恵比寿映像祭2023 大木裕之《meta dramatic 劇的》ー東出昌大のファンという角度から
2023年3月16日、「恵比寿映像祭2023」へ伺い、 大木裕之氏の作品《meta dramatic 劇的》を鑑賞した。
かねてより私が"推し"ている東出昌大が映像に出演しているらしいと聞いたからである。
本稿では、「東出昌大」という角度から、そして「東出昌大のファン」という自らの眼差しから、所管を述べてみたいと思う。
演出装置としての東出
本作品の形態は、「シングルチャンネル・ヴィデオ・インスタレーション」であると説明されている。
インスタレーションとは、展示空間を含めて作品とみなす手法を指す。
映像がスクリーンに投影される空間では、随時パフォーマンスも行われたという。
その中では、出演者である東出昌大もまた、演出装置の一部であったように見受けられた。
「メタ」という言葉
タイトルの「meta dramatic」を無理矢理和訳するならば、「ドラマティックの間」と解釈できるだろう。
メタという言葉には、「メタ発言」という言葉に代表される意味合いもある。対象を外部や上位から観察・俯瞰する立場や視点などをメタと表現する。
スクリーンでは、素肌をさらけながらライブパフォーマンスを行う中年の男性、談笑する女性、そしてアウトドアな装いに身を包んだ東出昌大の映像が、重なり、切り替わる。
その動画の中では出演者の正体や詳細は殆ど語られない。
私は、パフォーマーの中年男性や、画面中の女性たちのことを知らない。
ただ、作品鑑賞前から知っていた情報として、東出昌大がなぜアウトドアルックなのか、なぜ山中のテントのような場所に佇んでいるのか、そして彼はなぜその山中にいるのか、それらの理由はおぼろげに知っている。
すなわち、私は作品に対するメタな目線を予め持っていた。
〈ライブ/パフォーマンス〉と「Live」「Performance」
作品のSTATEMENTによると、製作者の大木氏の活動は、〈映画/映像〉と〈ライブ/パフォーマンス〉の領域を中心としているそうである。
東出もまた、その2つの領域を横断する人物である。
映画俳優である東出にとって、映像内に映ったアウトドアルックはオフの姿、いわば役者の仕事外の暮らし、すなわち「Live」を象徴する。猟師として、動物の命すなわち「Live」を奪うことが彼にとっての生活である。
では、この作品に出演した彼とは、「Live」を用いた「Performance」なのか?
2020年に不祥事を報じられて以来、ワイドショーや週刊誌によって、東出の「Live」は「Performance」として消費されてきた。
そして昨今では、半ば隠遁するように山へ移住した彼の生活そのものまでもが、観衆すなわち箱庭の外から彼を眺めるメタな眼差しによって消費されている。
それに対し、「生活の切り売りはしない」と東出ははっきりと表明するようになった。
演出装置としての東出ファン
同じく作品映像の出演者である中年男性は、生まれたままの姿でステージに立つ。いわば自らの「Live」のまま、「Performance」をしていた。
自ら望まないにも関わらず、「Live」を「Performance」として消費される東出。
自ら進んで、半裸でステージに立って、「Live Performance」を披露する男性。
その男性のことを知らず、ただ東出を見に来ただけの私には、ある種の強烈なコントラストに見えた。この認知や思考すらもが、インスタレーションの一部であったのかもしれない。
私の持っていたメタ的な情報が、詳細が語られることのない映像を補完している。
私もまた、「ドラマティックの間」に存在し、このインスタレーションを構成する一部であったと言えるだろう。
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