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友人と語ってみた 第1回:『やがて君になる』——コミュニケーションの中で変わっていくこと

はじめに

ここ数年Discordで友達と話しながらアニメを見るようになり、自分がある作品に触れて感じたこと、考えたことは、人と語り合うことでより明確に言語化されたり、深まったりすることがあると再認識しました。しかし会話とは泡のようなもので、話したことの多くはあっという間に記憶から消えてしまうものです。それではもったいない。そんなわけでこのたび、好きな作品について友人と語り合い、対談記事にまとめて残すという備忘録がわりの企画を考えてみました。
この記事で語られる作品は仲谷鳰の漫画『やがて君になる』です。オススメ百合漫画の筆頭に挙げられることの多いこの作品ですが、僕は百合というよりも他人とのコミュニケーションについて描いた作品として読んでいます。なのでこの記事を書くにあたっては普段からコミュニケーションというものについて哲学的に考えている雲雀さんに対談をお願いしました。
他人への関心、優しさ、人の心に踏み込むことの是非などについて、作品を振り返りながら話しています。

プロフィール

かんぼつ
ブログ主、アニメ好きの社会人。『やがて君になる』原作及びアニメ版、入間人間が書いたスピンオフ小説の『やがて君になる 佐伯沙弥香について』を履修済み。原作完結5周年とかのタイミングでもいいからアニメ2期を作ってくれないかなぁと思っている。

雲雀
社会人、私立中高教員。哲学とか倫理とかを教えている。既婚者。『やがて君になる』は原作とアニメに触れていて、スピンオフ小説も1巻まで読んでいる。


『Memories off』『リズと青い鳥』とどこかが似ている


雲雀
 まず初めに聞きたいんだけど、今回のトークを開こうと思った動機ってなんなの?

かんぼつ 改めて聞かれると説明が難しい…。とりあえず『やがて君になる』の印象から話すと、作品全体のトーンを決めているものの見方みたいなものになんとなく共感できるのよ。作者の仲谷鳰の感覚なのか、キャラクターたちの感覚なのかはわからないんだけど。たとえば序盤の侑の「人を好きになる気持ちがわからない」という悩みとか。あと『やが君』のキャラクターは結構、抽象的・観念的なものの考え方をするけど、そういう思考のタイプにもなんとなく覚えがあるんだよね。でもその感覚をどう言語化していいか一人では見当がつかなかったので、人と話せば何かしらはっきりするかなと思ったのが、今回の会を開くに至ったきっかけ。だから単に「百合が好きでここが萌えた」みたいな話がしたい人相手だと、それでも楽しくは話せると思うけど、いま言ったような動機とは噛み合わないのかなと思って…雲雀みたいなめんどくさい人間を呼びました(笑)。

雲雀 なるほど、すっきりと理解できた。僕は人と作品の話をあんまりしないんだけどさ、それは周りからめんどくさがられているのが大きいんだろうと思っていて。「このキャラ可愛いよね」と言われても「はい?」という感じになるから(笑)。

かんぼつ キャラ萌えとかないの?(笑)

雲雀 ないわけじゃないんだけど、「可愛いな」と思った瞬間には「その可愛さは類型化できるか」みたいなことを考えちゃう。

かんぼつ 確かにそれはめんどくさい(笑)。

雲雀 でも、かんぼつさんの動機にはそういう人の方が合ってるよねって思った。

かんぼつ うん、今の話を聞いて思った(笑)。じゃあまずお決まりの質問になるけど『やが君』とはいつどんなきっかけで出会った?

雲雀 たぶんアニメ化のタイミングで、PVの第2弾を見たのが最初のきっかけ。侑と燈子が映るカットがあるんだけど、そこの光が好きなんすよ。色合いで「おお」と思って。それからしばらくしてエンディングテーマの「hectopascal」のジャケットに出会って、これも侑と燈子の絵が好きとかモチーフがいいとかではなく、背景の紫色が好きで、それをきっかけにアニメを見た。

かんぼつ 俺も結構アニメの色遣いは気にする方だと思うけど、そういう視点はなかった。逆に苦手な色のアニメはあるの?

雲雀 『ジョジョの奇妙な冒険』とか。

かんぼつ ああ、苦手な人はいるだろうね。

雲雀 原作も絵柄がダメだし。話はめちゃくちゃ面白そうなのにさ、色と絵柄で見られないんですよ。気分悪くなっちゃうんだよね。

かんぼつ 『ジョジョ』はめちゃくちゃ面白いよ。でも絵柄がダメっていう人は結構いるよね。うーん、そうしたら今やってる『デリシャスパーティ♡プリキュア』の色はいいんじゃない?

雲雀 良いというか、単にパステルカラーっぽいから見られるよ。

かんぼつ 『やが君』もパステルカラーではないかもしれないけど、彩度が強すぎず目にちらつかない感じがいいのかなと思った。

雲雀 そうそう。

かんぼつ 『やが君』のアニメはどうだった?

雲雀 「あー、西武線だな」って思ったね。

かんぼつ これだから鉄オタは…(笑)。

雲雀 いや、本当に思ったのよこれは。あとうまく言えないんだけど、というかこの会でうまく言えるようになったらいいなと思ってることなんだけど、個人的に『Memories Off』と重なるところがあるんだよね。

かんぼつ その話はもう少し深掘りしたいけど、俺のメモオフ知識がなさすぎる(笑)。『想い出にかわる君 〜Memories Off〜』『Memories Off #5 とぎれたフィルム』しかやってないんだけど、どの作品と重なるの?

雲雀 『Memories Off 〜それから〜』と『メモリーズオフ6 〜T-wave〜』。

かんぼつ 確かに雲雀は『メモオフ6』にハマっていた記憶がある。

雲雀 箱崎智紗さんのことが好きでね。この子は共通ルートの最初で告白してくるヒロインなんだけど、『メモオフ6』は彼女を振ってほかの人のところにいくか、箱崎智紗と付き合うかという話です。

かんぼつ じゃあ箱崎智紗と『やが君』の誰かが重なるってこと?

雲雀 いや、キャラの重なりじゃないな。どこが重なるのかはよくわかってないのよ。そういうことってない? 「相互に因果関係や相関関係はないけど、自分の中ではなんとなく同じ括り」みたいな作品。テーマが同じとか、ジャンルが同じとかじゃなくて、ふわっと自分の中で「似ている」みたいな。その意味では同じ好きな作品でも『銀河英雄伝説』と『やが君』は全く重ならないですね。

かんぼつ めちゃくちゃわかる。あるよね、そういう感覚。俺も『銀英伝』はDNTだけ見ているけど、あれを見ながら『やが君』を思い浮かべることはないな。ほかに『やが君』と似ている作品はある?

雲雀 『リズと青い鳥』。見た時期が近いからかもしれないけど。

かんぼつ 俺も『リズと青い鳥』は重なるな。百合だからとかじゃなく。なんなら『響け!ユーフォニアム』とも重なる。『響け』というと黄前久美子の印象が強いんだけど、あの人ってちょっと毒があるというか、少し醒めているというか、斜に構えているところがあるじゃん。あの感覚は『やが君』にも通じると思うんだよね。どのキャラクターが似ているとかじゃないんだけど、作品全体のこじらせ感が似ている。

雲雀 僕は『響け』とはあんまり重ならないんだよな。実は。

かんぼつ 『リズ』とはどこらへんが重なる?

雲雀 多分、学校の描写だと思う。『リズ』は学校の描き方が素晴らしいんですよ。フーコー的には、学校というのは何百人もの人間が同じところに集められて時間を過ごす監獄型の絶望的なシステムなわけだけど(笑)、その雰囲気も含めて描かれていたり。それから高校の3年間という時間の有限性が伝わってくる。そしてメインキャラ以外の人たちにも日常があるということがちゃんと描かれる。『やが君』にもそれを強く感じるのよ。具体的なシーンでいうと、修学旅行に行くシーンがあるじゃん。あそこで愛果とみどりという、燈子と沙弥香と一緒に行動している2人のことが描かれるじゃん。

かんぼつ 要はメインキャラ以外のその他大勢をシルエットで描いて済ませるのではなく、個々の存在として描いているというか。

雲雀 そう。そういう意味だと、あんまり『けいおん!』の学校描写を信用していなくて、5人を取り巻く人しか描いていない気がする。『やが君』もメインキャラと関わる周りの人しか描いていないんだけど、関わり方がちゃんとしているっていうのかな。メインキャラとそれ以外の人たちにも人間関係はあるけど、生徒会ではその人たちと関わる機会がなくて、修学旅行だと関わる機会があって…みたいなことを踏まえて描かれている。体育祭のエピソードでも、普段のエピソードでは関わらない同じ学年の人たちがメインキャラの近くにいっぱいいたりして。そういうのが学校だなって思うんですよ。5人でバンドやってるのが楽しいのはわかるけど、それだけじゃないじゃん、人が生きている世界って。

かんぼつ うーん、『けいおん!』も確かクラスメイトの設定が全員分用意されていたりはするわけだけど…。まあでも5人の話が中心ではあったか。

雲雀 あと『響け』はちゃんと人がいなくなったりする。

かんぼつ 退部のエピソードは結構印象的だよね。「やめるんだ!?」みたいな。そういうことが描かれる話なんだって思った。

雲雀 いい話だよね。

かんぼつ いい話だよ。普通はそうだよね、部活って。

雲雀 そうそう。普通そうなんですよ。


好きの意味はわからない、でも実践はしている


かんぼつ
 今度は俺が『やが君』に出会ったときの話をするけど、実は連載が始まったばかりの頃に「期待の百合作品!」みたいな感じで話題になっていたから、ちょこっとだけ読んだんだよね。その時にはすでに侑の「人を好きになる気持ちが分からない」って悩みが気になっていたんだけど、その後はずっと追っていなくて。完結間際になってから放送後のアニメを追いかける形でサブスクで見て、気に入ったから原作も読んだ。

雲雀 「人を好きになる気持ちが分からない」というところに興味を持った理由はなんなんすか。

かんぼつ 単純に共感する部分があったからかな。まず俺の小糸侑の第一印象って「人を好きになる気持ちがわからない」よりは「少女漫画やラブソングで描かれている感覚を自分は持っていない」という悩みを持ったキャラだったわけ。

雲雀 「理想的な恋愛を私はできるんだろうか」みたいなことを考えているキャラというか。

かんぼつ それにまず共感できた。幼い頃は「フィクションの登場人物が持っている感情は現実の他人も持っているんだろう」と勘違いしてた変な子供だったから(笑)、情熱的な恋愛物語を読んで「俺はこういう気持ちわからないけど、みんなはこうなんだ。大丈夫かな…」って不安になった経験があって。こういうことを人前で言うのはよくないとは思うんだけど、当時の俺は他人に対して比較的関心が薄い人間な気がしていたので…。

雲雀 「自分は他人に対して無関心だ」という認識を前提に、侑もそうなんじゃないかと共感していた?

かんぼつ そうだね。侑ってちょっと淡白な印象があるじゃない。これ『やが君』の物語を解釈するうえでかなり重要な問題だと思うんだけど「小糸侑は他人に無関心なのか、それとも優しいのか」問題があるわけよ。つまり…一般的に他人に無関心な人って優しく見えることがあるんだよね。

雲雀 そうね。

かんぼつ 他人に関心がある人は、他人への期待や思いが強いだけに許せないことも多い。だけど他人に無関心な人は良くも悪くも相手がどんな人間だろうと構わないと思っている節がある。だから「ああ、まぁそういう人もいるよね」という感じで、葛藤なく受け容れてしまうんだけど、それがはたからは優しく見える。僕は最初は侑をそういう一見優しく見える他人に無関心な人間だと思っていたので、侑の「人を好きになるという気持ちがわからない」という悩みを「他人に対する関心をうまく持てない」という悩みに読み換えていた。雲雀は他人に対して関心がある方?

雲雀 関心というのは茫漠とした言葉だから難しいけど、少なくともある個人に執着する気持ちは結構ある。それがないと結婚してないしね。

かんぼつ まぁ…それはそうだな(笑)。

雲雀 あと生徒と話していて思うんだけど、僕はある種の人類愛みたいなものを持ってんだなと思う。人類愛というと変なんだけど、関わった全ての人に関心があるんだよね。たとえば「小学校の同級生とか今何してんだろう?」なんてことをよく考える。そういう意味で他人に関心はあると思う。

かんぼつ 「この人と関わって、楽しく過ごしたい」「この人に自分を好きになってもらいたい」みたいな気持ちはある?

雲雀 結構ある。承認されたい、好かれたいという気持ちはある。

かんぼつ 俺も承認されたい気持ちはあるんだけど、他人と関わるのはハードルが高いって感じだな(笑)。侑には共感できる?

雲雀 どうなんだろう、難しいな。

かんぼつ 序盤の侑と中盤以降の侑はまた違うからね。途中からの侑は燈子を好きになっていくわけだから。

雲雀 ああ、中盤以降の侑にはすごく共感している。燈子に「変わってほしい」と思っている侑に。

かんぼつ それこそ、さっき話した他人に対する期待の話だよね。

雲雀 僕はめちゃくちゃ人に変わってほしいと思ってるから。「こうなってほしい」というと押し付けがましいし、そういう言葉で思ってはないんだけど、たとえば関わった生徒それぞれに対して「ああこうなってほしいなぁ」みたいな気持ちはあるんですよ。その意味で小糸侑にはすごく共感する。あと最後に侑の「好き」は選ぶものだったっていう話になってくるじゃん。

かんぼつ 私の「好き」はある日どこかから降ってくるものじゃなくて、自分で選んで手を伸ばすものだったんだってところね。

雲雀 そこを読んでいて「この人を好きになるということを意味としては理解してないんだけど、概念として獲得してる」って感じがしたんだよね。逆に共通理解を得るための「好き」の定義が発見できている感じはしないわけです。

かんぼつ 「『好き』とはこういう意味である」と言われて万人が納得できるような定義を示しているわけではない。

雲雀 そうそう。だけど侑と燈子の2人が合意できるような「『好き』とはどういうことか」を、実践できている感じがするわけよ。

かんぼつ その感覚はすごいわかるな。

雲雀 それでその2人が実践している「好き」に対して、「僕もこう思ってた、これだよな」とは思う。

かんぼつ すごく頷いてしまうんだけど(笑)、この話を読んでいて俺も「『好き』とは何かって、1人で考えていて答えが出たりするもんじゃないんだな」と思ったんだよね。「好き」は一般的な定義で理解できるものというよりは、個別具体的な人間関係の中で生じるものというか。そういう意味では、それこそ8巻の「わたし これまでもう 何度も選んできました そばにいようって この人を変えたいって」「先輩がたくさん好きって言ってくれたから選べたんです」(※1)という侑のセリフがすごくしっくりきたんだよな。

※1…出典:仲谷鳰「やがて君になる(8)」 ©Nakatani Nio 2019

雲雀 どういうこと?

かんぼつ ここを読んでやっと侑が燈子を好きになることができた理由がわかったのよ。これは何度か読んでいるうちに気づいたことで、最初に『やが君』を読んだときの俺は、侑がなんで最後に燈子を好きだという気持ちにたどり着けたのかわからなかった。「『好き』がわからない侑」に共感していたんだけど、気がついたら侑は燈子のことを好きになっていて、「あれ、いつのまに?」と置いていかれた気持ちになってしまったんだよね。でもこの「先輩がたくさん好きって言ってくれたから選べた」というセリフを読んで納得がいった。言語化が難しいんだけど…さっきも言ったように燈子に出会うまでの「好き」がわからなかった侑は、「好き」について1人で考えていたと思うんだよね。

雲雀 そうね。

かんぼつ それが燈子との関わりを通して、好きという気持ちを獲得していく。じゃあなぜ獲得できたのかといえば、それは燈子が侑のことを最初に特別だと思って、関係を作ってくれたから。そしてその気持ちを何度も侑に伝えてくれたからなんだなって合点がいって。それまでは『やが君』のことを侑が燈子を一方的に救う話だと思ってたんだけど、そうではなくこれは侑と燈子が相互に影響を与え合って『好き』にたどり着く話だったんだって納得したわけ。

雲雀 なるほどね。

かんぼつ 他人への関心という話題につなげると、人に対して最初から強い関心がある人もいるだろうけど、普通、そういう関心は実際にその人と関わっていく中でどんどん生まれていくものだと思う。でもその関係は必ずしも正しくない第一印象からくる好意や、一目惚れの気持ちみたいなのがないとそもそも始まらないかもしれなくて、始まらなければのちに生じるはずだった関心も生まれ得ない。

雲雀 うん。

かんぼつ 燈子も最初は侑のことを、悪い言い方をすれば安直に好きになるわけじゃん。好きになるというか「好きになりそう」だけど。「誰のことも特別に思わない優しい人だから好き」って観念的だし、実際後の方では「誰かを特別に思うようになった侑だって優しい」というふうに、自分の認識の誤りに気づく。でもそういう勘違いや一目惚れ的な好意から始まって、良い人間関係ができていくこともある。そういうことを描いているのがすごく良いなと思ったんだよね。

雲雀 うん、意味がよく分かりますね。一目惚れね…でも僕は一目惚れってピンとこないんだよな。

かんぼつ 俺もそう。逆に他人に強い関心がある人は一目惚れ力が高いのかなって勝手に思ってるのよ。

雲雀 そうかなぁ。でも一目惚れ力っていうのは、ちょっと仏教の因縁果みたいなものから考えられるのかなと思った。一目惚れとはいってもいきなり人を好きになるわけじゃなくて、外界からの入力に対して発生するものじゃん。縁が少なくても、もう果に行ってしまうみたいなことなのか。

かんぼつ あとは最初のコミュニケーションがどう始まるのかっていうことでいえば、相手自体への関心とは別に、単純に話し相手がほしいみたいな気持ちも関わってくるんだろうね。会話が好きな人っているから。

雲雀 やっぱり『やが君』ってコミュニケーションの話だよね。人と人が関わる話はなんでもそうなんだけど。

かんぼつ それはそうなんだけど、『やが君』はそれを抽象的に描いている部分と、感情のドラマとして成立させてる部分が融和しているのがすごいと思う。キャラクターのセリフは観念的なんだけど、それが感情的にも納得できるように描かれている。


メンヘラとしての燈子と侑


かんぼつ
 燈子のめんどくささについても語るか。

雲雀 めんどくささっていうのは、どれのことを言ってる?

かんぼつ いっぱいあるのか(笑)。俺が思う燈子のめんどくささは、自分を好きにならない人を特別に思うというねじれを抱えていることからくるめんどくささかな。

雲雀 それは侑の問題意識にとってのめんどうくささだよね。特に2巻とか3巻の侑にとっての。ほかには自分の中で姉の死をどう受け止めるか考えた結果、自分が姉の代わりになろうとするというところもめんどくさいといえばめんどくさい。あれは僕は、ある種の弔いだと思ってるんだけど。ほかにももう何個かあると思う。

かんぼつ そうだね。いずれにせよこの作品の面白いところのひとつは、燈子のこじらせにしっかりした構造があって、それがどんどんほどけていくところなんだよね。

雲雀 燈子のめんどくささが話を面白くしていると。

かんぼつ あとあのめんどくささには、個人的に共感できる部分もある。雲雀はあんまり燈子には共感しない?

雲雀 うーん、抱えている思いの構造は理解できるし、こういう人いるよねとは思う。でも自分とはあらゆるところが違う、他者だなと思う。そしてこの人になりたいという憧れもない。この人のそばにいたいと思うことはあるかもしれないけど、自分とは違う。「お姉ちゃんの代わりにならなくちゃ」とか思わないだろうし、こんなに強く人を所有したいと思ったこともない気がする。

かんぼつ 所有っていうのは、「好き」という言葉のことを、言われた相手を縛る呪いだと思っているのにもかかわらず、その言葉を侑に投げてしまうという…。

雲雀 そうそう。

かんぼつ そういう意味ではある種卑怯なところがあると思うけど、それに対する嫌悪感はある?

雲雀 嫌悪感はないなあ。「人間そういうもんだよね」と思う。

かんぼつ うん、俺も「ずるいな」とは思うけど、「こういうこともあるよな」くらいの受け止め方だな。ただ…物議を醸すような言葉を使っちゃうと、俺からしたら燈子ってメンヘラっぽいわけよ。そしてメンヘラが他人に対してよくやる失礼な振る舞いを燈子もするから、嫌悪感とまではいかなくとも「ちゃんとコミュニケーションしろよ」と思うことはある。こう思った具体的なシーンが一つあって、4巻の165ページからのくだり。「侑は私のこと好きにならないでね?」「私は自分のこと嫌いだから 私の嫌いなものを好きって言ってくる人のこと 好きになれないでしょ?」(※2)って燈子が言うじゃん。

※2…出典:仲谷鳰「やがて君になる(4)」 ©Nakatani Nio 2017

雲雀 うん(笑)。

かんぼつ それに対する侑の「じゃあ先輩だって わたしの○なもの」──たぶんこれ「好きなもの」って言ってるんだと思うんだけど──「嫌いって言わないでよ」(※3)っていうモノローグがあるけど、僕はこれはめちゃくちゃ分かるわけ。燈子は今、侑という1人の人間と関わっているわけじゃん。そしてなぜ侑は燈子に関わっているのかと言うと、少なからず燈子に関心があったり、好きだったりするからじゃん。そういう相手の気持ちを考えないで「でも私は自分のこと嫌いだから、あんたも私のこと好きにならないでね」って、その人と人間関係を築いておきながら言うのはすごく失礼じゃない?

※3…出典:仲谷鳰「やがて君になる(4)」 ©Nakatani Nio 2017

雲雀 まぁ意味わかんないよね(笑)。

かんぼつ そうそう(笑)。それが俺がメンヘラと呼ばれる人たちの自己卑下にイラつく理由なのね。いや、別に自分が嫌いだったり、好きになれなくてもいいと思うんだよ。でも人と関わるときは、その自己嫌悪を表に出さないでおくのが礼儀なんじゃないかと思っている。もちろん自分の弱いところもわかってほしいという気持ちにはすごく共感するし、この人ならそれを受け止めてくれるだろうっていうある種の信頼から弱音を吐いちゃうことは誰にでもあると思う。けどやりすぎたり、一方的に相手だけに負担をかけるのはよくないよねって。そういう判断がうまくできない状態をメンヘラと言うんだろうし、それに怒らず受容的なコミュニケーションをするというのも大事なんだろうけど。

雲雀 なるほどねー…。なんというか、自傷他害という感じだよね。自傷他害って、精神保健の用語で、理性的でない状態で自分や人を傷つけたりすることなんだけど。もちろん燈子の行動は自傷他害という言葉で言い表されるものほど強い行動では全然ないけど、そういうことをやる人の行動様式と傾向としては近いなという感じはする。でも自分の問題に引きつけていうと、一貫して「自分は燈子っぽい人間ではない」とは言っているものの、一方で僕は自分をメンヘラとも思っている。生に対する執着がそんなにないし、自分のこともそんなに大事にしていない気がするし。でも、燈子みたいなやり方ではメンヘラを出さないなって思うんですよね。

かんぼつ うーん。雲雀は俺が今、燈子のことを表現するのに言ったような意味でのメンヘラとして、自分を捉えている?

雲雀 そうだという気がする。けど同時に「僕は自分が嫌いだから、あなたも僕のことを好きと言わないでね」みたいなことは言わないとも思う。

かんぼつ じゃあ、雲雀的なメンヘラの定義というか、「メンヘラってこういう人だよな」みたいな考えは持ってる?

雲雀 言語化はできないけど、僕がパッと見で「この人はメンヘラっぽい」と思った人のことを詳しく知っていくと、みんな何かしら持ってる。だから判定基準は持っているんだと思うし、その判定が間違っていたことはない(笑)。それから僕は自分のことをメンヘラと思ってるんだけど、一方でメンヘラホイホイだとも思っていて。これは中学生のときから実体験があるんだけど。

かんぼつ うん、全部じゃないけどいくつか話を聞いたことがあるな。ちょっとそれ詳しく聞きたいんだけど、なんでメンヘラに好かれちゃうんだと思う?

雲雀 たぶん誤読されるんだと思う。例えば深刻な事情を抱えた人に相談されて話を聞くと、問題はその人よりも環境の方にあるのに、本人は「自分がなんとかしなきゃ」って考えていることがよくある。そういうとき僕は「私はあなたが置かれている環境を変えることよりも、あなたの方が大事」みたいなことを言うわけ。で、さっきも言ったように僕には幼い頃から「出会った人すべてが幸せであってほしい」という気持ちが強くあるから、その気持ちを込めてそういう風に伝えるわけなんだけど、相手はそれを「ほかでもないこの自分」に向けられた愛だと誤読しちゃうんだと思う。

かんぼつ 雲雀はいろんな人のことを気にかけているんだけど、それを相手は「めちゃくちゃ自分のことを気にかけてくれてる」って思っちゃうのか。

雲雀 そうそう。そういう相手の認知の歪みがあるんだろうと。だから「こういう言葉遣いするとよくないな」みたいなことを最近思って気をつけていますね。

かんぼつ 面白いね…。

雲雀 それで『やが君』の話に戻るとね、小糸侑はそういうメンヘラホイホイ感があるわけ。

かんぼつ …確かに(笑)。

雲雀 侑は傍目には他人に関心がなさそうな振舞いをしてるんだけど、実は関心があるわけじゃないですか。関心を獲得していると言っていいのかもしれないんだけど…僕は実はもともと関心がある人なんじゃないかなって感じがするのね。そんな一見関心がないように見える侑に優しくされると、人は「この私に対して特別な優しさが向けられているんじゃないか」と思うんじゃないかな。

かんぼつ そういうことは起こりそうだね。燈子が侑に惹かれたのはそういうパターンではないと思うけど。

雲雀 いずれにせよ、同じメンヘラホイホイとしても、メンヘラとしても共感するところが多いです。

かんぼつ 侑はメンヘラホイホイなだけでなく、メンヘラでもある?

雲雀 「好き」がわからないと自分を誤読している感じがそれっぽい。なんて言うんだろう、読み終えてみると「最初から『好き』を識っていただろう、この人?」みたいな感じがするんですよ。根拠を持っては言えないんだけど。

かんぼつ 感覚的にはわかる。でも「最初から知っていた」という言い方は微妙というか…アプリオリに分かっていたというより、生成変化したんじゃないかなと思う。もともとある程度そういう素質はアプリオリにもあったんだろうけど、この物語の中で知っていったんじゃないかな。

雲雀 うーん…これは僕の教育観にも関わることなんだけど「経験論的か合理論的か」みたいなことを考えたときに、それはミックスなんじゃないかと思っていて。さっきも言ったけど、最終的に侑は解釈じゃなく実践によって『好き』の概念を獲得している感じがするんですよ。それは経験論的な意味での知識に基づいているわけでも、合理論的な意味での知識に基づいているわけでもないなって思っていて。その意味では「アプリオリに知らないことは実践できないんじゃないか」「実践できない人がアプリオリに何か知らないんじゃないか」という感じがするの。この『やが君』のエンドにたどり着けた侑は『好き』を知っていたというか。これはあくまで僕のあまり根拠のない立場から見てなんだけど。

かんぼつ 結果から遡る考え方に対して「遠近法的倒錯なのでは」と言いたくなる悪い癖があるわけなんだけど(笑)、ようは「槙くんみたいな人はこの結論にたどり着かない」ってことね。

雲雀 そういうこと。それで話を戻すと、侑の「自分は『好き』がわからない」という認識は誤っている感じがするわけ。そういう自分のことを錯誤してる感じがメンヘラっぽいなって思う。僕もそういうことあるので、親近感が湧く。

かんぼつ 誰しも自分について誤解している部分はあるけど、メンヘラは特に自分のことを分かっていないという直観がある?

雲雀 というより「メンヘラは自分のことについていっぱい記述しようとするけど、その記述が正しくないこともある」みたいな感じ。

かんぼつ つまり自分自身についての考えをいっぱい持っているのがメンヘラということ?

雲雀 うーん、というか…そもそも自分の実態と自分自身に対する認識がちゃんと一致してる人って、自分のことについてあまり語らないと思うんですよ。たとえば僕は心理カウンセリングに行ったりすると、すごい語っちゃうわけ。引き出されて「普通は話さないだろ、こんな話」ということまで話しちゃう。そういうときに、自分の実態と自己認識がズレてるから話しているんだろうという感じがする。なんか違和感があるから、そのことについて話してんじゃないのっていう。

かんぼつ 語りながら自分を捉えようとしているみたいなことね。

雲雀 そうそう。ズレがないなら自分についての言葉が不要かもしれない。それにバッチリ合う言葉を持っていたら、それは自己認識として所与のものになってるはずだから、語らないはずなんじゃないかって思う。

かんぼつ しっくりきてる人が語らない…確かにね。他人に自分のことを分かってほしくて自分語りするっていうのはあるだろうけど。

雲雀 でも他人に自分のことを分かってほしいと思って語るなら、こんなに変な語り方にならないんじゃないの? と思うの。そういう語り方を他人がしているのを見ると、メンヘラセンサーが働いて「あれ、この人は…」と分かる感じ。

かんぼつ 面白いな。どちらかというと人に向けて喋っているというよりは独語的というか、自分のために自分について喋っている感じがするのかね。

雲雀 それはあくまでメンヘラの一類型ではあるんだけど、そういうことがある。


沙弥香は一番人間臭いキャラ


かんぼつ
 6巻に出てきた「『好き』が怖い」っていう燈子のモノローグはどう思う? 「『こういうあなたが好き』って 『こうじゃなくなったら好きじゃなくなる』ってことでしょ? だから『好き』を持たない君が世界で一番優しく見えた」(※4)…。俺はこういう感覚はわかる。あと個人的にはこの考え方に対する間接的な応答になっている箇所として、7巻の修学旅行編で沙弥香が語るところが好きで…そういや脱線するけど、俺はこのシーンめちゃくちゃ好きなんだよね。燈子が寄り添っている2羽の鳥を見て、そこに自分と侑を重ねちゃうところ。すごくよくない?

※4…出典:仲谷鳰「やがて君になる(6)」 ©Nakatani Nio 2018

雲雀 うーん…僕は共感できないな。こういうことあるのかな?

かんぼつ …いや、あんまりない気がする(笑)。俺も共感するわけじゃないんだけど、演出としては好きなんだよね。まあそれはともかくとして、話を戻すと114ページぐらいからのセリフね。「今のままのあなたじゃなきゃ嫌だってことではないけど どんなあなたになってもいいってことでもないと思う」「あなたは私の好きなあなたでいてくれるだろうっていう信頼の言葉かな」(※5)。ここにもやっぱり期待が関係してくる。さっきの関心、無関心の話にもつながるけど「こういう相手でいてほしい」という期待があるときに、そこから相手がずれちゃったときの自分の立場を言っている。

※5…出典:仲谷鳰「やがて君になる(7)」 ©Nakatani Nio 2019

雲雀 うん。僕もこのシーンは印象的で、教材として使うならサルトルの投企(project)の概念を理解するといいんじゃないかなと思ってる。つまりここでは「好き」を信頼の言葉だって言ってんだけど、これはあなたが変化したとしても、ある程度の変化であれば自分がそれに合わせて好きでい続けるであろうという意志の現れであり、将来に向かって「関係性が変化しても私は一定の感情を持つ」ということを宣言しているわけだよね。自分がそのとき何をするかとかはまた選びとるわけだけど、ある程度の範囲の変化だったら、好きであることを選び取り続けるであろうという言葉で。だから一定の関係性に対して、自分を投企していると解釈していいよね。

かんぼつ なるほど、教材として使うときはそういうふうに考えていくのか。

雲雀 たとえば人が変化することと、その人を好きであることの関係を考えるようなときに、補助的に使えるかなぁと思った。

かんぼつ ほかに教材にできそうなところってある?

雲雀 2巻の88ページぐらいからのところとか。侑が燈子から勉強を教わって、自分ばっかり得をしちゃったんじゃないかというふうに言うじゃん。その後の燈子の「教えるのも勉強になるよ」という言葉に侑が「でも範囲全然違うじゃないですか」と返したら、燈子が「そんなこと言うと 無償の愛ですってことにするけど?」と返す(※6)。ここは「これはアガペーなのか?」とか「ここの『無償の愛』という言葉になぜピンとこないのか?」みたいな問い方ができる。

※6…出典:仲谷鳰「やがて君になる(2)」 ©2016 Nakatani Nio

かんぼつ 純粋贈与にもつながる話ね。ちょっと話はずれるけど、さっきの関心とか期待とかの話に戻すと、俺やっぱり純粋贈与的なものにこだわっていると人間関係成り立たないと思ってるんだよね。

雲雀 僕は純粋贈与的でいいと思うけどなぁ。

かんぼつ 雲雀はあんまり相手に何かをしたとき、それに対して何かを返してほしいとは思わない?

雲雀 あまり思わないな。

かんぼつ まあそれでも成り立つ場合もあるんだろうな。しかしやっぱりどこかで限界がある気がする。これは論理的な話というよりも、「人間はそういうものなんじゃないか」という僕の人間観の話になっちゃうけど。

雲雀 今の話で思ったけど、そういう意味ではやっぱり佐伯沙弥香は優しくないんじゃないかという気がするな。「ある程度の変化だったらついていきます」という言い方はやっぱり優しくないんじゃないかな。僕は結構、人に対してどうなってもいいと思う派だから。

かんぼつ でも、雲雀にとっては誰に対しても「こうなってほしい」という思いはあるんだよね。しかし、そういう自分の思いとは別に、相手がどうなってもそれはそれで相手の自由っていう考え方?

雲雀 そうそう。かんぼつさんは沙弥香が好きなんだよね。それはなんで?

かんぼつ 雲雀は嫌いなの?

雲雀 いや、嫌いじゃないんだけど、「世の中の人が言うほどいいか?」という感じがする。そこまで乗れないな、みたいな。

かんぼつ ふむふむ。俺が好きな理由は……やっぱり人間臭いところがいいのかなと思う。たとえば5巻に、侑が劇の新しい脚本を提案する場面があるじゃん。そこで燈子だけ新しい脚本でいくことに反対して、沙弥香にも反対してほしいという意図で意見を求めるでしょ。その意図を沙弥香は理解しているんだけど、敢えて「新しい脚本でやってみたい」と返す。その後のシーンが俺は好きなんだよね。家に帰った沙弥香が一人で色々考えるシーンなんだけど。

 回想の燈子『沙弥香はどう思う?』
 沙弥香(あの言葉は私にも新脚本に反対してほしいという意味だった
 それをわかっていて私は賛成した
 劇は劇
 フィクションであってあの主人公は燈子ではない
 それでも
 燈子にとってあれはもうたかが劇なんて言えるものじゃない
 小糸さんだって
 燈子の願いは理解している
 理解した上で…この脚本をぶつけた
 この脚本は燈子への願いだ
 心からの)
 
 回想の侑『どうして佐伯先輩は賛成してくれたんですか?』
 沙弥香(私の願いも小糸さんと同じだからよ
 燈子に変わってほしい
 なのにどうして
 その願いを伝えるのが私じゃなかった
 私は拒絶されるのを恐れた
 あの子の特別にはなれなくても
 「特別でない大勢」の中の一番でいられたらいいと
 燈子がいつか変わるまでその日をただ待って
 私は恐れた
 小糸さんは踏み込んだ)
 沙弥香「……それを邪魔するなんて そこまで惨めにはなれないわよ」

※7…出典:仲谷鳰『やがて君になる(5)』©Nakatani Nio 2018

かんぼつ ここの「惨めにはなれないわよ」というところが良い。

雲雀 そうなんだ。ここでは何に共感してるの?

かんぼつ 燈子の心に踏み込めなかった臆病さとか、自分じゃない誰かが燈子を変えようと勇気を出して自分にはできないことをやったことへの悔しさとか、それを邪魔するほど惨めにはなりたくないっていうプライドとか。すべてに共感するシーン(笑)。でもどこが一番好きかっていうと、結局「邪魔はしない」っていう、気高さじゃないけど、プライドの高さ? それから燈子に対する思いの強さが好き。

雲雀 僕はそう思わないんだろうな。ほかの人が自分がやったほうがいいと思っていたことをやってくれていたら「ああ、よかったよかった」って思うから(笑)。そういう思考回路を持っていないのかもしれない。

かんぼつ 確かにここがピンと来ないと好きになるのは難しいかもな。あと沙弥香のシーンでここに匹敵するくらい良いシーンって、たぶん修学旅行のシーンぐらいだからね。

雲雀 修学旅行のシーンの良さはすごいよくわかるんだけど、ここはちょっとわかんないな。理解はできるんだけど、共感はない。

かんぼつ 逆に修学旅行は、どこに共感できた?

雲雀 こういう「好き」ってあるよな、みたいな。でもやっぱり僕はこんなにプライドが高くない…プライドがなさすぎるという話があるのかもしれない。よく言われることでもあるんだけど。

かんぼつ なるほど(笑)。あと沙弥香は「やが君」の中では良くも悪くもちゃんと人間臭い恋をする人だよね。それに対して侑とか燈子の恋は複雑というか、持って回った感じの恋をしていくけど。


『佐伯沙弥香について』について


かんぼつ
 『やがて君になる 佐伯沙弥香について』の沙弥香の話もしておきたいな。俺はこの小説はかなり好きなんだけど、それは「沙弥香って、実はすげえバカだったんだな」ってなるからなんだよね。

雲雀 (笑)。

かんぼつ 漫画の方の沙弥香は、割とクールな印象ない?

雲雀 うん、そうかも。なんかツンツンしてる感じね。

かんぼつ そうそう。その印象で小説版を読んだから「あんなツンツンクールな沙弥香が、こんな恋愛脳だったのか!」ってびっくりしたんだよね。悪い意味じゃなく、愛おしい愚かしさみたいなものがあるというか…この人はクールに振舞っているけど、本当は臆病な人じゃん。燈子の心には踏み込めなかったし、自分のエゴを通すのも実は苦手な人だと思うんだよね。だから相手に傷つけられることとか、自分が相手を好きになりすぎちゃうことに対する恐怖心がすごくあるんだけど、なんか人を好きになってしまう。そのどうしても人に惹かれてしまうあり方が好きで。「こういう人っていいな」と思う。

雲雀 うーん、かんぼつさんに言われて気づいたけど、そういう意味でだったら、小説版の沙弥香の方が圧倒的に共感できるな。

かんぼつ そうなんだ。

雲雀 1巻しか読んでないけど、その中だと先輩との話がいいよねって思う。先輩の方が自問自答している感じとか。

かんぼつ ああ、「自分は本当に恋してるのかな?」みたいな。

雲雀 そう。あと、それに付き合わされているということがなんとなく分かってるんだけど、自分も興味があるのでついて行っちゃう沙弥香に、すごい共感できますね。

かんぼつ 自分でもそういう経験がある?

雲雀 こういう経験はある。そして傷つけられたなぁという。だから逆に、あんまり読み返さないようにしてるんだけど。

かんぼつ ああ、深く共感できるんだけど、それはそれとして痛ましいので、あんまり読みたくというか。

雲雀 というより、これにどっぷりハマるってことは自傷行為に繋がるなって思って。

かんぼつ あー…まあ、でもこういう話を読むのって自傷行為だよね(笑)。俺は好きだよ、そういう自傷行為は。

雲雀 まあ、あの、安全な範囲でね(笑)。

かんぼつ 「ご安全に」っていう(笑)。そういう意味だと俺は小学生のときのエピソードも好きだよ。水泳教室で自分が最初嫌いだった女の子につきまとわれているうちに関係が変わっていって、最後は水中で首筋にキスみたいなことをされて、心臓が痛くなって、怖くなって逃げちゃう話。これアメコミでいうオリジンっぽいというか、漫画にはない話なのにすごく佐伯沙弥香の原点だなと思わされる。しかもこの別れ方もすごく痛くて、この身を切るような感じがいい。この話、ネタバレありで続けていい?

雲雀 いいよ。

かんぼつ 俺、自分で勝手に“反復”って呼んでいる技法が好きで。

雲雀 ほう。

かんぼつ 萩尾望都っていう好きな漫画家がよくやる技法なんだけどさ。序盤に出てきた印象的なフレーズやエピソードを、終盤でもう一回反復するっていう。具体的な話をすると、3巻で描かれる大学生編で沙弥香に彼女ができるのよ。その付き合うことになったハルっていう女の子と、プールに行くことになるんだけど、そこで1巻の小学生のときのプールのシーンと本当に似たようなシーンが出てくるわけ。1巻のときはわけがわからなくなって逃げちゃったんだけど、3巻ではその心臓の痛みが自分のどんな気持ちに起因する痛みだったのかっていうのを、もう沙弥香は知っている。そのうえで、もう自分はどこにも逃げないでいいんだっていう気持ちになれるわけ。それがすごくいいんだよね…。

雲雀 (笑)。

かんぼつ ぜひ2巻以降も読んでみてくれ…というわけでそろそろ原作の話に立ち返らせてもらうと、そんな沙弥香は燈子の心に踏み込めなくて、侑は踏み込めたわけなんだけど、雲雀が同じ立場だったらどっちを選んだ?

雲雀 踏み込むと思うなあ。僕はズケズケ行くからね。脚本のくだりとかも、全然行く(笑)。

かんぼつ ああ、すごくパーソナリティが出てる答えだ(笑)。

雲雀 行かない択がない。

かんぼつ でもそれはそれとして、向こうがこちらの思う通りに反応してくれなくても、それはそれでいいっていう感じだよね?

雲雀 そんな感じ。

かんぼつ 今まで聞いてきた話と一貫性があるな。

雲雀 変わってほしいと思ったところで変わってくれるかは知らないので、撃てる弾は撃っておけばいいんじゃね? みたいに思っている。

かんぼつ ただこの場合は、そうすることで燈子に拒絶されるリスクがあるわけだよね。

雲雀 拒絶されたら拒絶されたで、なぜそうするのかという相手の心理を考えるのは好きだからね。たぶん「あ、拒絶するんだ」とかそのまま思ったことを言っちゃう(笑)。もう徹底的に失礼な人だと思うわ、自分のことは。

かんぼつ そのリアクションはすごく雲雀らしい(笑)。でもまさにそこだよね、『やが君』の大事なところは。踏み込むことって失礼なことなんだよ。だけど、踏み込まないと良くならないこともあるんだよね。それが『やが君』の全てだと思う。

雲雀 そうそうそう。

かんぼつ 侑が踏み込んだのって、燈子のためでもあるかもしれないけど、やっぱり俺は基本的に侑のエゴだと思ってるんだよ。でもそのエゴが相手を良い形に変えることもあるのがコミュニケーションの難しさというか。「相手の心に必要以上に踏み込まない」という命題には、ある程度の普遍的な正しさがある。でも正しさだけでは意味がないことって、いっぱいあるんだよね。それをすごく感じた話だった。

雲雀 難しい話だけどね。これは僕の思想の話なんだけど、どういう発言が人の心に踏み込んじゃうかってわからないじゃん。だから逆に、僕はなんでもしたらいいと思ってるのよ。ただしその責任は取らないといけない。その後の関係性がどうなるかには十分注意した方がいいと思うけど、それを引き受けられるんだったらやればと思う。人に対しても、自分に対しても。だってもうすでに、ぐちゃぐちゃに人の心を荒らしているかもしれないじゃないですか。

かんぼつ うん、そうだね。いい話を聞いたな。


『やが君』は百合なのか?


かんぼつ
 ところでわざとざっくりした問いを投げるけど、『やが君』は百合だと思う?

雲雀 そもそも、百合って何? 

かんぼつ そこからだよね。人によってわりと定義が違う言葉だからな。

雲雀 僕についていうと、僕にとってフィクションに触れるうえで性別って割とどうでもいいんだよな。だから男性オタクにおける百合消費のあり方が全然理解できていない可能性が高い。たとえば僕は『スロウスタート』が好きなんですけど、この作品も百合としては見ていない。百合としても見られてはいるんだろうけど。

かんぼつ 俺は男オタク的な感性も普通に持っているので、美少女が出てくる方がいい。だから百合かBLかでいうと、BLにはより興味がない。苦手意識もないけど。

雲雀 僕もBLにはあまりハマらないんだけど、それは一般に求められている男性像において、男性同士がどういう関係性を結ぶか、みたいな話に興味がないからなんだよね。つまりBLの物語は現実の男友達同士が結ぶ関係性の特徴みたいなものをもとに描かれていると思うんだけど、その特徴は僕が物語を読むうえではどうでもいい特徴というか。

かんぼつ ちなみに異性愛、同性愛、あるいはほかのありうる恋愛の形に関わらず、恋愛ものそのものには興味はある?

雲雀 それはめっちゃある。でも多分、人より種類を選んでいない。

かんぼつ なるほど。じゃあBLというジャンルには興味無いけど、雲雀から見ても面白い作品であれば、それがBLだろうとなんだろうと読むということか。そもそもなんで恋愛ものに強い興味があるの?

雲雀 人が変わる瞬間があるからじゃないかな。つまり何かに気づかずに変わることはないと思うんだけど、その変わるときのアウェアネスが描かれているのが良い。たとえば「自分はあの人のことが好きなんだ」でもいいし、「他人のことが受け入れられない自分を受け入れられるようになった」でもいんだけど、情動と思考が一致する瞬間っていうか、その二つが一体化して自己というものに迫る感覚が描かれるところが面白い。「フィクションで個別具体的な事例について思考実験していったら、こういう気づきが得られたんですよ」ということを語られて、「めっちゃ面白いな」と思うみたいな。

かんぼつ すごく面白いな、その話は。俺もドラマのそういうところを楽しんでいる部分があるのかもしれない。もとの話に戻ると、じゃあ性別の組み合わせの違いから生じる、事例の個別性には興味があるのかな?

雲雀 あるある。だけど、それが百合だから興味があるとか、そういうことではないです。それからリアリティのない関係性にはあんまり興味がない。

かんぼつ どこかしらリアルの人間にも通じる、ある種の思考実験としての信頼性みたいなものがあるといいのか。そういう意味だと『やが君』はすごく思考実験的だよね? 結構ロジカルでもあるし。

雲雀 そう思う。「ああいう人とこういう人がいたらどうなりますか?」という問いに答えている感じ。作り方としてすごく合理的なんだろうなって感じはする。

かんぼつ そうだよね。ここまで複雑な関係性を事前にすべて組み立てて、さらにその変化を最初の展開から最後の展開までシュミレートしきれるかというと、ふつうにできないと思うから、方向性だけざっくり決めて、あとはアドリブでやってるんだとは思うけど。ただその一つ一つのエピソードを重ねていくときの理詰めがしっかりしているんだろうな。ちなみに俺も『やが君』を百合として強く意識して読んではいなかったな。

雲雀 でも「女性同士の関係性だからこうなったんだな」と思ったところはある?

かんぼつ うーん、ないなあ。たとえば異性愛の話であっても成立しうるとは思う。もちろん細部は色々と変わると思うし、これはあくまで侑と燈子という個別具体的なキャラクターの話だから、そういう意味ではすべてが変わるわけだけど。ただそもそもこういう「もし異性愛だったら」という想定をしうること自体、『やが君』の特色だとは思う。つまり現実の社会では、女性同士の恋愛はまだ普通ではないと思われているところがあるので、その現状を作品にも落し込むなら、キャラクターは自分が同性愛的な感情を持っていることについてもっと悩むと思うわけ。でも『やが君』ではそういう葛藤はあんまりないし、一応描かれはするけど物語の主眼にはなっていないよね。だから「異性愛だったら」のifを想定しやすいし、「異性愛にしたとしても大枠は変えずにいける」という気がしてしまう。

雲雀 でも僕にとっては『やが君』はジェンダー的に女性的な仕草とか、女性として何が望まれるかといった意識を獲得したキャラクターたちの話という感じがしていて。小糸侑はボーイッシュなところもあるけど、でも女性同士でないと成立しないものが描かれていると思う。特に気になるのは仕草の描き方なんだよね。女性的でない仕方で身体的な接触をしている場面は、僕の記憶ではあんまりない。そしてそういう女の子的な振る舞いのキャラクターによる物語が描かれることがいいと思う読者はいると思う。

かんぼつ 変な言い方になるけど、女の子らしい女の子たちが恋愛してるのがいいと思う人たちが読んでいるだろうということ?

雲雀 そうそう。でも百合が好きな男性オタクたちの欲望が「女の子的な振る舞いのキャラクター同士の物語が良い」という欲望なのかはわからないし、自分の欲望がそういうものと一致しているのかもわからない。

かんぼつ うーん、俺も百合的なものは好きだと思うし、それは俺がシスヘテロ男性として好きなんだと思うけど。

雲雀 その欲望はどこにあるの? たとえば燈子になりたいと思う?

かんぼつ 思わないな。

雲雀 よく言われる、壁として見ていたいみたいな?

かんぼつ それはある。でもそういう欲望で『やが君』を読んでいるかというと、それはあまりない。

雲雀 ああ、でもないという区別はつくんだ。

かんぼつ 確かに直感的には区別できるな。もう少し自分の百合への欲望について話すと、百合好きにも恋愛関係までいくとダメとかとにかく色んな派閥がいると思うんだけど、俺は一次創作百合をあまり追うオタクではない。百合とラベリングされていない作品に出てくる女の子同士のやりとりを見ていていいなと思うことが多いな。具体的に最近アニメを見ていて「百合回だ」と思ったのは、『M3〜ソノ黒キ鋼〜』というアニメの第14話。マアムとエミルというキャラの関係性がよくて、これは恋愛関係というより友情だと思うんだけど…でも自分の百合観はあんまりうまく言語化できないな。

雲雀 うーん。でも一応、百合とそうじゃないものを分ける視点は欲しいよね。メンヘラの話でもしたけど、自分の欲望がどこにあるのかをあんまり理解してない可能性があるのは気持ち悪い。

かんぼつ こういうことを考えていると、結構混乱するよね。たとえば自分の女性に対する性的な欲求が男性としての欲求なのかということもよくわからなくなってくる。その問いの立て方自体が間違っているかもしれないけど。

雲雀 どういう意味?

かんぼつ 結果は同じでも、いろんなパターンがあるかもしれないわけじゃん。シスヘテロ男性が女性の身体に対して性的な欲求を持っている場合とか、性自認は女性の同性愛者が男性の身体を持っていて、女性の身体に対して性的な欲求を持っている場合とか、ほかにも色々。俺は別に自分が男だということに異存はないのでシスジェンダーということでいいんだろうと思うけど、別に「俺は確固たる男だ」という強烈な意識もないし、自分の中に女性的だなと思うところもいっぱいあるから、こういうことを考えていると時々よくわからなくなるわけ。こういう語りをしてしまうこと自体、シスヘテロの暴力的な振る舞いなのかもしれないけど。

雲雀 なるほど…でもそういう感覚って、言葉で言い表せない部分があるよな。多分、僕はもっと自分の性自認やセクシュアリティに対して強烈な立場をとってるんだけど、それが何でそうなのかは全然言語化できない。所与のものだからと言われればそうだという気もするけど、一方で僕にとっては『やが君』に描かれているような、獲得してきた感覚でもあるわけ。たとえば、ある種の人たちと話してみて「自分はこうではないな」とか。ただそのアウェアネスを言語化できないがゆえに、そういうものを言語化する学術と、それをイメージとして描くアートの双方に関心があって、『やが君』は僕の中でアート的な意味での評価が高い。


『メモオフ』との共通点は…


かんぼつ
 さてだいたい話せることは話したけど、最後に『メモオフ』との共通点がわかったか聞いて終わろうかな。

雲雀 うーん、わかんないんだよね。

かんぼつ (笑)。今回はこのキャラたちはどんなコミュニケーションを取っていたのかとか、このセリフが意味していることはなんなのかとかいう話になったけど、どちらかというと最初に言っていた学校の描写とかの類似性が大きいのかもね。

雲雀 という気もするんだけど、ずっと語り合ってきた「コミュニケーションの中で人が変わっていく話だよね」という話については、『メモオフ6』『4』のメインキャラにも当てはまる気がするんですよね。

かんぼつ 問題はドラマ一般がそういうものってことなんだけどね。

雲雀 いや、でもこのアプローチは大事だと思う。たとえば主人公が最初にヒロインの1人にフラれるところから始まる『メモオフ4』は、後日談の『メモリーズオフ〜それから again〜』までプレイすると、それぞれのキャラの人生に対する態度の違いまで踏み込んで描かれているのよ。この2作品でも主人公やその周りに居る人がコミュニケーションの中で変わっていくんだけど、その感じは『やが君』と似ているなと思った。ただ『メモオフ』は人の闇とか負の思い出も描くんだけど、『やが君』は綺麗な範疇で終わっているという違いはある気がする。『佐伯沙弥香について』では負の側面も描かれるけど。

かんぼつ 小説の沙弥香は怒ったり、憎んだりしているね。

雲雀 だけど『やが君』本編では過去の嫌な話みたいなものはあんまり描かれない。小糸侑って過去にはどんな人だったの? と考えてみてもよくわからなくね? ソフトボール部でどんな人間関係があったのかについてはさらっとしか触れられていない。

かんぼつ とりあえず中学関連の話は告ってきた男子をフったぐらいか。

雲雀 「なんか嫌なことなかったのかな」とか思うんだけど、そういう話は描かれないじゃん。

かんぼつ 雲雀はキャラクターを理解するうえで、過去のネガティブなエピソードを重要だと思っている?

雲雀 いや、そうでもない。単に『メモオフ』と『やが君』の違いは、そういうところもキャラクター描写に含めるかどうかだと思った。そういう意味では『響け』も嫌な話を書くじゃないですか。そしてそこで葛藤が起こるじゃん。『やが君』ではそういう葛藤はなくて、どちらかというと予見される葛藤に対してどう付き合うかの話が主だなと思った。「言っちゃったら嫌われた、どうしよう」ではなく、「言いたい、けどこれを言ったら嫌われるかも」とか。

かんぼつ ああ、確かに。

雲雀 逆に『響け』は「田中あすか、もう辞めてんじゃん」っていう(笑)。すでに出来事が起こってることが多い。

かんぼつ そういえば『響け』のめんどくさいキャラも寿美菜子か…(笑)。そういう意味では『やが君』ってメタゲームの話なんだな。

雲雀 まぁ我々もそういうメタゲームを日常的にしているよね。

かんぼつ 安直な作家論みたいになっちゃうけど、起こった出来事に対する葛藤を描きがちなタイプか、先読みで生じる内心の葛藤を描きがちなタイプかで分かれるのかもしれない。

雲雀 それはあるかも。創作というより実生活の話だけど、僕はどちらかというと起こった出来事に対処するのは苦手かもしれない。予見される不安と付き合うほうが得意というか、内心の葛藤をどうにか折り合いつけて何かを言ったりやったりする方向に持ち込む方が得意。

かんぼつ そういう意味だと俺は結構、思ったことを言わないで済ませちゃうことが多いな…これは雲雀と俺の『やが君』観の違いに関わっているのかも。つまり俺の方が共感できるキャラクターが多いのは、なかなか行動に移せないキャラが多いからなのかもしれない。まぁ話を戻すと『メモオフ』との共通点は「コミュニケーションによって人が変わっていく話」ってことかな。そこをもう少し突き詰めて考えていくと、もっとピンポイントな共通点を絞り込めるかもしれないね。

雲雀 そういうことですね。


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