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「勢」と「機」の歴史哲学〜頼山陽

1月の恒例行事『講書始の儀』が令和3年3月24日皇居であり、
ありがたいことに、テレ東で公開され、感謝💕
お一人目の揖保高 成蹊大学名教授
「勢」と「機」の歴史哲学ー【日本外史】の方法、
にとても感銘を受けたのでまとめてみました。

今、正に、民意が人の「思い・想い」で出来ていると感じられ、
歴史を変えられる事を頼山陽が教えてくれています。🌈🏹🧬
日本の政治が日本人でない人々の今だけ自分だけ劇場化しているのを見る昨今。
私達日本人も機を洞察して行動して、御先祖様が守ってきた美しい国土と大和魂・武士道というような『心』を大切に後世に伝えていく必要がある。


頼山陽(1781年〜1832年)の【日本外史】江戸後期から明治初めのベストセラー歴史文学。頭脳明晰で繊細のため精神不安定で神経症の発作をよく起こしていた。3年の座敷牢での蟄居。廃嫡処分。
歴史書の記述を志す。23年かけて『日本外史』を執筆。

頼山陽の歴史哲学は『勢』と『機』によって説明できる。
晩年【日本政記】神武天皇から後水尾天皇の通史 の巻9
「師に尊ぶ処の者は、時を知るを持ってなり、時に勢あり、機あり、
勢の推移するところ、機の起伏するところは必ずしも知り難きにあらざるなり。
しかるに、これを知るなきは覆うところあるのみ」

歴史を展開させる要因には
「勢」と「機」があり、2つの要因が、相互に絡み合って歴史は推移するが、
覆い隠されていて歴史の表面には現れないものである。
しかし、世を治める者には、この2つを深く洞察する事は重要だ。

【通議】:経世論(幕府への政策の提案)
論「勢」:
歴史の推移の原動力は「勢」であり、
人間の力を超えたものとして存在している。「勢」をコントロールする役割を人間が担っており、
歴史に働きかけようとする人間は「勢」を知らなければならない。
人智を超えた歴史の原動力である「勢」に対し
人間が歴史に関わり得るという概念が「機」

論「機」:機は個人間・組織間でもあらゆる局面に存在する。もっとも大きい局面は天下。停止することなく常に変化しているのが「機」。
【説文解字】機:発するを司るこれを機という。
弩弓から
物事や局面に次の動きをもたらす仕掛け装置のようなものと捉えることができる。

歴史を動かす時間的変化の概念を「勢」、一瞬一瞬の空間的力学構造を「機」と名付けた。  この二つの要素が相連動しながら歴史は展開する。

「勢」によりもたらされる治乱興亡(政治権力の推移)付帯的ありかたには、局面の機を洞察し、それ働きかけて新たな「機」を作り出すことにより
人間がコントロールすることは可能である。

常に変化している歴史局面の「機」に働きかけることにより人間は歴史を具体化することができる。

歴史資料や文学作品から得た個別具体的な史実を整理し、関連付ける作業を積み重ねる中で到達できた概念であった。
武家900年の治乱攻防のうねりと人間の姿をダイナミックに描くことに成功した。幕末明治期に多くの人を奮い立たせたのではなかったか?

現在の人を奮い立たせる読み物は何かあるのか?
思想がない現在、DNAに刻まれた大和魂や武士道を思い出す機が必要だ。

2021年5月2日宮内庁ホームページに原稿がありました👇ので追記します。
「勢」と「機」の歴史哲学-『日本外史』の方法
成蹊大学名誉教授
日本学士院会員
揖斐 髙

頼山陽は47歳の文政9年(1826)に『日本外史』を完成させました。以後,幕末から明治にかけてこの書物は多くの人々に読まれてベストセラーになり,その一部は英語・フランス語・ロシア語などにも翻訳されて,著者の頼山陽は「文豪」と称されるようにもなりました。
『日本外史』は平安時代中期における源・平二氏に代表される武家の登場に始まり,源頼朝によって鎌倉幕府が開かれて以後,室町幕府,戦国時代を経て,江戸幕府の創設から江戸幕府第11代将軍徳川家斉に至るまで,およそ900年に及ぶ武家政権の移り変わりを紀き伝体でんたいの形式で記した漢文体の歴史書ですが,同時に歴史に登場する人物たちの表情と行動を生き生きと描く文学作品でもあったことが,著者頼山陽が「文豪」と称された理由であろうと思います。
『日本外史』が優れた歴史書であるとともに,人々をひきつける歴史文学でもあり得たのは,歴史というものは何を原動力にして展開して行くものなのか,そしてその歴史の展開に人間はどのように関わり得るのかという,著者頼山陽の歴史哲学によるところが大きかったように思われますが,そのことを申し上げる前に,まず『日本外史』という書物がなぜ頼山陽によって書かれたのかということに触れておきたいと思います。
頼山陽は大坂の町儒者頼春水の息子として大坂に生まれましたが,父春水が広島藩儒に招へいされたため,一家は大坂から広島に移り住みました。山陽は頭脳明晰な子どもだったようですが,そうした子どもにありがちな神経過敏なところもあったようで,幼い頃から時々突発的に精神が不安定になる神経症の発作を起こしていたことが,父春水や母梅ばい颸しの日記によって知られます。
寛政12年(1800)21歳の山陽は,頼家の本家があった竹原の大叔父が亡くなったため,父春水の名代として竹原まで弔問に出かけました。その時,父の春水は江戸藩邸に赴任中で広島を留守にしていたからです。ところが,広島から竹原への道中で持病の神経症の発作を起こした山陽は,突如姿をくらまして広島藩を脱藩し,京都に潜伏しました。2週間ほど後に京都で身柄を確保された山陽は広島に連れ戻され,屋敷内に急きょ造られた座敷牢に閉じ込められ,頼家の跡継ぎとしての身分を解かれる,いわゆる廃嫡処分を受けました。
座敷牢での3年に及ぶ幽閉生活の中で,山陽は自らが招いた失態によって無用者になってしまった自分自身の存在価値を世間に向けて証明するために,本格的な歴史書を著述したいと思うようになりました。山陽が歴史書の著述に取りかかったのは,座敷牢に幽閉されて3年目の享和3年(1803)24歳の頃だと推測されます。その後の執筆過程においては,当初予定した書名だけでなく構想や内容もしばしば大きく変更されましたが,23年後にようやく『日本外史』22巻として完成されました。
このようにして完成された『日本外史』の根底を形作っている山陽の歴史哲学は,「勢」と「機」という概念で説明することができるように思います。山陽は『日本外史』の完成後,晩年に『日に本政ほんせい記き』というもう1つの歴史書の編さんに取り組みました。この『日本政記』という歴史書は,神武天皇に始まり江戸時代初期の後陽成天皇に至る,歴代天皇を標目として記述した編年体の日本通史ですが,その巻九の「崇徳天皇」の条に次のような文章があります。

頼襄のぼる(襄は山陽の名です)曰く,士に貴ぶ所のものは,その時を知るを以てなり。時に勢有り,機有り。勢の推移する所,機の起伏する所は,必ずしも知り難きに非ざるなり。而しかるにこれを知る莫なきは,蔽おおふ所有るのみ。

つまり,「時」すなわち歴史を展開させる要因には「勢」と「機」というものがあり,この2つの要因が相互に絡み合って歴史は推移するが,この2つの要因は覆い隠されていて歴史の表面には現れないものである。しかし,世を治めるという任務を負う武士にとって,歴史を展開させる要因である「勢」と「機」を深く洞察することは重要だと言っているのです。
山陽のいう歴史における「勢」と「機」という概念を,もう少し詳しく御説明したいと思います。山陽は『日本外史』の著述と並行して『通つう議ぎ』という書物を執筆していました。この『通議』という書物は,現実の幕府政治に対する批判的な視点から,どのような政策が採用されるべきかを提言した経世論けいせいろんとして書かれたもので,全部で18の論からなっていますが,その中に「論勢」(勢を論ず),「論機」(機を論ず)という論が含まれており,山陽が「勢」と「機」という歴史哲学上の概念をどう捉えていたかが明らかにされています。まず「論勢」において,「勢」というものを,山陽は次のように説明しています。

天下の分合ぶんごう,治ち乱らん,安あん危きする所以ゆえんの者は勢なり。勢なる者は漸ぜんを以て変じ,漸を以て成る。人力の能く為す所に非ず。而るにその将まさに変ぜんとして未だ成らざるに及びて,因りてこれを制せい為いするは,則ち人に在り。人は勢に違たがふこと能はず。而して勢も亦た或いは人に由りて成る。苟いやしくも諉ゆだねて是れ勢なりと曰ひて,肯あへてこれが謀はかりごとを為さざる,これが謀はかりごとを為してその勢に因らざるは,皆な勢を知らざる者なり。

「天下の分合ぶんごう,治ち乱らん,安あん危き」すなわち歴史の推移ということですが,その推移の原動力が「勢」であり,この「勢」は人間の力を越えたものとして存在していると山陽はまず言います。そして,「勢」が人知を越えたものであるならば,人間は歴史の推移に対して無力なのかというと,決してそうではなく,その「勢」を「制為」(コントロール)する役割を人間は担っており,何よりも歴史の「勢」というものは人間によってしか現実化されないものであるから,歴史に働きかけようとする人間は「勢」というものを知らなければならない,と述べているわけです。
こうした人知を超えた歴史の原動力である「勢」に対し,人間が歴史に関わり得るという根拠を示すために提示された概念が「機」という概念です。山陽は『通議』の中の「論機」において,「機」というものを次のように説明しています。

機に非ざるは無きなり。機の物に在る,その最も大なる者は天下為たり。天下は善く動くの物なり。抑おさふれば則ち昂たかまり,揚あぐれば則ち伏ふす。揺撼ようかん(揺れ動くこと)には易く,維い制せい(コントロール)には難し。之を百世の久しきに維制し,而して揺撼無からしむるには,必ずその機有り。機の最大にして善く動く者も亦た之を制するに機を以てす。機なる者は一日に万変ばんぺんし,来去して窮まり無き者なり。

「機」というものはあらゆる局面に存在すると山陽は言います。例えば個人と個人との関係,あるいは小さな集団や組織の中などにもありますが,「機」の存在する最も大きな局面は「天下」であると述べています。しかも,その「機」というものは一瞬たりとも停止することなく,常に変化しているとも言っています。
そもそも「機」という漢字のもともとの意味は,中国の後漢の許慎きょしんという学者が著した『説文解せつもんかい字じ』という書物に,「発はつするを主つかさどるこれを機と謂いふ」と解説されていますように,古代中国の弩ど弓きゅうという大型のバネ仕掛けの弓の発射装置を意味していました。つまり,「機」とはさまざまな物事や局面において,その物事や局面に次の動きをもたらす装置(仕掛け)のようなものを意味していると捉えることができます。歴史の一瞬一瞬における力学的な構造,しかもそれは刻々のうちに変化している,それを山陽は「機」と呼んだわけです。
つまり,山陽は歴史を動かす原動力の時間的な変化の概念を「勢」と名付ける一方,歴史を動かす原動力の一瞬一瞬の空間的な力学構造を「機」と名付け,この2つの要因が相連動しながら歴史は展開すると説明したのです。「勢」によってもたらされる歴史上の治乱興亡すなわち政治権力の推移というものを,人間は大局的にはあるいは究極的には変更することはできないと山陽は言います。しかし,「勢」によってもたらされる歴史上の治乱興亡の具体的なあり方については,歴史における一瞬一瞬の局面の「機」を洞察し,それに働きかけて新たな「機」を作りだすことによって,人間がコントロールすることは可能であると山陽は考えました。つまり常に変化している歴史的な局面の「機」に働きかけることによって,人間は歴史のあり方に積極的に関与でき,歴史を具体化することができると山陽は捉えたわけです。こうした歴史における「勢」と「機」という概念設定と,両者の相関的な関係の認識にこそ,山陽の歴史哲学の特徴がありました。
山陽の父の頼春水は江戸時代後期を代表する朱子学者の1人でしたので,山陽もまた儒学の系統としては朱子学を学びました。したがって,儒教的な,とりわけ朱子学的な歴史観によって著述された中国宋の時代の司馬しば光こうの『資治通しじつ鑑がん』や朱しゅ熹きの『資治通しじつ鑑綱目がんこうもく』に見られる勧善懲悪的な鑑戒かんかい史し観かんや,時の政治権力が正しい名分めいぶんを有する正統であるのか,あるいは名分を乱す閏じゅん統とうであるのかを明確にして歴史を批評する名分史観の影響下に山陽の『日本外史』があったことは否定できません。しかし,このような儒教的な名教主義的歴史観だけを遵守して書かれた歴史書というものは,結果的には後の時代の視点に立って歴史を裁断するという静止的スタティックなものにならざるをえません。もし山陽がこうした儒教的・朱子学的な歴史観だけによって『日本外史』を著述したとすれば,『日本外史』は多くの人々に読まれる躍動的ダイナミックで魅力的な歴史書にはならなかったでしょう。
山陽の「勢」と「機」の歴史哲学は,『日本外史』の20数年に及ぶ長い執筆期間中に,古代中国の兵法書『孫そん子し』や前漢の賈誼かぎの『新書しんじょ』などからの影響も受けつつ,歴史資料や文学作品から得た様々な個別具体的な歴史的事実を整理し関連づける作業を積み重ねる中で,ようやく到達することができたものでした。山陽は「勢」と「機」の歴史哲学に到達したことによって,『日本外史』に武家900年の治乱興亡のうねりと,その間の歴史の局面局面における人間の姿をダイナミックに描くことに成功しました。歴史に対し積極的に働きかけて,ある者は勝者となり,ある者は敗者となって歴史を展開させていった,そのような『日本外史』に描かれた人間たちの姿が,幕末・明治維新期という歴史の転換点に直面して歴史に働きかけようとした多くの人々を奮い立たせたのではなかったかと思います。

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