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理念の明文化と、そのスキマ

 憲法学者やアナーキストでもなく、特定の政治思想を持つわけではない空っぽな僕が思ったことなので、この考え自体穴だらけなのだが、忘れないうちに書き記しておく。
 まだ誰も発見していない絶対的な正義が存在するとして、それは文章にできるものなのだろうかということだ。

 「何だか中二病くさいな。」そう思ったが、続けることにする。

 講義で名古屋テレビの『葬られた危機』を観て、思うところがあった。
 時は湾岸戦争に遡る。米ブッシュ大統領は日本政府に支援を要請。要望にすぐに応えたい日本だが、当時の憲法・法律は自衛隊の派遣を許さない。そこで政府が見出した方法が民間貨物船の派遣だ。憲法のスキマを見出したわけである。

 結果、交戦地域に民間人を送ることになった日本政府。(パトリオットミサイルでことなきを得た)しかしこれは彼らにとって問題ではない。なぜなら憲法に違反したわけではないからだ。

 ここから2015年の安保法案が可決されるまでの流れを考えて欲しい。湾岸戦争終結直後には「掃海部隊」の名目で自衛隊が派遣され、1992年にはPKO法案が可決された。憲法をしっかり読み込めばこの法案は、憲法の文章ではなく理念そのものに反すると僕は思う。しかしここで注意しなければならないのは、論点が憲法の内容だとか、改憲の是非ではないことだ。

 繰り返すが、論点は自衛隊の海外派遣の是非などではない。僕が言いたいのは、この国の正義の理念とされる憲法の表した真意ではなく、文章だけについて話し合っていないかということだ。大切なことは、書かれている文章について議論することではなく、内容そのものについて話し合うことではなかったか。

 考えれば、国や国同士だけでなく人間ふたりの関係すら、言葉の真意が伝わらずに瓦解しかねない。関係が壊れるのが怖いから言葉を伝えない?聞いたことがない。大切な人が幸せになるにはどうすればいいか絶えず考え、不完全な言語を通して伝え、受け取る人間も真意を汲み取る努力はするだろう。

 具体的方策について話し合う前に、自分たちが今何について議論しているのか、今一度考えてみる必要がある。そう思った。伝わるといいのだけれど。

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