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ノンストップ・ストーリーからホロライブという「物語」についての一考察

 皆様におかれましては、Hololive 1st fes . ノンストップ・ストーリーを何度も周回して見ておられることかと思います。

まだ未視聴の方はこちらから、購入し見ることが出来ます。(見ることが出来る期限は2月10日の23:59で、つまり今日までです。なんてこった!)

https://secure.live.nicovideo.jp/event/nonstop_hololive

僕は既に10回見て10回泣きました

というわけで、ライブに関するネタバレも含みますが、考えた事柄を話していこうと思います。

ノンストップ・ストーリーを貫く基本的信念

 このライブを貫いている信念は紛れもなく、「おわらないホロライブ」です。「とまらないホロライブ」といっても良いかもしれません。これはホロライブ所属の一期生ときのそらちゃんが放送内で拾った「止まるんじゃねぇぞ...」というコメントに反応し、「止まらねぇぞ!」と返したのが元ネタとなっています。

 これはその元ネタを知らずにした反応ですが、それはずっとホロライブの根幹と共鳴し、ノンストップ・ストーリーという表題を飾るまでになりました。

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トレンドを独占する#とまらないホロライブの図

では、なにがおわらないのか?

 ここで指されているおわらないものとは、何でしょうか。この形容詞は後の名詞を修飾する。つまり、対象はホロライブであり、それ以外ではない。と言っているようです。

 では、ホロライブとは一体何でしょうか?Vtuber 事務所?株式会社COVERが運営している?それらは純然たる事実です。しかし、それはそのすべてについて語っている訳ではありません。記憶に対して、脳医学的な説明をしても記憶についての全てを語りきっていないという事と同じように?否、語り尽くす領域を限界付けられないようにです。

 ホロライブもまたその独自の部分を持っています。創造的な機構は常に知らないものを隠し持っているものですから、終わらないと事前に望まれたものがあります。

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ホロライブという一つの「物語」

それは既にノンストップ・ストーリーという表題の中で裏書されています。しかし、これは単なる比喩ではなく、決定的に「物語」なのだと読むことが出来るのではないでしょうか。このライブは観客無しで、成功し得たでしょうか?僕には到底そのように考えることはできません(ここでの成功とは個人に対して心動かすことを意味します)。会場勢、そして、媒体を通して視聴していた沢山のホロリスナー、あるいは、ライバーというリスナーが居てこそあの感動が、全身の震えが成立したのだと思うのです。

 『モモ』でご存じな方も多いかもしれませんが、ドイツ文学史に名を残した語り手ミヒャエル・エンデもこのように語っていす。

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「絵は見る人のなかで、物語は読む人のなかではじめて完成する」

しかし、それは一時的な完成にすぎません。断章は更新され、逆さまにして読むことが可能になります。つまり、語りが変わり読者が変わり続けることによって、完成しない、つまり「おわらない」という状況になるのです。

 しかし、このホロライブという「物語」はすこし奇妙な構造を持っています。語り手が読者に、読者が語り手になることが出来て初めて成立するということです。これは非常に不安定な、一つの言葉によって崩壊する可能性のある、そんな構造だと言えるでしょう。配信一つとっても双方がこのことをわきまえなければ致命傷になるかもしれません。 

 可能性、或いは確実性

ところで、「物語」とは可能性の形態素です。形態素とは簡単に言えば、言語学上の意味を担う最小単位のことですが、形態素は二つの種類に分かれます。

 拘束形態素は、意味は持っているものの、単独で語にはなれず、他の語と結びついて初めて語になれる形態素のことです。            例「走る」の「る」や「笑う」の「う」 

自由形態素は、単独で語となれる形態素です。             例「色」「青」「味」

 前述の文脈上で捉えなおそうとすれば、このようなことになるでしょうか。

 前者、拘束形態素、それは語り手の「物語」です。単独ではなにごとも意味しない、その「物語」は謂わば可能性への継起であり、言い換えれば自らの死を経験した他者です。詩という形態があんなにも響くのはこの性質によるのではないでしょうか。

 後者、自由形態素、可能性の単語であるこの「物語」は読者のものです。自らについて述べる口をなくしたもの。転じて価値について述べる感覚。すくなくとも、公に在らず、公共財ではない。ニーチェが既に喝破したように公共財とは価値なきものの死骸なのです。

 エンデはその著書『果てしない物語』のなかで物語が別の可能性へと開くたびに、向かうたびにこのように述べます。

「けれども、これは別の物語、いつか、また話すことにしよう。」

これは可能性の自由形態素の働きにめがけて放たれた矢。もし、物語が欠けたとしても、僕たちはこの姿勢を忘れてはならないと思います。

 そして、ホロライブという統合された可能性の中で恐らくですが、非常に重要なのはこの態度です。

語り得ぬことについては、沈黙しなければならない Ludwig Wittgenstein 

要するに、本人が誰かを求めるような輩などは蹴とばし続けなければいけないのである。これは、リスナーが気を付け、細心の注意を払わなければなりません。どこかにいなければいけない存在など、ただの案山子同然です。

最後に

いやーみんなかわいかったし、かっこよかったですね!僕が推している白上フブキちゃんも存分に、可愛くて可愛かった!アイドルをしてる白上を見ることが出来て感無量で何度も泣いてしまいました。スクショ下手くそ選手権優勝したので、良ければこのツイートにみなさんの推しの可愛いスクショを貼っていってください

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.....円盤まだですか?

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