで何気なく始めた行動が自己表現として正当なものになっていって、確実に自分のアイデンティティとして確立していくのはよくわかる。
ミダほどではないし、自分はこれを仕事に結び付けたりはできていないけど、彼女の基盤となる強かな生き方には大いに共感できた。
コロナ・パンデミックだからこそできる生き方で成功する面白さは、自分にもよくわかる。

しかし、ミダには共感できない部分もある。
それは、まだミダがクラウディオに思いをはせており、彼女のアイデンティティはクラウディオの承認であるということだ。
ミダはクラウディオのためにSNSを始めたのであって、自分の価値を作ろうとしたり、自分のために始めたわけではない。
彼は、本心では孤独を望んだり自分自身の価値を望んでいたわけではなかったのだ。
だから、自分は彼には完全に同意できない。
この記事を書き始めたことに他意はないし、とにかく自分の書きたいものを書こうとして夢中になっていただけだったから、誰かのためを思い続けているわけではない。
その届かない感情こそが決定的な違いなのだろう。
また、ミダはファッションという自分の姿かたちさえ道具にしている分野を扱ってる点も、違いになるのだろう。
見られるからこそ、相手から「理解された気になる」と思ってしまうのかもしれない。

ミダは力を持っていた。
しかし、その力を適切に伝えることができなかった。
その力も、クラウディオに「君は自慢しかしていないじゃないか」と評価されてしまう。
自分の力を示すことに大きな意味はあるのだろうが、それの使い方を間違えるだけで意味がなくなってしまうのだろう。
ミダは結果として狂ってしまう。
孤独を望んでいたのに、繋がりを断ち切ることを欲していたのに、結局は信頼できる人からの承認を得たいだけだった。
特定の誰かからの気持ちを得たいという難しさは、恋愛の難しさとしてミダの前に鎮座している。

4.アンチテーゼとなる「競争」

本作は、3人の自己に悩む少年たちが、ミラージュの実を求めて闘争する物語だ。
本作では若者が生きづらい存在であることがマダマから早々に語られる。

あなただけの終わりなき夏に到達するために、戦いなさい。

本作では、友情関係にあった3人の若者が、2年の空白期間にそれぞれ自分の価値を見失い、それを再度求めてお互いに出会うことに始まる。
再起の機会を求める若者たちは、過去や未来、それぞれに希望を抱いて、実現しようと努力する。
それが意味があるかないかは置いておいて、自身の立ち位置、社会にいる理由、つまりアイデンティティのために努力する。
その時間だけでも十分な意味はあるが、そこで友情にヒビが入る。
本作の主題はコロナ・パンデミックの若者の難儀ではあるが、サブテーマとして「友情の亀裂」もあると思う。
自分を求めすぎるがあまり、友人との関係性にも傷が入ってしまった。
もちろん過大な表現ではあるが、空白の期間は自分を見つめることしかできないのだから、友情というものも一笑に付してしまうのかもしれない。
それ以上にもともとの関係性に問題があったとも言えなくはないのだが…。

より問題となるのが、友情の関係性において「体面」というものが存在していたということだ。
彼らはキアラたちに文句を言われるまでは、お互いに亀裂のある言葉をたびたび放つものの、明確な行動には移さない。
明確な行動が起こるのは最後の最後だけだ。
お互いの恨みつらみが爆発し、シリアルキラーが誕生する。
友情というものに依存していようがいまいが。

言っておきたいのは、彼らは友情にヒビをいれたいわけではないということだ。
ミダに関しては関係性を切りたい、孤独になりたいというが、本心はクラウディオと結ばれたいだけであり、アンドレアの存在を不要と思い込んでいるわけでもないので、友情そのものを悪意的にとらえているわけではない。
サン・ガイズの時代を悪夢に思おうが天国のような夢と思おうが、彼らにとってそれは友情を育んだ時間であり、大事な時間として記憶されているのだ。
だからこそ、2年ぶりに話をしても速攻で集まるわけであり、それ以上の意味をなさない。
だから、友情ではなく己のエゴが肥大化しすぎたことで、シリアルキラーが登場してしまったといえる。

では、なぜこうなってしまったのか。
それはこの先にある「ミラージュ」にある。

5.「ミラージュ」

ミラージュとは結局何だったのか。
ミラージュは「己の理想に近づくための幻覚」であり、「愛の小路」でもある。
己の理想を見せるかのようにミラージュ中の人間は欲望を満たしてくれるし、自分を肯定してくれる。
愛の小路であるそれは、愛は愛でも自己愛への小路であって、自分を完全に理解するためのステップだ。

ミラージュは、隠語的な麻薬のようにも見える。
どんなに幸福な夢よりも鮮明に、確実に幸せに続く道を見せてくれる実。
それは最高の幻覚であり、最高の麻薬だ。
中毒になるかのように、争ってエデンのためのミラージュの実を手に入れるというのは、神秘的かつ狂気的でもある。
本作はキリスト教的側面、特にカトリック的な側面が強い。
カトリックな神聖な場を求めるクラウディオは巡礼のように自らのルーツを幻覚を通じて追い求めていく。
アンドレア、ミダもクラウディオほどではないものの、宗教的モチーフが用いられている点がある。
メタファー的に分断や繋がりを示す糸や、悪魔や天使のように誘惑や痛み、恐怖を与えるシーンもあり、美しい。
ミラージュという麻薬の中には、エデンとそのための果実のような、神話的側面も見える。
そんな麻薬だから、自分自身のために扱うことを、3人みんなが選択したのだろう。

ミラージュは、自己愛の象徴であり、肯定する最高の実だ。
しかし、ミラージュの悲しいポイントはそれが「肯定でしかない」ことだ。
愛の小路は自分を愛せるようになるだろうが、自分を愛することがいくら必要であるとはいえ他者を忘れ去ってはいけない。
しかし、自己実現のチャンスが有限であり、限界を超えたらシリアルキラーになってしまうほどにギリギリであるという彼らにとって、ミラージュというのは喉から手が出るほど必要なものだった。
他人など必要ない、他人の叱責や否定など何の意味も持たない。
自分を理解してほしい、自分を愛してほしい。
それをサマーコイン程度で手に入れられるのなら安いものだ。
限界状態だから、否定するキアラたちの声にも耳を傾けず、ミラージュの実の肯定に全てを委ねようとする。

…そうか、ミラージュとは「肯定」、つまり「承認」なのだ。
それも単なる承認欲求の充足ではなく、自己の正当化という完全な「自己承認」。
ここまでの繋がりも、自己も、世代への反発も、すべて自分が置かれている境遇の話。
彼らが真に求めているのは自分が今こうしていることへの「承認」と「理解」であって、それ以上に欲しいものはなかったのだろう。
そして、それは天国への道しるべ。
自分がすべて受け入れられる、理想の桃源郷に向かう道。
やはり、これは愛の小路なのだ。

6.終幕

こうして、3人はお互いを殺しあうほどまでにミラージュの実に飢え、マダマの手のひらで踊らされた。
しかし、マダマの真の目的は別にあった。

サンティーニ・カードを手に入れた後。
マダマは兄弟殺しの例を出しながら、コロナ・パンデミックでダメージを負った若者たちを通じて、殴り合いから世代間攻撃へと転身しなければならないことを述べる。
自分たち、同じ世代同士で、まるで兄弟殺しのようにお互いを傷つけあってきた。
そんな同世代の殺し合いなど無意味なのだから、その怒りを過去にぶつけてしまえばいい。
世代間を攻撃し、過去に向けて攻撃すること。
コロナ・パンデミックの影響を受けたマダマの結論はここに帰着していた。

しかし、彼らはそれを否定した。
同世代同士で殺しあうことに辟易していたのかもしれないが、自分の理想であるエゴを見せるだけ見せておいて、自分もそのエゴを3人に見せつけて実現させようとしているやり方に、納得がいかなかったのだろう。
あれだけ自由を見せつけて、己の理想を見せつけて、出てきた結論が他世代への抵抗というのならば、それは納得できない。
自分がどうなりたい、というアイデンティティを既存文化の破壊や反体制的運動に使うのならば、それも歪んだ見かたの一つだ。
確かに破壊や革新は若者らしさの象徴かもしれない。
しかし、その破壊や革新を自らの主張ではなく、個人的な自己実現に使うことは明らかに別ベクトルの次元の話だ。
だから、そんなエゴに巻き込まれるなんてごめんだ!というような3人の相違には納得ができる。

結果として彼らはミラージュの誘惑を享受しきることなく、そのままの3人になった。
…彼らはまともになれるのだろうか?
殺しあわない未来はあるのだろうか?
それは神のみぞ知る。

コロナ・パンデミックは世の中を変えた。
何も変わらないことなどない、世界が変わった瞬間だった。
だからこそ、我々の中にある新しい自分と向き合う時間が、あの瞬間で求められていたのかもしれない。
そして、そこで手に入れられたものや、そこでの自分に向き合って答えを出すことが、無意識的に共有されていたのだろう。
今、コロナ禍を超えた時間の中に我々は生きている。
新たなる人類として、キリスト教の博愛の精神に乗せて。

汝、隣人を愛せよ。


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